Ⅲ 密室に現れた聖遺物
聖光教会では、奇跡を三つに分類する。
第一は、神の恩寵によって人間に与えられるもの。病を癒やす力や、傷を塞ぐ力などがこれにあたる。
第二は、自然の中に現れるもの。季節外れに咲く花や、長い旱魃の末に降る雨などである。
第三は、人間の理解を超えた現象として現れるもの。何もない場所から物が生じたり、死者が蘇ったりするような出来事が、それにあたる。
もっとも、リリー・ベルンシュタインは、この分類について一つだけ疑問を持っていた。
第二と第三の違いが、いまひとつ明確ではないのである。
たとえば、長い旱魃の末に雨が降ったとする。
農民は喜ぶだろう。司祭は神に感謝するだろう。
しかし、気象学者は雲の動きを調べるかもしれない。
その場合、雨は奇跡なのか、自然現象なのか。
リリーには、どちらでもよいように思えた。
雨が降れば、畑は潤う。
その事実は、誰がどのように解釈しようと変わらない。
ただし、雨が降っていないのに、誰かが「神の恵みで畑が潤った」と言い張った場合は別である。
そのときは畑を見に行く必要がある。なにしろ、作物は嘘をつかない。
人間は、時々つくのだが。
*
朝七時半。中央大聖堂の東棟にある食堂で、リリーは温かい麦粥を食べていた。
向かいの席では、アデル・フォン・クラウゼンが、少し険しい顔をしている。
「リリー様?」
「はい」
「昨日は、何時にお休みになったんですか?」
「三時を少し過ぎた頃です」
「またですか!」
アデルは匙を置いた。
「一昨日も同じくらいでしたよね?」
「はい」
「身体を壊しますよ!」
「そうですね」
「そうですね、ではありません!」
リリーは麦粥を一口飲んだ。
昨日、初代聖女像が血の涙を流した事件について調べていたため、就寝したのは午前三時を過ぎていた。
それでも、今日は午前八時にエドガー司教との面会が予定されている。
寝坊するわけにはいかなかった。
「ところで、アデルさん」
「何でしょう?」
「三年前の特別予算について、少し考えていました」
「また帳簿ですか……」
「はい」
リリーは手帳を開いた。
昨日見つけた記録には、三年前から続く特別予算が記されていた。
導水管。小型弁。金属容器。
そして、用途不明の設備更新費。
その余白には、奇妙な書き込みがあった。
『第三次試験設備更新費』
「第三次試験ということは、少なくとも三回目の試験だった可能性があります」
「そうですね」
「でも、何の試験だったのか、わかりません」
「では、今日、司教様に聞いてみましょう」
「そのつもりです」
リリーは頷いた。
「ただ、一つ気になることがあります」
「何ですか?」
「三年前の設備が、今も使える状態だったとしたら、今回の血涙の仕掛けは、必ずしも最近作られたものではありません」
アデルは少し考えた。
「……つまり、昔からあった仕掛けを、誰かが使ったかもしれない?」
「そうです」
リリーは微笑んだ。
「誰が作ったかと、誰が使ったかは、別の問題ですから」
アデルは、しばらく彼女を見つめていた。
「リリー様」
「はい」
「あなた、どうしてそんなに疑うんですか?」
リリーは少し考えた。
「疑っているというより、分けているんです」
「分ける?」
「わかっていることと、わかっていないことを」
アデルは、何とも言えない顔になった。
「……それができる人ばかりなら、世の中はもっと平和でしょうね」
「そうかもしれません」
リリーは、残りの麦粥を食べ終えた。
「では、行きましょう」
*
午前八時。財務局の応接室には、エドガー司教と二人の男が待っていた。
一人は若い書記官。もう一人は、日に焼けた顔に太い指をした、五十歳ほどの石工だった。
「ヘルマン・ロイスと申します」
男は帽子を取った。
「先月、西礼拝堂の台座を修理した者です」
「リリー・ベルンシュタインです。お時間をいただき、ありがとうございます」
リリーが一礼すると、エドガーは机の向こうから冷ややかに言った。
「昨日、君が何を疑っていたのかは聞いている。聖女像の涙が人為的なものだと言いたいのだろう?」
「その可能性を調べています」
「神聖な儀式の最中に、根拠のない疑惑を広められては困る」
「ですから、根拠を確認しに参りました」
エドガーの眉が動いた。
アデルは隣で小さく咳払いした。
「リリー様、言い方を……」
リリーは石工へ向き直った。
「ロイスさん。先月の工事について教えてください」
ロイスは頷いた。
「台座の内部に亀裂がありましてな。放っておくと像が傾くおそれがあったんです。それで、古い石を取り除いて、新しい石材で補強しました」
「導水管も購入されていますね」
「ええ」
「何のために?」
「古い排水設備の交換ですよ。礼拝堂の床下には、昔の水路が残っているんです。雨が多い時期には水が溜まるので、台座の下に排水管を通しました」
「その管は、石像の内部にも通っていますか?」
「いえ。台座の下だけです」
「石像の目尻に小さな穴がありますが、ご存じですか?」
「目尻?」
ロイスは首を傾げた。
「いや。像そのものには触れていませんから」
「そうですか」
リリーは手帳に書き込んだ。
「では、三年前の工事については?」
ロイスの表情が変わった。
「三年前?」
「同じ西礼拝堂で、導水管や弁、金属容器が購入されています」
「ああ……」
彼は少し考えた。
「その工事なら、俺じゃありません。別の職人組合が請け負ったはずです」
「記録はありますか?」
リリーはエドガー司教を見た。
司教は指を組み、静かに答えた。
「三年前の工事は、前任の財務責任者が担当していた。私が着任したのは二年前だ」
「そうでしたか」
「古い設備の修繕は、どこの教会でも行われている。それだけで疑惑を抱くのは早計ではないかね?」
「おっしゃるとおりです」
リリーは素直に頷いた。
エドガーは、少し意外そうな顔をした。
「ただ、もう一つ質問があります」
「何だね」
「三年前の予算書に、『第三次試験設備更新費』という記載がありました」
エドガーの指が止まった。
「……何?」
「第三次試験とは、何の試験でしょうか?」
司教はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「その記載は、どこにあった?」
「特別予算項目第七号の余白です」
「……なるほど」
エドガーは椅子にもたれた。
「古い会計記録には、当時の担当者が便宜的に書き込んだ注記も多い。正式な文書ではないのだろう?」
「そうかもしれません」
「ならば、それ以上の意味はない」
「では、当時の担当者に確認しても?」
エドガーはリリーを見つめた。
「君は、ずいぶん熱心だな」
「気になるので」
「聖女候補としての試練は、ほかにもあるのだぞ」
「承知しています」
「では、そちらに専念したまえ」
リリーは少し考えた。
「司教様」
「何だね」
「聖女候補は、疑問を持ってはいけないのでしょうか?」
「そうは言っていない」
「では、調べてもよろしいですね?」
エドガーは答えなかった。
アデルは隣で、静かに顔を伏せた。
*
午前八時四十分。リリーとアデルは、財務局の応接室を出た。
「リリー様」
アデルが小声で言った。
「もう少し、穏便にできませんか」
「十分穏便だったと思います」
「司教様、最後はかなり怒っていらっしゃいましたよ」
「そうですね」
「怖くないのですか?」
「怖いですよ」
「では、どうして……」
「質問に答えていただけなかったので」
リリーは手帳を閉じた。
「でも、少しわかったことがあります」
「何ですか?」
「エドガー司教は、三年前の工事について詳しく知らないとおっしゃいました」
「はい」
「それ自体は本当かもしれません。着任したのが二年前なら、当時の事情を知らなくても不思議ではありませんから」
「では、疑う理由はないのでは?」
「ええ。少なくとも、三年前の工事を司教様が直接指示したとは言えません」
リリーは廊下の窓から外を見た。
「ただ、あの方は『第三次試験』という言葉を聞いたとき、少し驚いたように見えました」
「それは……」
「知っているから驚いたのか、知らない言葉だったから驚いたのか。そこまではわかりません」
アデルはしばらく黙っていた。
「リリー様は、どうしてそこまで細かく人を見ているんですか?」
「帳簿を見ていると、数字の違いが気になるんです」
「人間は数字ではありませんよ」
「そうですね」
リリーは微笑んだ。
「だから、もっと難しいんでしょうね」
アデルは返事に困った。
そのときだった。
大聖堂の奥から低い鐘の音が三度、響いた。
アデルの顔色が変わった。
「……封印の鐘?」
「何ですか、それは?」
「聖遺物庫で重大な異変が起きたときに鳴らされる鐘です」
廊下の向こうから、数人の修道士が走ってきた。
「大変だ!」
一人が叫んだ。
「封印の祭壇室に、失われた聖遺物が現れた!」
リリーとアデルは顔を見合わせた。
「……またですか」
リリーが呟いた。
「また、とは何ですか!」
「奇跡ですよ」
「奇跡が続くのは素晴らしいことでしょう!」
「そうですね」
リリーは歩き出した。
「ただ、今度はどんな仕組みなのか、気になります」
「最初から仕組みだと決めつけないでください!」
*
聖遺物庫は、大聖堂の地下にあった。
長い石段を降りた先に、重厚な鉄扉がある。
扉には三つの錠前が取りつけられ、さらに赤い蝋で封印が施されていた。
その前には、すでに大勢の聖職者が集まっている。
オルフェン枢機卿もいた。
彼はリリーの姿を見ると、わずかに目を細めた。
「ベルンシュタイン嬢」
「おはようございます」
「……もう昼近いが」
「では、こんにちは」
枢機卿は一瞬だけ言葉を失った。
アデルが横で呻いた。
リリーは扉へ視線を向けた。
「聖遺物が現れたと聞きました」
「そうだ」
オルフェンは頷いた。
「今朝、定例の封印確認を行ったところ、祭壇室の内部に、失われたはずの聖遺物が出現していた」
「どのような聖遺物ですか?」
「初代聖女エリシアが身につけていたとされる、銀の首飾りだ」
枢機卿は厳かに告げた。
「〈《《暁の涙》》〉と呼ばれる聖遺物である」
アデルが息を呑んだ。
「暁の涙……!」
「ご存じですか?」
「もちろんです! 初代聖女が最後の祈りを捧げたとき、その涙が銀の首飾りになったという伝説の品です!」
「なるほど」
リリーは頷いた。
「では、実物が存在していたんですね」
「百年前の大火で失われたとされていた」
「そうですか」
リリーは扉を見た。
「それが、突然ここに現れたと」
「その通りだ」
「どこに?」
「祭壇の上だ」
「誰が発見したんですか?」
「封印を確認していた管理官だ」
「封印は破られていなかったんですか?」
「いなかった」
オルフェンは重々しく答えた。
「三つの錠前はすべて施錠され、蝋印にも破損はなかった。扉が開かれた形跡はない」
リリーは少し考えた。
「それなら、どうして内部に首飾りがあるとわかったんでしょう」
枢機卿は、扉の上部を指した。
そこには、掌ほどの小さな覗き窓があった。厚い透明な鉱石板がはめ込まれており、外から内部を確認できるようになっている。
「管理官は毎朝、この窓から祭壇室の内部を確認する。今朝、その祭壇の上に首飾りが置かれていたのだ」
リリーは覗き窓へ近づいた。
内部は薄暗い。奥に小さな祭壇があり、その中央に銀色のものが置かれている。
確かに、首飾りのように見えた。
「昨日はなかったんですか?」
「なかった」
「確認した方は?」
「管理官が記録している」
「記録を見せていただけますか?」
オルフェンは少し考え、それから頷いた。
「よかろう」
*
祭壇室の管理官は、老齢の修道士だった。
名をグレゴールという。七十歳近いというが、背筋はまっすぐ伸びている。
「私は二十年以上、この祭壇室を管理しております」
グレゴールは誇らしげに言った。
「毎朝、封印と内部の状態を確認し、記録をつけております」
「昨日の記録を見せてください」
リリーが頼むと、彼は分厚い台帳を差し出した。
昨日の日付。
『封印異常なし。内部異常なし。祭壇上に物品なし』
今日の日付。
『封印異常なし。内部に銀製首飾りを確認』
リリーは記録を読み、顔を上げた。
「昨日の確認は何時ですか?」
「午前六時です」
「今日も?」
「同じです」
「夜間の見回りは?」
「二時間ごとに衛兵が巡回しております」
「扉の鍵は誰が管理していますか?」
「三つの鍵は、それぞれ別の者が管理しております」
「どなたですか?」
「第一の鍵は私。第二の鍵は財務局長。第三の鍵は枢機卿猊下です」
リリーは手帳に書き込んだ。
「では、三人が揃わなければ扉は開けられないんですね」
「その通りです」
「蝋印は?」
「枢機卿猊下の印章で封じられております」
「なるほど」
リリーは頷いた。
確かに、厳重な管理だった。
三つの鍵。蝋印。夜間の巡回。そして、毎朝の内部確認。
これらがすべて正しく機能していたなら、誰かが首飾りを持ち込むのは困難に思える。
しかし、リリーには一つ、引っかかることがあった。
「グレゴールさん」
「何でしょう」
「この祭壇室は、最後にいつ開けられましたか?」
「……三日前です」
リリーは顔を上げた。
「三日前?」
「はい。聖女選定の準備として、内部の清掃と点検が行われました」
「そのとき、首飾りは?」
「ありませんでした」
「確認したんですか?」
「もちろんです」
「誰が?」
「私です」
リリーは少し考えた。
「そのとき、ほかに誰が入室しましたか?」
「清掃担当の修道士が二名。それから、財務局の職員が一名です」
「財務局?」
「ええ。祭壇の備品を確認するために」
リリーは手帳を閉じた。
財務局。また、その名前が出てきた。
偶然かもしれない。
しかし、三つの事件のいずれにも、財務局が関係している。
毒杯の祭具管理。
聖女像の補修工事。
そして、祭壇室の備品点検。
リリーは、静かに息を吐いた。
*
午前十一時。リリーは、祭壇室の前に戻ってきた。
アデルは、少し離れた場所で衛兵と話していた。
リリーは覗き窓の前に立った。
内部の祭壇には、銀の首飾りが置かれている。
彼女はしばらくそれを眺めていた。
やがて、あることに気づいた。
祭壇の上には、首飾りだけでなく、小さな銀の台座が置かれている。
その台座の下に、細い影が見えた。
リリーは目を細めた。
「……あれは……」
彼女は、もう一度覗き込んだ。
台座の影は、左右でわずかに違っている。
片側だけ、石床との間に細い隙間があるように見えた。
リリーは手帳を開き、簡単な図を描いた。
祭壇。台座。首飾り。そして、隙間。
そのとき、アデルが戻ってきた。
「リリー様。何かわかりましたか?」
「少しだけですが」
「本当ですか?」
「ええ」
リリーは図を見せた。
「この台座、少し浮いているように見えませんか?」
アデルも覗き込んだ。
「……言われてみれば、そうですね」
「祭壇の表面に、何か仕掛けがあるのかもしれません」
「仕掛け?」
「はい」
リリーは頷いた。
「たとえば、台座の下に小さな昇降装置があれば、首飾りを祭壇の内部から押し上げることができます」
「そんなことができるんですか?」
「できるかどうか、確かめる必要があります」
リリーは、祭壇の奥を指した。
「それに、あの装飾柱の根元です」
アデルは覗き込んだ。
「……小さな穴がありますね」
「はい」
リリーは頷いた。
「何かを通すための穴かもしれません」
アデルは、しばらく黙っていた。
「……リリー様」
「はい」
「それって、奇跡ではないんですか?」
「仕掛けがあれば、奇跡ではありません」
「でも、誰がそんなことを……」
「そこが問題です」
リリーは手帳を閉じた。
「それに、もう一つ問題があります」
「何でしょう?」
「何故、今なんでしょう?」
アデルは首を傾げた。
「今?」
「三日前に仕掛けたとしても、首飾りを出現させる時刻は自由に選べたはずです」
「そうですね」
「それなのに、昨日の血涙の翌日に出現した」
リリーはゆっくりと言った。
「偶然にしては、少し都合がよすぎませんか」
*
午後一時。リリーは、祭壇室の管理台帳をもう一度調べていた。
グレゴールは、彼女の質問に辛抱強く答えてくれた。
「三日前の清掃と点検は、何時から何時まででしたか?」
「午前九時から十一時までです」
「その間、誰がどこにいたか、覚えていますか?」
「清掃担当の修道士二名は、床と壁を掃除しておりました。財務局の職員は、祭壇の備品を確認しておりました」
「祭壇の内部も?」
「ええ。台座の下を開けて、金具の点検をしておりました」
リリーは顔を上げた。
「台座の下を?」
「はい。古い祭壇ですから、内部に補強金具があるのです」
「そのとき、何か不審なものは?」
「……いいえ」
「では、財務局の職員は、何をしていたんでしょう」
「金具の状態を調べ、必要な箇所に油を差しておりました」
リリーは手帳に書き込んだ。
「その職員の名前は?」
「レオポルト・ヴァイスです」
「今も財務局に?」
「ええ」
「わかりました」
リリーは頷いた。
「ありがとうございます」
管理台帳を閉じたとき、彼女は一つのことに気づいた。
三日前の清掃記録。
そこには、備品点検の担当者として、レオポルト・ヴァイスの名前が記されていた。
しかし、その横に、小さな印が押されている。
財務局の正式な印章ではない。
簡略化された、個人用の確認印だった。
リリーは、しばらくその印を見つめていた。
「……グレゴールさん」
「何でしょう?」
「この印は、誰のものですか?」
「ヴァイス職員のものです」
「本人が押したんですね」
「そうです」
「では、ほかの記録にも、同じ印がありますか?」
グレゴールは頁をめくった。
「……ありますな」
リリーは、過去の点検記録を見せてもらった。
同じ印。同じ筆跡。そして、同じ担当者。
レオポルト・ヴァイスは、少なくともここ数か月、祭壇室の備品点検を担当していた。
リリーは、静かに息を吐いた。
これで、祭壇室の仕掛けを設置できた人物の候補が、一人増えた。
しかし、それだけでは犯人とは言えない。
むしろ気になるのは別のことだった。
何故、三日前の点検で、わざわざ台座の下を開けたのか。
そして、なぜ、その作業を管理官の目の前で堂々と行ったのか。
リリーは、手帳に一行だけ書き込んだ。
『隠す必要のない作業だった?』
*
午後三時。中央大聖堂の本堂では、オルフェン枢機卿による声明が発表された。
三つの奇跡が続いたことを受け、聖女選定は予定どおり明日までに終了するという。
参列者たちは、再び奇跡の報せに沸き立った。
毒杯からの蘇生。
聖女像の血涙。
そして、失われた聖遺物の出現。
三日間で三つの奇跡が起きたのである。
教会は、これを神の祝福の連続と解釈した。
リリーは後方の席で、その声明を聞いていた。
隣にはアデルがいる。
セレスティアは祭壇の前に立ち、どこか不安そうな表情を浮かべていた。
人々は彼女を見つめ、口々に聖女様と呼んでいる。
しかし、本人は一度も、自分が聖女だと名乗っていなかった。
リリーは、そのことが気になった。
昨日もそうだった。
司祭を救ったあと、セレスティアは自分の力を誇ることなく、ただ司祭の容体を気遣っていた。
それなのに、周囲の人々は、彼女の行動を次々と奇跡の証明に結びつけている。
リリーは静かに考えた。
もし、三つの奇跡がすべて人間の仕掛けだったとしたら、誰が得をするのか。
最も得をするのは、聖女に選ばれるセレスティアのように見える。だが、本当にそうだろうか。
もし仕掛けが暴かれれば、彼女はどうなる。
奇跡を偽装した聖女候補として、疑惑を向けられるのではないか。たとえ本人が何も知らなくても。
そのとき、リリーの胸に、一つの考えが浮かんだ。
三つの奇跡は、セレスティアを聖女にするためのものではない。
むしろ、彼女を聖女にできなくするためのものではないか。
リリーは、思わず顔を上げた。
祭壇の上では、オルフェン枢機卿が厳かな声で祈りを捧げている。
その隣に、エドガー司教が立っていた。
司教の顔には、何の感情も浮かんでいない。
リリーは、その横顔を見つめた。
財務局。三年前からの特別予算。聖女像の補修工事。祭壇室の備品点検。そして、選定期間の短縮。
すべてが一つの線でつながるとしたら──
そこには、単なる奇跡の偽装以上の目的があるのかもしれない。
*
その夜。リリーはセレスティアの部屋を訪ねた。
白い礼装を脱ぎ、簡素な寝間着に着替えたセレスティアは、少し驚いた顔で彼女を迎えた。
「リリー様。こんな時間に、どうなさいました?」
「少し、お話を伺いたくて」
「もちろんです。どうぞ」
部屋には、花の香りが漂っていた。
窓辺には小さな花瓶が置かれ、白い花が数輪生けられている。
リリーは椅子に腰を下ろした。
「セレスティア様」
「はい」
「昨日、マティアス司祭を救ったときのことを覚えていますか?」
「ええ」
「あなたは、あのとき何をしたのでしょう」
セレスティアは少し考えた。
「いつもと同じように、祈りました」
「祈っただけですか?」
「はい。病人を癒やすときは、いつもそうしています」
「光が出ましたね」
「ええ」
「その光が、どんな働きをするのか、ご存じですか?」
セレスティアは首を横に振った。
「詳しいことは、私にもわかりません。ただ、祈ると、苦しんでいる人が楽になることがあるんです」
「治らなかったことも?」
「あります」
彼女は静かに答えた。
「何度祈っても、助けられなかった人もいました」
リリーは黙った。
セレスティアは窓の外を見た。
「だから、私は自分の力が奇跡なのかどうか、よくわからないんです」
「……そうですか」
「でも、もし誰かを助けられるなら、それでいいと思っています」
リリーは、その言葉をしばらく考えていた。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「あなたは、聖女になりたいのですか?」
セレスティアは驚いたように目を瞬いた。
そして、少し困ったように笑った。
「……正直に言っても、よろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「怖いのです……」
その声は、ひどく小さかった。
「皆さん、私を聖女様と呼んでくださいます。でも、私は普通の人間です。……失敗もしますし、間違えることもあります」
彼女は膝の上で手を重ねた。
「それなのに、聖女になったら、もう間違えてはいけないような気がして」
リリーは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「間違えてもいいと思います」
セレスティアが顔を上げた。
「神様は間違えないそうですが、人間は間違えますから」
「……ふふ」
セレスティアは小さく笑った。
「リリー様らしいですね」
「そうでしょうか」
「ええ」
彼女は少しだけ表情を和らげた。
「あなたは、聖女になりたいですか?」
「いいえ」
リリーは即答した。
セレスティアは目を丸くした。
「そんなに迷わず……?」
「仕事が増えます」
「お仕事?」
「地方修道院の帳簿だけでも大変なのに、王国全体の祝福だなんて、とても手が回りませんもの」
セレスティアは声を立てて笑った。
その笑顔を見て、リリーは少し安心した。
だが、彼女にはまだ、聞かなければならないことがあった。
「セレスティア様」
「はい」
「もし、あなたのために誰かが奇跡を偽装していたとしたら、どうしますか?」
笑顔が消えた。セレスティアは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……それは、悲しいことですね」
「何故です?」
「私が本当に誰かを助けられたとしても、皆さんは信じてくださらなくなるでしょうから」
リリーは頷いた。その通りだった。
偽装された奇跡が暴かれれば、本物の奇跡まで疑われる。
そして、疑惑を向けられるのは、偽装した人物ではなく、奇跡の中心に立たされた少女かもしれない。
「では、もう一つ」
リリーはセレスティアを見つめた。
「あなたは、誰かに奇跡を起こすよう命じられたことがありますか?」
セレスティアの指が、わずかに動いた。
ほんの一瞬だった。
だが、リリーはそれを見逃さなかった。
「……どうして、そんなことを?」
「気になったので」
セレスティアは目を伏せた。
しばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「……あります」
リリーは息を止めた。
「誰にです?」
セレスティアは答えなかった。
窓の外で、夜風が木々を揺らしている。
やがて、彼女は小さな声で言った。
「ごめんなさい。今は、言えません」
リリーは、しばらくその顔を見つめていた。
それから、静かに頷いた。
「わかりました」
「怒らないのですか?」
「怒る理由がありません」
「でも……」
「言えないことがあるのは、悪いことではありません」
リリーは立ち上がった。
「ただ、いつか話していただけると嬉しいです」
セレスティアは、少しだけ目を潤ませた。
「……はい」
リリーは一礼し、部屋を出た。
*
廊下には、アデルが待っていた。
「どうでした?」
「少し、お話ができました」
「何かわかったんですか?」
「ええ」
リリーは歩き始めた。
「セレスティア様は、何かを隠しています」
「えっ?」
「でも、それが悪いことなのかどうかは、まだわかりません」
アデルは眉をひそめた。
「リリー様は、セレスティア様を疑っているんですか?」
「いいえ」
リリーは首を振った。
「むしろ、心配しています」
「心配?」
「はい」
廊下の窓から、月の光が差し込んでいた。
リリーは、その光の中で立ち止まった。
「三つの奇跡が、誰かの計画だったとします」
「……はい」
「その計画が成功すれば、セレスティア様は聖女になるでしょう」
「そうですね」
「でも、計画が失敗して、奇跡が偽物だとわかったら?」
アデルは黙った。
「セレスティア様は、偽物の聖女として責められるかもしれません」
「そんな……」
「つまり、どちらに転んでも、彼女は誰かの都合で動かされているんです」
リリーは小さく息を吐いた。
「私は、それが気に入りません」
アデルは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……リリー様」
「はい」
「あなた、案外、優しいんですね」
リリーは目を瞬いた。
「案外?」
「ええ。案外」
「それは褒め言葉ですか?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「普段の言動への感想です」
リリーは少し考えた。
「……それは、褒められていませんね」
「ようやくお気づきになりましたか」
二人は顔を見合わせ、少し笑った。
しかし、リリーの胸には、まだ重い疑問が残っていた。
誰が三つの奇跡を仕組んだのか。
何故、セレスティアを中心に据えたのか。
そして何より、何故こんなにも簡単に、偽装の痕跡が見つかるのか。
毒物検査報告書の時刻。
聖女像の修理記録。
祭壇室の備品点検。
いずれも、少し調べれば気づくような矛盾だった。
もし犯人が周到に計画を立てたのなら、なぜ証拠を残したのだろう。
リリーは足を止めた。
「……アデルさん」
「何ですか?」
「少し、考えを変えたほうがいいかもしれません」
「何をです?」
「私たちは今まで、犯人が奇跡を本物だと信じ込ませようとしていると考えていました」
「はい」
「でも、もし逆だったら?」
アデルは首を傾げた。
「逆?」
「犯人が、奇跡を偽物だと見破らせようとしていたら?」
廊下に沈黙が落ちた。
アデルは、しばらく言葉を探していた。
「……そんなことをして、何の得があるんですか?」
「わかりません」
リリーは正直に答えた。
「でも、そう考えると、いくつか説明がつくんです」
彼女は窓の外を見た。
中央大聖堂の尖塔が、月明かりの中に黒く浮かび上がっている。
その頂には、神の光を象徴する銀の聖印が輝いていた。
「もし、誰かが偽物の奇跡を作り、それを暴かせようとしているなら……」
リリーは、静かに続けた。
「その人が本当に失脚させたいのは、奇跡を起こしたとされる人物かもしれません」
アデルの顔が青ざめた。
「セレスティア様……?」
リリーは答えなかった。まだ証拠はない。
ただ、一つの仮説が浮かんだだけである。
しかし、その仮説が正しいなら、三つの奇跡は、神の祝福を示すためのものではない。一人の少女を、聖女の座から引きずり下ろすための罠なのだ。
リリーは、ゆっくりと歩き出した。
明日、聖女選定は終わる。
それまでに、真相を突き止めなければならない。
そうでなければ、誰かが罪を犯していないにもかかわらず、罪人として裁かれるかもしれない。
そして、その誰かは今夜、リリーの前で少しだけ笑ってくれた少女なのかもしれなかった。




