Ⅱ 神像はなぜ泣いたのか
神が涙を流すことはあるのだろうか。
聖光教会の教義によれば、ある。
古い聖典の第三巻には、人間の愚かさを嘆いた神が、天上の玉座で三日三晩涙を流したという記述がある。もっとも、それを文字どおりの出来事と解釈するか、人間の悲しみに対する神の慈悲を表現した比喩と考えるかについては、神学者の間でも意見が分かれていた。
リリー・ベルンシュタインは、どちらでもよいと思っていた。
神が泣こうが泣くまいが、少なくとも自分の暮らしていたベルク修道院では、雨漏りした屋根を修理するために銀貨が必要だったからである。
そして、神学上の問題よりも差し迫った問題が、今朝の彼女にはあった。
「リリー様。起きてください」
「……起きています」
「目を開けてください」
「目を閉じていても、起きていることはあります」
「では、起きている状態で朝食を召し上がってください」
アデル・フォン・クラウゼンは、寝台の脇に立って腰に手を当てた。
中央大聖堂の東棟に設けられた候補者用の寝室は、地方修道院のものとは比較にならないほど快適だった。厚い寝具に柔らかな枕、暖炉まで備えつけられている。
リリーは昨夜、記録保管室から戻ってからも遅くまで書類を読んでいた。そのため、朝の鐘が鳴っても寝台から出られずにいる。
「昨夜、何時まで起きていたんですか?」
「……三時くらいでしょうか」
「三時!」
「正確には三時十二分です」
「正確さの問題ではありません!」
アデルは寝台の掛布を引き剥がした。
リリーは寒そうに肩をすくめた。
「横暴です!」
「健康管理です」
「神に仕える者が、他人の安眠を妨げるのですか」
「神様も朝食を抜くことまではお望みにならないと思います!」
「それは神様に確認しましたか?」
「リリー様!」
アデルが怒鳴ったところで、ようやくリリーは起き上がった。
昨夜の出来事を思い返す。
マティアス司祭が毒杯を飲んで倒れ、セレスティアの治癒によって回復した。
ところが、毒物検査報告書は、司祭が倒れるより前に作成されていた。
あのあとリリーは、記録保管室の書記官から事情を聞いた。
報告書は大聖堂の医務局が作成し、書記官はその写しを受け取っただけだという。原本の作成者については、医務局に確認しなければわからなかった。
そこで医務局への面会を申し込んだのだが、担当者はすでに帰宅していた。
翌朝、改めて問い合わせることになっている。
「ところで、マティアス司祭は?」
リリーが尋ねると、アデルは少し表情を和らげた。
「今朝はご自分で食事を召し上がったそうです。医務局の方のお話では、もう危険な状態ではないとか」
「それはよかった」
「セレスティア様の奇跡のおかげですね」
「そうかもしれません」
「……まだ疑っているんですか?」
「治癒の力があることは疑っていません。ただ、毒杯の件については別です」
リリーは寝台から降り、頭巾を手に取った。
「それに、昨日は一つ、気になることがありました」
「何ですか?」
「枢機卿が、私に記録の閲覧を許可してくださったことです」
「それがどうかしたんですか?」
「教会の重要な儀式で不審な事故が起きたんですよ。普通なら、関係書類の閲覧はもっと厳しく制限するでしょう」
「枢機卿は寛大なお方なんです」
「そうかもしれませんね」
リリーは頭巾を被り、鏡の前で形を整えた。
左右が少し歪んでいる。
彼女は三度ほど直してみたが、結局、最初よりひどくなった。
アデルが無言で手を伸ばし、きれいに整え直した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「ところで、枢機卿は昨日、私の質問を興味深いとおっしゃいました」
「ええ」
「本当に興味を持たれたのでしょうか」
「さあ……」
「それとも、質問されることを予想していたのでしょうか」
アデルの手が止まった。
「どういう意味です?」
「まだ、わかりません」
リリーは鏡の中の自分を見た。
「わからないことが増えるばかりですね」
「でしたら、少しは減らす努力をしてください」
「そのために調べているんですが」
「調べるたびに増えているじゃないですか!」
もっともな指摘だった。
*
朝食を終えた二人が医務局へ向かおうとしたとき、中央大聖堂の鐘が突然鳴り響いた。
時刻は午前九時十八分。定時の鐘ではない。
それも、一つの鐘ではなかった。大小いくつもの鐘が、まるで競い合うように鳴っている。
廊下を歩いていた修道士たちが立ち止まり、窓の外へ顔を向けた。
「何でしょう?」
アデルが眉をひそめた。
向こうから、一人の若い修道士が走ってきた。
「奇跡だ!」
彼は興奮した声を上げた。
「西礼拝堂で奇跡が起きた! 聖母像が涙を流されたんだ!」
アデルが息を呑んだ。
「聖母像が……?」
「それも、血の涙だ!」
修道士はそれだけ告げると、さらに廊下を駆けていった。
アデルはリリーを振り返った。
「リリー様!」
「はい」
「奇跡ですよ!」
「そうらしいですね」
「行きましょう!」
「医務局は?」
「あとです!」
アデルはリリーの手をつかみ、廊下を走り始めた。
リリーは引きずられながら、少し困った顔をした。
「アデルさん」
「何ですか!」
「廊下を走ってはいけないと、昨日あなたがおっしゃいました」
「今は緊急事態です!」
「奇跡というのは、緊急事態なんですか?」
「少なくとも、あなたが余計な質問を始める前に到着したいんです!」
なるほど。リリーは納得した。
*
西礼拝堂は、大聖堂の本堂から長い回廊を隔てた場所にあった。
中央には高さ三メートルほどの白い石像が立っている。
両手を胸の前で重ね、わずかに首を傾げた女性の姿。聖光教会の伝承に登場する、初代聖女エリシアの像である。
その頬に、赤い筋が二本、くっきりと刻まれていた。
涙は目尻から流れ、頬を伝い、顎の先で小さな滴となって落ちていた。
石像の足元には、すでに赤黒い染みができている。
礼拝堂には大勢の信徒が集まり、ひざまずいて祈りを捧げていた。
「おお……」
アデルが感嘆の声を漏らした。
「本当に、涙を……」
リリーも石像を見上げた。
確かに、赤い液体が流れている。
彼女はしばらく眺めてから、隣にいた修道士へ尋ねた。
「すみません。最初に発見したのはどなたですか?」
「西礼拝堂の清掃を担当しているシスターです。今朝、祈りの準備をしていたところ、聖女像が涙を流していることに気づいたそうです」
「何時ごろでしょう?」
「八時半ごろと聞いています」
「それ以前に異常は?」
「ありません。昨日までは普通の石像でした」
「そうですか」
リリーは足元へ視線を落とした。
石像の周囲には、参拝者が近づきすぎないよう低い柵が設けられている。
柵の内側の床には、細かな白い粉が散っていた。
彼女がしゃがみ込むと、アデルが慌てて袖を引いた。
「リリー様! 何をなさっているんですか!」
「床を見ています」
「奇跡は上です!」
「床にも何か落ちていますよ」
「それは清掃の際の石粉でしょう」
「そうかもしれません」
リリーは立ち上がった。石像の背後には壁があり、その上部には小さな丸窓があった。窓から差し込む朝の光が、像の肩を白く照らしている。
リリーは窓を見た。続いて、石像の台座を見た。
台座の下部には、古い装飾模様が彫られている。
その一角に、ほかの部分とは少し色の違う石材がはめ込まれていた。
「アデルさん」
「はい」
「この石像、最近修理されましたか?」
「え?」
「台座の一部だけ、石の色が違います」
アデルは目を凝らした。
「言われてみれば……でも、古い建物ですから、修理くらいするでしょう」
「ええ。だから、修理記録を確認したいんです」
「また記録ですか!」
アデルが嘆いたとき、礼拝堂の奥から厳かな声が響いた。
「皆の者、静粛に」
オルフェン枢機卿だった。
その隣には、昨日の儀式にも立ち会っていたエドガー司教がいる。四十代後半の、痩せた顔立ちの男だった。細い銀縁眼鏡をかけ、胸には財務局の印章を下げている。
枢機卿は石像の前に立ち、集まった人々へ語りかけた。
「我らは今、神の御心を目の当たりにしている」
信徒たちが一斉に頭を垂れた。
「昨日、聖女候補セレスティア・ローレンは、死の淵にあった司祭を救った。そして今日、初代聖女の像が血の涙を流された。これは偶然ではない」
リリーは黙って聞いていた。
「神は、我らに告げておられるのだ。聖女の選定を急ぎ、王国に新たな祝福をもたらせと」
その言葉を受けて、エドガー司教が一歩進み出た。
「よって、聖女選定委員会は、当初七日間を予定していた選定期間を三日間に短縮することを提案いたします」
礼拝堂がざわめいた。
「三日間?」
アデルが小声で呟いた。
「ずいぶん急ですね……」
「そうですね」
リリーも頷いた。
選定期間を短縮する。
昨日の毒杯事件に続き、今日の血涙。
二つの出来事を理由に、教会は予定を変更しようとしている。
それ自体が悪いこととは限らない。
しかし、リリーには一つ、気になることがあった。
オルフェン枢機卿は、石像が涙を流したことを神の意思だと述べた。
だが、なぜその意思が「選定を急げ」という意味になるのだろう。涙とは、悲しみを表すものではないのか。
悲しんでいるなら、むしろ選定を中止せよという意味にも解釈できるはずだった。
リリーは静かに手を挙げた、が、アデルがその手首をつかんだ。
「駄目です」
「まだ何も言っていません」
「言おうとしているでしょう」
「はい」
「駄目です」
「なぜです?」
「昨日と同じことになるからです!」
リリーは少し考えた。
「では、あとで質問します」
「それなら……」
「枢機卿に直接」
「もっと駄目です!」
アデルの悲鳴は、幸いにも祈りの声にかき消された。
*
昼過ぎ。リリーは西礼拝堂の管理室にいた。
向かいには、清掃担当のシスター・ベアトリスが座っている。五十歳ほどの女性で、少し赤らんだ頬と、働き者らしい荒れた手をしていた。
「私が見つけたんですよ」
ベアトリスは何度目かの説明を繰り返した。
「今朝、いつものように礼拝堂を掃除していましたら、聖女様のお顔に赤いものが流れていて……最初は汚れかと思ったんです。でも、よく見たら涙だったんです」
「そのとき、石像の周りには誰かいましたか?」
「いいえ。私一人でした」
「前日の夕方は?」
「私が掃除しました。そのときは何もありませんでしたよ」
「石像の修理について、お聞きしても?」
ベアトリスは首を傾げた。
「修理?」
「台座の一部だけ、新しい石が使われています」
「ああ、それなら先月ですよ」
「先月?」
「ええ。台座にひびが入っているということで、石工さんが来て修理なさいました」
「その石工の名前は?」
「さあ……私は詳しく知りません。工事の手配は財務局でしたから」
リリーは小さな手帳に書き留めた。
「石像本体には、何か手を加えましたか?」
「いえ、台座だけと聞いています」
「工事中、礼拝堂は閉鎖されましたか?」
「三日ほど。私たちも入れませんでした」
「なるほど」
リリーは頷いた。
修理工事。
三日間の閉鎖。
財務局による手配。
そして、台座の新しい石材。
まだ結論を出すには早い。
だが、調べるべき場所は見えてきた。
「ありがとうございました」
リリーが立ち上がると、ベアトリスは不安そうに尋ねた。
「あの……聖女様の涙は、奇跡ではないのでしょうか」
「わかりません」
リリーは答えた。
「ただ、もし人間が仕掛けたものなら、それを奇跡と呼ぶわけにはいきません」
「でも、そんなことをする人がいるでしょうか」
「いるかどうか、調べているところです」
ベアトリスは胸の聖印を握った。
「私は、神様が私たちを見守ってくださっていると思いたいんです」
その言葉には、何の打算もなかった。
リリーは少しだけ表情を和らげた。
「それは、誰にも否定できませんよ」
「え?」
「神様が見守ってくださっていることと、石像の涙が本物かどうかは、別の問題ですから」
ベアトリスはしばらく考え、それから小さく頷いた。
*
財務局は、大聖堂の北棟にあった。
リリーはアデルを連れて、そこへ向かった。
「今度は財務局ですか」
「はい」
「聖女候補の方が、どうして一日中書類を調べているんでしょう」
「聖女候補だからではありません。疑問があるからです」
「普通の候補者は、祈りの練習や聖典の勉強をしているんですよ」
「私も聖典は読んでいます」
「いつですか?」
「昨日の夜、寝る前に」
「三時まで起きていたのは、それですか?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「聖女選定の規則です」
アデルは呆れたように息を吐いた。
財務局の受付で用件を告げると、若い書記官が応対した。
「西礼拝堂の修理記録ですか?」
「はい。先月の工事について確認したいんです」
「少々お待ちください」
書記官は奥の書棚から帳簿を取り出した。
リリーは差し出された書類を開き、目を通した。
工事名。
『西礼拝堂・初代聖女像台座補修工事』
施工期間は先月の十二日から十四日まで。
担当石工は、王都の職人組合に所属するヘルマン・ロイス。
費用は銀貨八十六枚。
リリーは眉を寄せた。
「台座の補修にしては、高額ですね」
書記官は少し困った顔をした。
「大聖堂の工事ですから、特別な材料を使うこともあります」
「それはそうですね」
リリーは帳簿の次の頁を開いた。
材料費の内訳が記されている。
石材。
石灰。
鉄製固定具。
輸送費。
職人への賃金。
そして、一つだけ見慣れない項目があった。
『導水管および接続部品一式』
リリーの指が止まった。
「導水管?」
「はい?」
「台座の補修に、水を通す管が必要だったんですか?」
書記官は帳簿を覗き込んだ。
「さあ……私にはわかりません」
「この項目の詳細な納品記録はありますか?」
「おそらく別の台帳に……」
書記官は奥へ引っ込み、しばらくして薄い書類の束を持って戻ってきた。
リリーはそれを受け取り、頁をめくった。
細い銅管。
継ぎ手。
小型の弁。
水密用の樹脂。
そして、容量の小さな金属容器。
リリーは一つずつ確認した。
「アデルさん」
「はい」
「石像の涙は、どこから流れていましたか?」
「目からです」
「目のどの部分でしょう」
「目尻のあたりだったと思います」
「そうですね」
リリーは書類を閉じた。
「もう一度、石像を見に行きましょう」
「どうしてです?」
「確かめたいことがあります」
「何を?」
「涙の出どころです」
アデルは嫌な予感がしたようだった。
「まさか……」
「まだ、まさかですよ」
リリーは穏やかに微笑んだ。
「確かめるまでは」
*
夕方の西礼拝堂は、朝よりも静かだった。
参拝者は少なくなり、石像の前には数人の信徒が残っているだけだった。
血の涙は、まだ流れていた。
ただし、朝に比べると、その量は明らかに減っていた。
リリーは柵の前に立ち、石像を見上げた。
赤い液体は、左右の目尻から細く流れている。
彼女はアデルに頼み、管理室から踏み台を借りてきてもらった。
「何をなさるつもりですか?」
「近くで見たいんです」
「勝手に触ってはいけませんよ」
「わかっています」
リリーは踏み台に上がり、石像の顔へ目を近づけた。
白い石の表面には、細かな彫刻の跡が残っている。
そして、目尻の部分には、針の先ほどの小さな穴があった。
左右に一つずつ。
そこから、赤い液体が滲み出している。
「……なるほど」
リリーは呟いた。
「何かわかりましたか?」
下からアデルが尋ねた。
「穴があります」
「穴?」
「目尻に小さな穴が開いています。ここから液体が出ています」
「それが、どうかしたんですか?」
「石像の内部に管が通っていれば、ここから液体を流せます」
アデルは目を見開いた。
「えっ……?」
「台座の補修工事で導水管が購入されています。石像の内部へ通すことも、技術的には可能でしょう」
「そんな……」
「もちろん、実際に管がつながっているかどうかは、内部を調べなければわかりません」
リリーは踏み台から降りた。
そのとき、背後から声がした。
「何をしている」
振り返ると、エドガー司教が立っていた。
細い眼鏡の奥から、冷たい目が二人を見つめている。
「聖女像に何か用かね」
リリーは丁寧に一礼した。
「石像の構造を調べていました」
「構造?」
「はい。目尻に穴がありますので」
エドガーの眉がわずかに動いた。
「古い石像だ。風化によって穴が生じることもある」
「そうですね」
リリーは頷いた。
「ですが、左右対称の位置に同じような穴があるのは、少し珍しいと思います」
「それが何だというのだ」
「先月、台座の補修工事が行われています。その際、導水管や弁が購入されていました」
エドガーは黙った。
「工事を手配したのは財務局だと聞きました。司教様が責任者でいらっしゃいますね」
「そうだ」
「では、工事の詳細をご存じでしょうか」
「私は財務全般を監督している。個々の工事内容まで把握しているわけではない」
「なるほど」
リリーは手帳を開いた。
「では、担当の方を紹介していただけますか?」
エドガーは、しばらく彼女を見つめていた。
「ベルンシュタイン嬢」
「はい」
「君は聖女候補として、この大聖堂に招かれたのだろう」
「そうです」
「ならば、神の御心を疑うような行為は慎むべきではないかね」
リリーは少し考えた。
「神の御心は疑っていません」
「では、何を疑っている」
「工事の内容です」
エドガーの口元が引きつった。
アデルは横で、小さく呻いた。
「……リリー様」
「何ですか?」
「もう少し、言い方というものが……」
「事実を確認したいだけなのですが」
エドガーは深く息を吐いた。
「よろしい。明日、担当者を呼んでおこう。ただし、聖女像に勝手に触れることは許さん」
「承知しました」
リリーは頭を下げた。
エドガーはそれ以上何も言わず、礼拝堂を去っていった。
その背中を見送りながら、アデルが呟いた。
「……怒っていらっしゃいましたね」
「そうですね」
「怖くないんですか?」
「少し」
「少しだけ?」
「かなり」
アデルは驚いてリリーを見た。
「怖いんですか?」
「当然です。司教様ですよ」
「だったら、どうしてあんなことを!」
「怖いことと、質問する必要があることは別ですから」
リリーは手帳を閉じた。
アデルは、しばらく何も言わなかった。
*
その夜。
リリーは自室で、今日集めた記録を整理していた。
机には三冊の帳簿と、数枚の写しが並んでいる。
西礼拝堂の修理記録。
材料費の内訳。
清掃担当者の証言。
石像の観察記録。
そして、昨日の毒杯事件の報告書。
アデルは向かいの椅子に座り、温かい茶を飲んでいた。
「結局、石像の涙は人間が仕掛けたものなんでしょうか」
「可能性は高いと思います」
「でも、誰がそんなことを……」
「それはまだわかりません」
リリーは書類を並べ直した。
「ただ、仕掛けがあるとすれば、先月の工事が関係しているのでしょう」
「エドガー司教が?」
「工事を手配した責任者ではあります。でも、それだけで犯人とは言えません」
「そうですよね……」
アデルは安堵したように息を吐いた。
「それに、司教様が神聖な石像に細工をするなんて、考えられません」
「考えられないことと、起こりえないことは違います」
「またそういうことを……」
リリーは茶を一口飲んだ。
少し冷めていた。
「ところで、アデルさん」
「はい」
「神像が涙を流したことと、選定期間を短縮することには、どんな関係があるのでしょう」
「それは、神様が聖女の選定を急ぐようにお示しになったからでしょう」
「誰がそう解釈したんですか?」
「オルフェン枢機卿です」
「では、枢機卿が別の解釈をしていたら?」
「別の解釈?」
「たとえば、神様が悲しんでいるのだから、選定を中止すべきだ、と」
アデルは考え込んだ。
「……そういう解釈も、できなくはありませんね」
「でしょう?」
リリーは机に肘をついた。
「石像が涙を流した。これは観察された現象です。でも、それが選定を急げという意味だというのは、人間の解釈です」
「つまり……」
「仮に涙が本物の奇跡だったとしても、選定を三日に短縮する理由には、必ずしもならないんです」
アデルは黙っていた。
リリーは続けた。
「むしろ、誰かが選定を急がせたかったのではないでしょうか」
「誰かが……?」
「ええ」
リリーは帳簿の頁をめくった。
工事費の内訳に、もう一度目を通す。
銀貨八十六枚。
そのうち、導水管や金属容器の費用は銀貨十二枚。
小さな修道院なら、冬の薪を相当量買える金額だった。
誰かが、その金を使って石像に細工をした。
何のために。
選定期間を短縮するためだとすれば、なぜ急ぐ必要があったのか。
リリーは次の頁を開いた。
そこには、財務局の支出承認印が押されていた。
承認者はエドガー司教。
だが、その下に、もう一つ別の記載があった。
『特別予算項目 第七号』
リリーは眉をひそめた。
「特別予算?」
彼女は別の帳簿を引き寄せた。
中央教会の年度予算書である。
特別予算項目第七号。
その名称は、
『聖女選定に伴う祭儀設備維持費』
だった。
リリーは頁をめくった。
昨年の記録。
一昨年の記録。
そして、三年前の記録。
そこにも、同じ項目があった。
「……あれ?」
リリーは思わず声を漏らした。
「どうしました?」
アデルが顔を上げた。
「この特別予算、三年前から計上されています」
「三年前?」
「はい」
「それが、何かおかしいんですか?」
「聖女選定が行われると発表されたのは、今年ですよね」
「ええ。先月の大公会議で正式に決定されました」
「では、どうして三年前から、聖女選定のための予算があるんでしょう」
アデルは目を瞬いた。
「……準備していたんじゃないですか?」
「そうかもしれません」
リリーは頷いた。
聖女選定は大規模な行事である。正式決定以前から準備費を確保していても、それだけでは不正とは言えない。
だが、彼女が気になったのは、別のことだった。
三年前の支出内訳にも、導水管や弁、金属容器の購入記録があったのである。
しかも、数量が異なっていた。
細い銅管、十二本。
小型弁、六個。
金属容器、三個。
今年の工事で購入されたものより、はるかに多い。
「アデルさん」
「はい」
「三年前、西礼拝堂で大きな工事がありましたか?」
「三年前ですか? 私はまだ中央大聖堂に来たばかりでしたから……」
「覚えていませんか」
「いえ、ちょっと待ってください」
アデルは茶杯を置いた。
「確か、その頃に西礼拝堂の大規模な清掃と補修があったはずです。古い壁画の修復もしていました」
「なるほど」
リリーは記録を見つめた。
三年前から準備されていた設備。
先月の台座補修。
そして今日、石像が流した血の涙。
すべてが同じ計画の一部なのか。
それとも、偶然の一致なのか。
まだ、わからない。
しかし、一つだけ確かなことがあった。
もし石像の涙が人間の仕掛けによるものなら、それは今日、突然思いついて実行されたものではない。
少なくとも、かなり以前から準備されていた可能性がある。
リリーは椅子にもたれ、天井を見上げた。
「……困りましたね」
「何がですか?」
「私、聖女選定は七日間だと思っていたんです」
「はい」
「三日に短縮されたら、調べる時間が足りません」
アデルは呆れたように笑った。
「普通は、聖女候補としての準備が間に合わないことを心配するものですよ」
「そちらは、もともと準備していませんから」
「威張らないでください!」
リリーは肩をすくめた。
そのとき、扉が叩かれた。
「ベルンシュタイン候補者。いらっしゃいますか」
男性の声だった。
アデルが扉を開けると、昼間の財務局の書記官が立っていた。
「夜分に失礼いたします。エドガー司教より、明朝の面会についてご連絡です」
「ありがとうございます」
リリーは立ち上がった。
「明日の午前八時、財務局へお越しください。工事担当者も同席いたします」
「承知しました」
書記官は一礼し、立ち去ろうとした。
しかし、リリーはふと思いついて呼び止めた。
「あの、もう一つだけ」
「何でしょう」
「特別予算項目第七号について、少しお聞きしたいんです」
書記官の表情が変わった。
ほんの一瞬だったが、リリーは見逃さなかった。
「……第七号、ですか」
「はい。聖女選定に伴う祭儀設備維持費です」
「それは……」
書記官は言い淀んだ。
「どうかしましたか?」
「いえ、何でもありません」
彼は急いで頭を下げた。
「詳細は、明日、司教様にお尋ねください」
そう言い残して、廊下へ消えていった。
リリーは閉じた扉を見つめた。
「……変でしたね」
アデルが呟いた。
「ええ」
「何か、知っているんでしょうか」
「そうかもしれません」
リリーは机へ戻った。
帳簿の頁を開き、特別予算項目第七号の記載をもう一度確認する。
そのときだった。
彼女は、三年前の予算書の余白に、小さな文字が書き込まれていることに気づいた。
古いインクで、ほとんど消えかかっている。
リリーは燭台を引き寄せ、目を凝らした。
そこには、こう記されていた。
『第三次試験設備更新費』
「……第三次?」
リリーは眉を寄せた。
聖女選定は、百年に一度行われると聞いている。
それなのに、三年前の予算書に第三次試験という言葉がある。
しかも、正式な選定が発表されたのは先月だ。
何の試験なのか。
誰が、何を試していたのか。
リリーは、ゆっくりと帳簿を閉じた。
「アデルさん」
「はい?」
「一つ、確認したいことがあります」
「何でしょう」
「聖女選定というのは、本当に百年に一度しか行われないんですよね」
「ええ。そう教わっています」
「では、その間、教会は聖女を選ぶための試験を一度もしていないのでしょうか」
アデルは答えられなかった。
窓の外では、夜の鐘が鳴っていた。
リリーは机の上に並べた書類を見つめた。
昨日の毒杯。
今日の血涙。
そして、三年前から続く不審な予算。
どれも、まだ一つの答えには結びついていない。
ただ、彼女には奇妙な予感があった。
自分たちが今、目にしている奇跡は、誰かにとって初めての試みではないのかもしれない。
それどころか、何度も繰り返された試験の、ほんの一部分なのではないか。
リリーは小さく息を吐いた。
「……聖女候補って、もっと暇なものだと思っていました」
アデルは、もう反論する気力も残っていないらしかった。
ただ、静かに茶を飲み干した。
その夜、二人が眠りについたあとも、中央大聖堂の西礼拝堂では、初代聖女の石像が赤い涙を流し続けていた。
誰もいない礼拝堂で。
誰に見られることもなく。
ただし、その涙が落ちる間隔は、夜が更けるにつれて少しずつ長くなっていた。
やがて、深夜を告げる鐘が鳴る頃。
最後の一滴が石の頬を伝い、足元に落ちた。
それきり、聖女像は泣かなくなった。




