Ⅰ 聖女候補は奇跡に異議を唱える
神は間違いを犯さない。
これは聖光教会の教義の一つであり、修道女リリー・ベルンシュタインも、基本的には正しいと考えている。
ただし、神に仕える人間は間違いを犯す。
こちらについては、彼女は十七年の人生を通じて、嫌というほど実例を見てきた。
たとえば、地方修道院の会計を担当していた老司祭は、昨年だけで寄付金の合計を十一回間違えた。修道院長は聖典の一節を引用するとき、しばしば前後の文章を取り違えた。厨房のシスター・マルタに至っては、塩と砂糖を間違えて三十人分の夕食を台無しにしたことがある。
最後の一件について、神はおそらく関与していない。
リリーはそう信じている。
したがって、中央大聖堂の正門に掲げられた、
『神の御心によって、聖女候補七名を選定す』
という壮麗な金文字を見上げたときも、彼女が最初に抱いた感想は、
「選定したのは、実際には教会の人たちですよね」
という、きわめて現実的な疑問だった。
「リリー様!」
隣に立っていた若い修道女が、悲鳴に近い声を上げた。
アデル・フォン・クラウゼン。十九歳。中央大聖堂に勤める正式なシスターであり、今回、地方から召集された聖女候補の世話役を任されている。
栗色の髪を白い頭巾の下に収め、緑色の目をした、いかにも善良そうな娘だった。
「お願いですから、そういうことを大声でおっしゃらないでください!」
「大声ではありませんでした」
「聞こえました!」
「あなたに向かって言ったので」
「そういう問題ではありません!」
アデルは周囲を見回した。
幸い、正門前には大勢の参拝者が集まっており、二人の会話に注意を払う者はいない。王都の中央大聖堂は、王宮に次ぐ規模を誇る巨大建築である。白い石灰岩の壁、尖塔、天使像、色鮮やかな薔薇窓。建物そのものが信仰の威光を物語っていた。
リリーはその壮麗な建築を眺めながら、別のことを考えていた。
「この建物、維持費はいくらかかるんでしょう」
「はい?」
「屋根の補修だけでも相当な金額でしょうね。雨樋も多いですし」
「もっと感動してください!」
「感動していますよ。よく維持できていますね」
アデルは額を押さえた。
彼女は今朝から、すでに四度ほど同じ仕草をしている。
リリー自身は、特に問題のあることを言ったつもりはなかった。
彼女は北方の小さな町、ベルク修道院で育った。修道院といっても、実情は礼拝堂と孤児院と小さな畑を併設した施設である。冬には屋根が雨漏りし、春には畑の柵が壊れ、夏には厨房の保存食が傷み、秋には薪の値段が上がる。
神に祈る時間より、帳簿と格闘している時間のほうが長かった。
そんな彼女のもとへ、突然、中央教会から召集状が届いたのである。
聖女候補に選ばれた。理由は記されていなかった。
修道院長は泣いて喜んだが、リリーはまず旅費の支給額を確認した。
そして、往復の馬車代は教会負担であると知って、ようやく安堵した。
*
中央大聖堂の内部は、外観以上に壮麗だった。
高い天井には天地創造を描いた壁画が広がり、両側には歴代聖女の石像が並んでいる。磨き上げられた床には窓から差し込む光が映り、香炉から漂う乳香の匂いが、冷たい空気に溶け込んでいた。
「こちらが候補者控室です」
アデルに案内された部屋には、すでに六人の少女が集まっていた。
年齢は十四歳から二十歳ほど。貴族の令嬢らしい豪奢な服装の者もいれば、リリーと同じく修道服を着た者もいる。
その中央で、一人の少女が穏やかに微笑んでいた。
淡い金髪を背中まで垂らし、白い礼装を身にまとっている。端整な顔立ちには不思議な落ち着きがあり、周囲の少女たちが自然と彼女を中心に集まっているのも頷けた。
「あちらがセレスティア・ローレン様です」
アデルが小声で教えてくれた。
「今回の最有力候補でいらっしゃいます。すでに三十人以上の病人を癒やされたとか」
「それは素晴らしいですね」
リリーは素直に感心した。
「ですが、なぜ三十人以上なんでしょう。三十一人なのか、三十九人なのか」
「そこですか?」
「正確な人数がわかれば、能力の発現条件を調べられます。病気の種類や治療に要した時間も知りたいです」
「リリー様、ここは研究所ではありません」
「残念です」
そんな会話をしていると、セレスティアがこちらに気づいた。
「あなたがリリー様ですね」
彼女は立ち上がり、丁寧に一礼した。
「セレスティア・ローレンと申します。お会いできて光栄です」
「リリー・ベルンシュタインです。こちらこそ」
「北方のベルク修道院からいらしたのでしょう? 長旅でお疲れではありませんか」
「少し腰が痛いです。馬車の座席が硬かったので」
「まあ」
セレスティアは口元に手を添えて笑った。
上品な笑い方だったが、そこには作り物めいたところがなかった。
「よろしければ、あとで温かいお茶をお持ちしますね」
「ありがとうございます。できればお菓子も」
「リリー様!」
アデルが再び声を上げた。
セレスティアは今度こそ声を立てて笑った。
「もちろんです。私も甘いものが好きなんですよ」
どうやら、話の通じる人物らしい。
リリーは少しだけ安心した。
もっとも、その安心は長く続かなかった。
控室の扉が開き、黒と紫の祭服をまとった初老の聖職者が入ってきたからである。
白髪を後ろへ撫でつけ、鋭い眼光をした男だった。胸には大きな銀の聖印が輝いている。
「候補者諸君」
男は低く、よく通る声で告げた。
「私はオルフェン。聖光教会枢機卿にして、今回の聖女選定を統括する者である」
少女たちは一斉に頭を下げた。
リリーも少し遅れてそれに倣った。
「諸君は神の御心によって、この場所に集められた。これより七日間、祈りと試練を通じて、真に神の祝福を受けた者を見定める」
オルフェン枢機卿は、一人ずつ候補者の顔を見渡した。
その視線がリリーのところで、ごくわずかに止まったように思えた。
「選定において最も重要なのは、奇跡の証明である」
リリーは顔を上げた。
「質問してもよろしいでしょうか」
室内の空気が止まった。
アデルの顔色が変わる。
オルフェンは片眉を動かした。
「申してみよ」
「奇跡の証明とは、何をもって成立するのでしょうか」
「神の御業が示されたときである」
「それを神の御業だと判断する基準は?」
「教会の定める審査による」
「その審査が正しいことは、誰が証明するのでしょう」
沈黙が場を包む。
誰かが小さく息を呑んだ。
アデルは、もはや額を押さえることすら忘れていた。
オルフェンはしばらくリリーを見つめ、それから口元に薄い笑みを浮かべた。
「興味深い質問だ、ベルンシュタイン嬢」
「ありがとうございます」
「褒めたつもりではない」
「そうでしたか」
枢機卿は咳払いした。
「よろしい。ならば本日の儀式をよく見ることだ。神の奇跡とは何か、諸君自身の目で確かめてもらおう」
彼が去ったあと、アデルはリリーの肩をつかんだ。
「お願いですから!」
「はい?」
「もう少し! 普通にしてください!」
リリーは少し考えた。
「普通の定義を教えていただければ、努力します」
アデルは頭を抱えた。
*
正午。
大聖堂の中央祭壇では、聖女選定の開幕を告げる儀式が始まっていた。
参列者は王族、貴族、教会関係者を合わせて二百人以上。一般信徒にも後方の席が開放され、堂内は厳粛な熱気に満ちていた。
七人の聖女候補は祭壇の前に並び、その背後にオルフェン枢機卿と数名の司教が立つ。
儀式を進行するのは、マティアスという三十四歳の司祭だった。
整った容貌の、痩せた男である。
彼は銀の杯を両手で掲げ、祭壇に向かって祈りを捧げた。
「主よ。我らに光を与え、偽りを退け、真なる祝福をお示しください」
合唱隊の声が高い天井に響いた。
リリーは祭壇の様子を観察していた。
銀杯は儀式の開始前から祭壇の中央に置かれていた。傍らには水差しがあり、司祭はそこから杯へ液体を注いだ。
続いて、彼は杯を高く掲げた。
「この聖水をもって、我らの信仰を――」
マティアスが口をつけた。
一口。二口。そして、三口目を飲み込んだところで、彼の手が震えた。
銀杯が床に落ちた。
澄んだ金属音が聖堂に響く。
「……ぐっ」
司祭は胸を押さえた。
膝が折れる。
次の瞬間、彼は祭壇の前に倒れ込んだ。
参列者の間から悲鳴が上がった。
「マティアス司祭!」
数人の聖職者が駆け寄る。
司祭の顔は蒼白で、額には汗が浮かんでいた。呼吸は浅く、全身が小刻みに痙攣している。
「毒だ!」
誰かが叫んだ。
「聖水に毒が!」
聖堂が騒然となった。
護衛兵が祭壇へ駆け上がり、参列者たちが立ち上がる。アデルは口元を押さえ、セレスティアは青ざめた顔で倒れた司祭を見つめていた。
オルフェン枢機卿が声を張り上げる。
「静粛に! 皆、落ち着くのだ!」
しかし、その声は人々の混乱にかき消された。
そのときだった。
「私に診せてください」
セレスティアが前に進み出た。
彼女は倒れた司祭の傍らに膝をつき、その胸に両手を重ねた。
白い指先から、淡い光が生まれた。
光はゆっくりと広がり、司祭の身体を包み込む。
聖堂にいた人々が息を呑んだ。
リリーも目を見開いた。
彼女が生まれて初めて目にする、明白な超常現象だった。
光は十数秒ほど続いた。
やがて、マティアスの痙攣が収まった。
胸が大きく上下する。
「……う、うう」
司祭が呻いた。
セレスティアは両手を離した。
「大丈夫です。もう、呼吸は落ち着いています」
次の瞬間、聖堂に歓声が沸き起こった。
「奇跡だ!」
「聖女様の奇跡だ!」
「神の祝福が示された!」
人々が立ち上がり、拍手と祈りの声が重なった。
オルフェン枢機卿は両手を広げ、厳かに宣言した。
「見よ! 神は我らに、その御業を示された!」
歓声はいっそう大きくなった。
リリーは拍手しなかった。
ただ、床に落ちた銀杯を見つめていた。
杯からこぼれた液体が、白い石床に細い筋を描いている。
彼女は、その筋をしばらく眺めた。
それから、静かに手を挙げた。
「質問があります」
アデルが硬直した。周囲の人々が振り返る。
オルフェン枢機卿は、ゆっくりとリリーを見た。
「……何かね?」
「マティアス司祭は、死んでいたのでしょうか?」
聖堂が静まり返った。
「何を言うのだ」
枢機卿の声が低くなった。
「司祭は毒を受け、命を落としかけた。それをセレスティア嬢が救ったのだ」
「それなら、死者蘇生ではなく治療ですね」
「言葉の問題ではない」
「いいえ。大切な問題です」
リリーは落ち着いた声で続けた。
「死んだ人間を蘇らせたのか、死にかけた人間を治療したのかでは、奇跡の性質が違います」
ざわめきが広がった。
オルフェンは答えず、彼女を見つめている。
「それから、もう一つ」
リリーは床の銀杯を指した。
「誰が、毒だと判断したのでしょう?」
今度こそ、誰も答えなかった。
「司祭が倒れた直後、誰かが『毒だ』と叫びました。ですが、あの時点では、まだ誰も聖水を調べていません」
リリーは一度言葉を切った。
「もちろん、毒である可能性はあります。ですが、病気や発作の可能性もあるでしょう。どうして最初から毒だとわかったのですか?」
参列者たちの視線が、祭壇の周囲をさまよった。
最初に叫んだ人物が誰だったのか、誰もはっきり覚えていないようだった。
リリーはそれ以上追及しなかった。
今は、確かめる材料が足りない。
ただ、奇妙だと思ったことを、奇妙だと言っただけである。
オルフェン枢機卿は、長い沈黙のあとで告げた。
「ベルンシュタイン嬢。君の疑問は、後ほど正式な審査の場で扱おう」
「承知しました」
「儀式はここまでとする。マティアス司祭を医務室へ運び、聖水と銀杯を保全せよ」
護衛兵たちが動き始めた。
人々はまだ興奮していたが、先ほどまでの熱狂には、かすかな戸惑いが混じっていた。
セレスティアがリリーのそばへ歩み寄ってきた。
「リリー様」
「はい」
「私のしたことが、奇跡ではないとお考えですか?」
その声には、非難よりも不安があった。
リリーは首を振った。
「いいえ。あなたが光を生み出し、司祭の症状が改善したことは見ました」
「では……」
「ただ、それが何を意味するかは、まだわかりません」
セレスティアは目を伏せた。
「そう、ですね」
リリーは少し考え、それから付け加えた。
「でも、助けようとしたことは間違いありません。それは、奇跡かどうかとは関係なく、立派なことだと思います」
セレスティアは驚いたように顔を上げた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、リリーは思った。
この人が聖女になるなら、悪くないかもしれない。
もっとも、自分が聖女になるつもりは、最初からなかった。
*
その日の夕刻。
リリーは大聖堂の東棟にある記録保管室へ向かっていた。
隣ではアデルが、ひどく疲れた顔をしている。
「リリー様」
「はい」
「どうして、こんなことになったのでしょう」
「何がですか?」
「聖女選定の初日に、候補者が儀式の正当性を疑い、枢機卿に質問を浴びせ、挙げ句の果てに毒物検査の記録を閲覧することです!」
「順当な流れだと思いますが」
「どこがですか!」
リリーは首を傾げた。
「毒物が使われた可能性があるなら、検査をするでしょう。その結果を確認するのは当然では?」
「それはそうですけど……!」
「では、問題ありませんね」
「問題しかありません!」
アデルの声が廊下に響いた。
すれ違った修道士が、怪訝そうに二人を見た。
記録保管室の前には、白髪交じりの男性書記官が待っていた。
「ベルンシュタイン候補者ですね」
「はい」
「枢機卿の許可が出ています。閲覧できるのは、本日の儀式に関する記録のみです」
「ありがとうございます」
リリーは深々と頭を下げた。
書記官は分厚い書類の束を机に置いた。
儀式進行表。祭具管理記録。聖水の調製記録。参列者名簿。そして、毒物検査報告書。
リリーはまず、進行表を開いた。
儀式は正午開始。司祭による聖水の奉献、聖女候補の紹介、祝福の祈り。その後に、候補者の能力を確認する簡単な試験が予定されていた。
しかし、実際には司祭の急変によって中断された。
彼女は次に、祭具管理記録を確認した。
銀杯は午前九時に保管庫から搬出され、九時半に祭壇へ設置されている。
聖水は午前十時に調製され、封印された水差しに入れられた。
記録には、担当者の署名が並んでいた。
「ふむ」
リリーは小さく呟いた。
「何かわかりました?」
アデルが身を乗り出す。
「いえ。まだ何も」
「では、なぜそんなに嬉しそうなんですか?」
「記録がきちんと残っているので」
「……本当に帳簿がお好きなんですね」
「帳簿は嘘をつきません」
リリーは言ってから、少し考え直した。
「正確には、帳簿そのものは嘘をつきません。書いた人間が嘘をつくことはあります」
「ややこしいです!」
最後に、毒物検査報告書を開いた。
厚手の羊皮紙に、整った文字が並んでいる。
検査対象は、中央祭壇で使用された銀杯の残留液。
検査結果は、毒性あり。
毒物の名称は、リリーの知らない植物由来のものだった。
ただし、報告書には、症状の経過と矛盾するような記述は見当たらない。
司祭が倒れた原因は、実際に毒だったのかもしれない。
彼女は書類をめくり、検査担当者の署名を確認した。
続いて、受付時刻を見た。
そして、指を止めた。
「……アデルさん」
「はい?」
「この報告書、いつ作成されたものですか?」
「え?」
「ここです」
リリーは羊皮紙の下部を指した。
そこには、検査受付時刻と報告書の作成時刻が記されていた。
受付時刻。午前十一時二十分。
報告書作成時刻。午前十一時四十分。
アデルは首を傾げた。
「それが、どうかしましたか?」
「儀式が始まったのは、正午ですよね」
「はい」
「司祭が倒れたのは、そのあとです」
「ええ」
「では、どうして」
リリーは、報告書の一行を指先でなぞった。
「司祭が毒を飲む前に、毒物検査が終わっているんでしょうか?」
アデルの顔から、血の気が引いた。
記録保管室の中は静かだった。
窓の外では、夕暮れの鐘が鳴り始めている。
一つ、二つ、三つ。
リリーは報告書をもう一度読み返した。
検査対象は、中央祭壇で使用された銀杯の残留液。
受付時刻は、午前十一時二十分。
作成時刻は、午前十一時四十分。
書類の日付は、今日。
誤記の可能性はある。
別の杯を検査した可能性もある。
事前検査が行われたのなら、それ自体は不自然ではない。
だが、少なくとも、この報告書をもって正午過ぎに倒れた司祭の毒物検査が済んだとすることはできない。
「リリー様……」
アデルが震える声で言った。
「これは、いったい……」
「わかりません」
リリーは正直に答えた。
「ですが、調べる必要があります」
彼女は報告書を机に置き、書記官へ向き直った。
「すみません。この書類の原本を作成した方に、お話を伺えますか?」
書記官は困惑した顔をした。
「何か不備でも?」
「不備かどうかは、まだわかりません」
リリーは穏やかに微笑んだ。
「ただ、神様が時間を巻き戻したのでなければ、説明の必要な記録があります」
書記官は黙り込んだ。
アデルは両手で顔を覆った。
「……お願いですから、また神様を持ち出さないでください」
「私ではありませんよ」
リリーは書類に目を戻した。
「最初に持ち出したのは、教会の方々です」
夕暮れの鐘が、なおも鳴っていた。
聖女選定は、まだ初日である。
そしてリリー・ベルンシュタインは、このときまだ知らなかった。
自分が聖女候補に選ばれた理由も。
この報告書が、なぜ彼女の手に届いたのかも。
ましてや、彼女が見つけた小さな時刻の矛盾が、王国最大の宗教組織を揺るがす事件の始まりになることなど、想像すらしていなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
神が間違いを犯さないとしても、人間は間違える。
そして、ときには、間違えたふりをする人間もいる。




