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Ⅴ 奇跡の証明を拒否する

 聖光教会には、聖女選定の際、候補者が三つの奇跡を示せば、その資格を認めるという慣習がある。

 ただし、これは正式な規則ではない。

 少なくとも、初代聖女エリシアの時代には存在しなかった。

 古い選定規則に書かれているのは、もっと簡潔なことだった。


『施恩者は、その恩寵をもって自らを証することを得ず』

 そして、

『証人は施恩者を見定め、また選定を司る者をも問うべし』


 奇跡を起こしたと主張する者が、自分でその正しさを証明してはならない。別の者が確かめなければならない。

 リリー・ベルンシュタインは、この規則を読んだとき、たいへん合理的だと思った。

 ただし、一つだけ不満があった。

 証人の仕事が、どう考えても多すぎるのである。

 施恩者の行いを調べるだけなら、まだよい。

 それに加えて、選定を司る者まで調べなければならないとなると、帳簿係の仕事としては明らかに過重だった。

 しかも、今回の場合、調べる相手が枢機卿と司教なのである。

 地方修道院の会計係が扱う案件としては、少々規模が大きい。

 もっとも、リリーには、もう一つ気になることがあった。

 三つの奇跡。三つの仕掛け。三つの奇跡を起こした者と、それを暴こうとした者。

 それらは、本当に同じ人物だったのだろうか。

 昨日まで、リリーはそう考えていた。

 しかし、今朝、帳簿と証言を並べ直してみると、どうしても一つだけ、説明のつかない点が残った。

 犯人が奇跡を偽物だと暴かせたかったのなら、なぜ、わざわざ本物の治癒能力を持つ少女を選んだのか。

 その少女の力が本物である限り、偽物の奇跡を暴いても、少女自身の能力までは否定できない。

 ならば、犯人が本当に狙っていたのは何だったのか。

 リリーは、その答えを確かめるため、正午の鐘が鳴るのを待っていた。


 *


 中央大聖堂の本堂には、三百人を超える参列者が集まっていた。

 高い天井から吊るされた銀の燭台には、無数の蝋燭が灯されている。色硝子を通した光が石床に落ち、祭壇の前に立つ七人の聖女候補を、赤や青の模様で彩っていた。

 リリーは列の端に立っていた。

 隣にはセレスティア・ローレンがいる。彼女は青白い顔をしていたが、背筋を伸ばし、静かに前を見つめていた。

 少し離れた席では、アデル・フォン・クラウゼンが落ち着かない様子で両手を組んでいる。

 祭壇の中央に立つオルフェン枢機卿は、参列者を見渡して口を開いた。


「本日、我らは神の御心に従い、新たな聖女を選定する」


 その声は、石造りの本堂に厳かに響いた。


「この三日間、我らは三つの奇跡を目撃した。毒杯を飲んだ司祭の救済、初代聖女像の血涙、そして失われた聖遺物の出現である」


 人々の間から感嘆の声が漏れた。


「これらは、神が我らに新たな聖女の到来を示された証であると――」

「異議があります」


 リリーが手を挙げた。

 アデルは、後方の席で目を閉じた。

 やはり、そうなった……。覚悟していたとはいえ、実際にそうなると、胃が痛かった。

 オルフェンはリリーを見た。


「ベルンシュタイン候補者。発言を許可する」

「ありがとうございます」


 リリーは列を離れ、祭壇の前へ進み出た。

 腕には厚い書類の束を抱えている。

 エドガー司教が眉をひそめた。


「何のつもりだね?」

「三つの奇跡について、確認したいことがあります」


「今は聖女選定の審問中だ」

「ですから、確認が必要なのです」


 リリーは穏やかに答えた。


「奇跡を根拠に聖女を選ぶのであれば、その奇跡が何を証明しているのか、明らかにしなければなりません」


 エドガーは何か言いかけたが、オルフェンが手で制した。


「続けたまえ」


 リリーは一礼した。


「では、最初に一つだけ、皆様にお尋ねします」


 彼女は参列者を見渡した。


「三つの奇跡は、本当に同じ目的で起こされたのでしょうか?」


 堂内がざわめいた。

 エドガーが鼻で笑った。


「何を言い出すかと思えば。三つとも、神の御業に決まっているではないか」

「そうでしょうか?」


 リリーは首を傾げた。


「私には、少し違って見えるんです」


 彼女は一枚目の書類を開いた。


「まず、最初の奇跡からお話しします」


 *


「マティアス司祭は、儀式の最中に聖杯から水を飲み、倒れました。そのあと、セレスティア様が治癒の祈りを捧げ、司祭は回復しました」


 リリーは、祭壇の脇に座るマティアスを見た。


「司祭様。あのとき、あなたは亡くなっていたのでしょうか?」


 マティアスは困惑した。


「……私は、意識を失っておりましたので」

「そうですね。では、医務局の記録ではどうでしょう」


 リリーは診察記録を掲げた。


「司祭様の呼吸と脈拍は、完全には停止していませんでした。つまり、死亡が確認された事実はありません」


 参列者たちがざわめいた。


「死者が蘇ったという説明は、少なくとも事実としては認められません」


 エドガーが立ち上がった。


「だが、毒を飲んだのは事実だ!」

「はい。儀式後の残留液から、毒性成分が検出されています」

「ならば、奇跡ではないか!」

「それは、まだわかりません」


 リリーは首を振った。


「毒を飲んで倒れた人が回復したことと、神の力によって死者が蘇ったことは、同じではありませんから」


 彼女は次の書類を開いた。


「それに、この事件には、もう一つ不審な点があります」


 毒物検査報告書。リリーが記録保管室で見つけた書類だった。


「この報告書は、儀式より前に作成されています」


 エドガーは腕を組んだ。


「事前検査だろう。王族の参列する儀式では、聖水の安全を確認することがある」

「その通りです」


 リリーは頷いた。


「実際、医務局のハインリヒ医務官に確認したところ、これは事前検査の報告書でした」


 エドガーは、わずかに表情を緩めた。


「ならば、何の問題もないではないか」

「ただし、問題は結果です」


 リリーはもう一枚の書類を取り出した。


「医務局に保管されていた原本には、『毒性なし』と記されていました。しかし、記録保管室に送られた写しには、『毒性あり』と書かれていたんです」


 堂内が騒然となった。


「誰かが、報告書を書き換えたというのか?」


 オルフェンが尋ねた。


「はい。少なくとも、二つの文書は一致していません」

「書き間違いの可能性は?」

「あります」


 リリーは頷いた。


「ですが、写しの受渡し記録を調べたところ、医務局から財務局へ届いたのが午前十一時四十五分。記録保管室へ送られたのが午後一時十分でした」


 彼女は、二つの時刻を指した。


「つまり、儀式が始まる前から、終わるまでの間、写しは財務局にあったのです」


 エドガーは黙った。


「そして、その写しを受け取ったのは、財務局のレオポルト・ヴァイス職員でした」


 リリーは、参列者の中にいるヴァイスを見た。

 彼は顔を強張らせていた。


「ヴァイスさん。昨日、あなたは私に、写しを司教様へお見せしたと証言しましたね」

「……はい」

「そのとき、結果は『毒性なし』だったと」

「……はい」

「そして、司教様は写しを十分ほど預かった」


 ヴァイスは、しばらく黙っていた。

 やがて、小さく頷いた。


「……その通りです」


 エドガーが声を荒らげた。


「何を言っている! 私は安全確認のために見ただけだ!」

「はい。その可能性はあります」


 リリーは頷いた。


「ただし、少なくとも司教様には、写しを書き換える機会がありました」


 エドガーは唇を噛んだ。


「……それだけでは証拠にならん!」

「その通りです」


 リリーは静かに答えた。


「ですから、次の奇跡についてお話しします」


 *


「第二の奇跡は、初代聖女像の血涙です」


 リリーは、西礼拝堂の修理記録を掲げた。


「聖女像の目尻には、左右対称の小さな穴がありました。そして、先月の台座補修工事では、導水管や弁、金属容器が購入されています」


 エドガーが口を挟んだ。


「それは排水設備のためだと、石工が説明したはずだ」

「はい。先月の工事については、そう説明されました」


 リリーは頷いた。


「ですが、三年前の工事でも、同様の部品が購入されています」


 彼女は古い帳簿を開いた。


「その予算書には、『第三次試験設備更新費』という注記がありました」


 参列者たちがざわめいた。


「さらに、納品明細には、導水管や弁だけでなく、歯車や滑車、鋼線なども記載されています」


 リリーは、オルフェン枢機卿を見た。


「猊下《げいか》。三年前の特別予算について、説明していただけますか?」


 オルフェンは、しばらく黙っていた。

 やがて、静かに答えた。


「古い祭儀設備の復元計画だ」

「復元?」

「初代聖女の時代に使われていた祭儀装置の記録が見つかり、それを再現するための試験だった」


 堂内がざわめいた。


「つまり、奇跡に見える現象を人工的に再現する設備が、三年前から存在していたのですね」

「……そうだ」


 リリーは頷いた。


「では、今回の血涙も、その設備を利用した可能性があります」


 エドガーが立ち上がった。


「可能性にすぎん!」

「はい」


 リリーは頷いた。


「ですが、昨日の朝、聖女像が血の涙を流した時刻は午前八時半でした」

「それが何だと言うのだ!」

「西礼拝堂の正面扉は、前日の夕方六時に施錠されていました。しかし、裏側の管理通路は別の鍵で管理されています」


 彼女は、礼拝堂の図面を掲げた。


「この管理通路からは、聖女像の台座の裏側へ近づけます。三年前に設置された導水管や弁を操作することも、構造上は可能です」


 エドガーは黙った。


「そして、その管理通路の鍵を持っているのは、財務局の設備管理係です」


 参列者たちがざわめいた。


「つまり、礼拝堂の正面扉を開けなくても、誰かが血涙の仕掛けを動かせた可能性があります」


 リリーは、静かに続けた。


「ただし、ここでも重要なのは、誰が設備を作ったかではありません」


 彼女は三年前の予算書を掲げた。


「この設備は、今回の聖女選定よりも前に作られています。つまり、今回の犯人は、既存の設備を利用しただけかもしれないんです」


 オルフェンは、わずかに目を細めた。


「……なるほど」


 リリーは次の書類を開いた。


「では、第三の奇跡についてお話しします」


 *


「第三の奇跡は、封印された祭壇室に現れた聖遺物〈《《暁の涙》》〉です」


 リリーは祭壇室の図面を広げた。


「祭壇室には三つの錠前があり、蝋印も破られていませんでした。管理官は毎朝、覗き窓から内部を確認していました」


 彼女は、扉の位置を指した。


「では、誰も入れない部屋に、どうやって首飾りを置いたのでしょう」


 エドガーが鼻で笑った。


「それこそ、神の奇跡ではないか?」

「そうかもしれません」


 リリーは頷いた。


「ただし、別の可能性もあります」


 彼女は図面の中央を指した。


「祭壇の内部には、三年前に設置された昇降装置がありました」


 参列者たちがざわめいた。


「これは、祭儀の際に聖遺物を祭壇の内部から持ち上げ、参列者に示すための装置だったそうです」


 リリーは、ヴァイスを見た。


「ヴァイスさん。あなたは昨日、この装置について説明してくださいましたね?」

「……はい」

「操作するには、祭壇室の西側にある点検通路から、操作棒を差し込む必要がある」

「……その通りです」


 リリーは頷いた。


「つまり、祭壇室の扉を開けなくても、外から首飾りを出現させることができます」


 エドガーは黙った。


「さらに、三日前、祭壇室は清掃と備品点検のために開けられています」


 リリーは管理台帳を掲げた。


「そのとき、ヴァイスさんは祭壇の内部を点検しています。つまり、首飾りを事前に隠しておく機会があったのです」


 ヴァイスは顔を強張らせた。


「……私は、そんなことはしていません!」

「はい。そうかもしれません」


 リリーは頷いた。


「ただし、装置を操作できた人は、ほかにもいるはずです」


 彼女は、参列者を見渡した。


「ここで、三つの奇跡を並べてみましょう」


 リリーは、机の上に三枚の紙を置いた。

 一枚目には、毒杯。

 二枚目には、血涙。

 三枚目には、聖遺物。


「三つの奇跡は、すべて人間の手で起こせる可能性がありました」


 彼女は、ゆっくりと続けた。


「そして、三つとも、財務局が関係しています」


 堂内がざわめいた。


「毒物検査報告書の写しは、財務局を経由していました。聖女像の設備は、財務局の予算で管理されていました。祭壇室の点検も、財務局の職員が担当していました」


 エドガーが立ち上がった。


「それが何だ! 財務局は教会の設備を管理する部署だ。関係していて当然ではないか!」

「その通りです」


 リリーは頷いた。


「だからこそ、財務局が関係しているだけでは、犯人を特定できません」


 エドガーは、わずかに表情を緩めた。

 しかし、リリーは続けた。


「ただし、三つの奇跡には、もう一つ共通点があります」

「……何だ」

「どれも、偽物だと見破るための手掛かりが、残されているのです」


 堂内が静まり返った。


 *


「毒物検査報告書の時刻は、誰でも読める場所に残されていました。聖女像の修理記録も、祭壇室の備品点検記録も、隠されていませんでした」


 リリーは、三枚の書類を並べた。


「犯人が奇跡を本物だと信じ込ませたかったなら、これほど調べやすい痕跡を残すのは不自然です」


 エドガーが腕を組んだ。


「だから、何だというのだ」

「私は、最初、犯人が奇跡を偽物だと暴かせようとしているのではないかと考えました」


 参列者たちがざわめいた。


「いったん、人々に奇跡を信じ込ませ、そのあとで偽物だと証明する。そうすれば、奇跡の中心にいたセレスティア様は、偽物の聖女として疑われるでしょう」


 リリーは、セレスティアを見た。彼女は、静かに顔を上げた。


「実際、エドガー司教は、今朝、セレスティア様の候補資格について異議を申し立てています」


 エドガーの顔色が変わった。


「……それは、教会の規則に従っただけだ!」

「はい」


 リリーは頷いた。


「ですが、ここで一つ、疑問が生まれます」

「何だ!」

「もし犯人の目的が、セレスティア様を失脚させることだったなら、何故、最初から本物の治癒能力を持つ彼女を選んだのでしょう?」


 エドガーは黙った。


「偽物の奇跡を暴いても、彼女の治癒能力そのものは否定できません。むしろ、独立した審査を行えば、本物だと確認される可能性があります」


 リリーは、ゆっくりと続けた。


「それなのに、犯人は彼女を奇跡の中心に据えた」


 彼女は一度、息を吸った。


「私は、ここで考えを変えました」


 堂内が静まり返った。


「犯人の目的は、セレスティア様を失脚させることではなかったのかもしれません」


 エドガーが眉をひそめた。


「……何?」

「むしろ、彼女を聖女に選ばせることが、最初の目的だったのではありませんか」


 参列者たちがざわめいた。


「毒杯、血涙、聖遺物。三つの奇跡を続けて起こし、人々に神の祝福を印象づける。──そして、その中心にいたセレスティア様を聖女に選ばせる」


 リリーは、静かに続けた。


「しかし、途中で計画が変わった」


 エドガーは黙っていた。


「何らかの理由で、犯人はセレスティア様を聖女にすることを諦め、今度は偽物の奇跡を暴かせようとした」


 リリーは、毒物検査報告書を掲げた。


「その転換点が、第一の奇跡のあとだったのではありませんか?」


 オルフェンが顔を上げた。


「……どういうことだね?」


「毒杯の事件では、マティアス司祭が倒れ、セレスティア様が治癒しました。しかし、司祭は死亡していませんでした」


 リリーは、診察記録を示した。


「つまり、死者の蘇生という奇跡は、成立していなかったのです」


 彼女は、ゆっくりと続けた。


「それなのに、教会は死者が蘇ったと公表しました」


 エドガーは黙った。


「もし犯人が、セレスティア様を聖女にするために奇跡を演出していたなら、これは都合の悪い結果だったかもしれません」


 リリーは、少し考えた。


「ですが、ここで犯人は、別の可能性に気づいたのではないでしょうか?」

「……何だというのだ?」

「──偽物の奇跡を暴けば、セレスティア様を失脚させることもできる」


 堂内に沈黙が落ちた。


「つまり、同じ仕掛けが、聖女を選ばせるためにも、聖女を失脚させるためにも使えるのです」


 エドガーは、しばらく彼女を見つめていた。


「……面白い話だ」

「ありがとうございます」

「褒めているのではない!」

「そうでしたか」


 アデルは後方で、思わず額を押さえた。

 こんな場面でも、リリーはリリーだった。

 しかし、リリーは笑わなかった。


「ただし、ここまでの話は、まだ仮説です」


 エドガーは、勝ち誇ったように笑った。


「ならば、何の意味もないではないか!」

「いいえ」


 リリーは静かに答えた。


「仮説が正しいかどうかは、これから確かめます」


 *


 リリーは、ヴァイスへ向き直った。


「ヴァイスさん。三日前の祭壇室の点検で、あなたは何をしていましたか?」

「……金具の点検です」

「首飾りは見ませんでしたか?」

「見ていません」

「では、祭壇の内部に、首飾りを隠すことはできましたか?」


 ヴァイスは、しばらく黙っていた。


「……できたかもしれません」

「ありがとうございます」


 リリーは頷いた。


「では、もう一つ。昨日の午前六時以前、あなたは点検通路へ行きましたか?」

「行っていません」

「午前五時半から六時までは、財務局の朝礼に出席していたそうですね」

「そうです」

「その前は?」

「自室にいました」

「誰か、確認できますか?」

「……一人で寝ていましたので」


 リリーは頷いた。


「つまり、午前五時半より前の行動については、証人がいないんですね」


 ヴァイスは唇を噛んだ。

 エドガーが立ち上がった。


「そんなもの、誰にでも当てはまるではないか!」

「そうですね」


 リリーは頷いた。


「ですから、ヴァイスさんが装置を操作したと断定することはできません」


 エドガーは、苛立ったように舌打ちした。

 リリーは続けた。


「ただし、三つの奇跡を起こすためには、少なくとも三つの条件が必要でした」


 彼女は指を一本立てた。

「第一に、祭儀の準備や検査報告書に触れられること」


 二本目。

「第二に、聖女像の設備や管理通路に近づけること」


 三本目。

「第三に、祭壇室の昇降装置を操作できること」


 リリーは、参列者を見渡した。


「この三つを満たす人物は、財務局の設備管理に関係する者に限られます」


 エドガーが口を開いた。


「だから、財務局の誰かが犯人だと言いたいのか!」

「いいえ」


 リリーは首を振った。


「財務局の誰かが、三つの奇跡に関与していた可能性が高い、ということです」

「同じことではないか!」

「違います」


 リリーは静かに答えた。


「犯人が一人とは限りませんから」


 堂内がざわめいた。


「三つの奇跡を起こした人物と、その奇跡を利用して誰かを失脚させようとした人物が、同じとは限らないのです」


 オルフェンが、ゆっくりと顔を上げた。


「……なるほど」


 リリーは続けた。


「ここで、エドガー司教に質問します」


 司教は、険しい顔で彼女を見た。


「……何だ」

「あなたは、セレスティア様に、マティアス司祭が倒れたら治癒を行うよう命じましたね」

「……それは、聖女候補の能力を確認するためだ」

「孤児院への支援を続けることを条件に?」


 エドガーの顔色が変わった。


「……何?」


 セレスティアが、一歩前へ出た。


「……はい」


 彼女の声は震えていた。


「司教様は、私が協力しなければ、故郷の孤児院への支援を続けるのは難しくなるとおっしゃいました」


 堂内がざわめいた。

 エドガーは声を荒らげた。


「それは、予算上の説明だ!」

「では何故、聖女候補への協力要請と、孤児院への支援を結びつけたのでしょう?」


 リリーは尋ねた。

 エドガーは答えなかった。


「司教様は、セレスティア様が本物の治癒能力を持っていることをご存じでした」

「…………」

「だからこそ、彼女を中心に奇跡を演出した」


 リリーは、静かに続けた。


「しかし、偽装の痕跡が残り、誰かに見破られる可能性が出てきた」


 エドガーは黙っていた。


「そこで、あなたは計画を変えた。奇跡を偽物だと暴かせ、セレスティア様の候補資格を取り消そうとした」


 リリーは、彼を見つめた。


「違いますか?」


 長い沈黙があった。

 やがて、エドガーは低い声で言った。


「……推測にすぎん」

「はい」


 リリーは頷いた。


「ここまでは、推測です」


 そして、彼女は書類を閉じた。


「ですが、一つだけ、確かなことがあります」


 エドガーは眉をひそめた。


「……何だというのだ」

「あなたは、三つの奇跡が偽物である可能性を知りながら、セレスティア様の候補資格を取り消そうとしました」

「それが何だ!」

「偽物の奇跡を仕掛けた者が誰であれ、セレスティア様がその責任を負うべきだという証拠は、まだありません」


 リリーは、静かに続けた。


「それなのに、あなたは彼女を排除しようとした」


 エドガーは黙った。


「それは、奇跡の真偽を確かめるためではありません」


 彼女は、まっすぐ司教を見た。


「聖女を選ぶ権限を利用して、一人の少女を裁こうとしただけです」


 *


 オルフェン枢機卿が、ゆっくりと立ち上がった。


「……ベルンシュタイン嬢」

「はい」

「君の言うことは理解した」


 彼は参列者を見渡した。


「確かに、三つの奇跡については、さらに調査が必要だろう」


 エドガーが顔を上げた。


「猊下!」

「だが、聖女選定そのものを中止するわけにはいかん」


 オルフェンは続けた。


「王国は、新たな聖女を必要としている。教会もまた、その責務を果たさねばならん」


 リリーは静かに聞いていた。


「そこで、私は提案する」


 枢機卿は、セレスティアを見た。


「今回の偽装された奇跡については、別途調査を行う。そのうえで、セレスティア・ローレンの治癒能力について、改めて審査する」


 参列者たちがざわめいた。


「彼女の能力は、今回の事件以前から確認されている。医務局の記録や、治療を受けた人々の証言もある」


 オルフェンはリリーへ向き直った。


「これなら、君も異論はあるまい?」


 リリーは少し考えた。


「はい。治癒能力について、独立した審査を行うことには賛成です」


 オルフェンは頷いた。


「よろしい」

「ただし、もう一つ、確認したいことがあります」


 枢機卿の表情が、わずかに硬くなった。


「……何だね」


 リリーは、古い写本を取り出した。


「聖女選定の原初の規則についてです」


 オルフェンは黙った。


「この規則には、二つの役割が定められています」


 リリーは、静かに読み上げた。


「一つは、神の恩寵を人々に施す〈《《施恩者》》〉。もう一つは、その恩寵を偽りなく見定める〈《《証人》》〉」


 参列者たちがざわめいた。


「そして、証人には、もう一つの務めがあります」


 リリーは頁《ページ》をめくった。


「『証人は、施恩者の行いを見定めるのみならず、選定を司る者の正しきをも問うべし』」


 堂内に沈黙が落ちた。


 リリーは顔を上げた。


「つまり、証人は聖女候補だけでなく、選定を行う者の正当性も審査する権限を持っているんですね」


 オルフェンは、ゆっくりと頷いた。


「……その通りだ」

「では、猊下」


 リリーは、まっすぐ彼を見た。


「あなたは、私を証人として招いたのですね?」


 オルフェンは答えなかった。

 しかし、やがて小さく息を吐いた。


「……そうだ」


 参列者たちがざわめいた。


「君には、奇跡を見極める力がある。だからこそ、聖女候補として招いた」


 リリーは頷いた。


「ありがとうございます」


 そして、静かに続けた。


「では、証人として、猊下にも質問します」


 オルフェンの表情が変わった。


「……私に?」

「はい」


 リリーは書類を掲げた。


「猊下は、三年前から不審な設備の存在を知っていました」

「……そうだが」

「それなのに、今回の奇跡が起きたとき、神の御業だと公表しました」

「教会の秩序を守るためだ」

「秩序を守るために、真偽の確認されていないものを奇跡だと宣言したのですか?」


 オルフェンは黙った。

 リリーは続けた。


「猊下は、私が不正を暴くことを望んでいました。だから、記録の閲覧を許可し、調査を妨げなかった」

「……その通りだ」

「──ですが、その結果、セレスティア様が疑われる危険については、十分に考えていなかった」


 オルフェンは、ゆっくりと息を吐いた。


「……君の言う通りかもしれん」


 リリーは首を振った。


「かもしれない、ではありません」


 堂内がざわめいた。


「あなたは、聖女候補を守る責任がある立場です。その責任を果たさず、私を使って不正を暴かせようとした」


 オルフェンは黙っていた。


「それは、正しいことだったのでしょうか?」


 長い沈黙があった。


 やがて、枢機卿はゆっくりと頭を下げた。


「……正しくなかった」


 その瞬間、聖堂が騒然となった。

 王国最大の宗教組織の最高権威者が、一人の見習い修道女の前で、自らの過ちを認めたのである。

 オルフェンは顔を上げた。


「私は、教会を守ることばかり考えていた」


 その声は、先ほどまでよりもずっと低かった。


「だが、教会を守るために、人を利用してはならなかった」


 リリーは静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 オルフェンは、苦笑した。


「……君を呼んだのは、間違いだったかもしれんな」

「そうかもしれませんね」


 リリーは真面目な顔で答えた。


「私は、扱いにくい人間なので」


 その言葉に、何人かが思わず笑った。

 緊張に包まれていた聖堂の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。


 *


 審問は、その後も続いた。

 三つの奇跡については、正式な調査委員会が設置されることになった。

 エドガー司教は、財務局の職員たちの証言と会計記録をもとに、調査を受けることになった。

 ただし、すべての責任がその場で確定したわけではなかった。

 リリーは、そのことを何度も強調した。

 証拠が揃っていない以上、誰かを罪人だと断定してはならない。

 それは、エドガー司教に対しても同じだった。


 一方、セレスティアについては、今回の偽装された奇跡とは別に、治癒能力の審査が行われた。

 彼女の力は、以前から多くの病人を救ってきた実績があり、医務局の記録や、治療を受けた人々の証言も残っていた。

 その結果、選定委員会は、彼女の治癒能力を正式に認めた。


 そして、聖女選定は、改めて行われた。

 結果は、全会一致だった。

 セレスティア・ローレン。

 彼女が、新たな聖女に選ばれたのである。

 人々は拍手を送った。

 しかし、セレスティアはすぐには微笑まなかった。

 彼女は祭壇の前に立ち、静かに頭を下げた。


「……私は、皆様が思っているような、立派な人間ではありません」


 その声は、聖堂の隅々まで響いた。


「……怖くて、間違えたこともあります。誰かに従ってしまったこともあります」


 彼女は一度、言葉を切った。


「それでも、私にできることがあるなら、これからも人々を助けたいと思います」


 聖堂は静まり返っていた。


「どうか、私を神様の代わりだとは思わないでください」


 セレスティアは微笑んだ。


「……私は、ただの人間ですから」


 その言葉のあと、拍手が起こった。

 今度は、先ほどまでとは違う拍手だった。

 奇跡への熱狂ではなく、一人の少女の決意に対する拍手である。

 リリーも、静かに手を叩いた。アデルは隣で泣いていた。


「……よかったですね……」

「そうですね」

「リリー様は泣かないんですか?」

「泣く理由がありません」

「感動しませんか?」

「していますよ」

「では、もう少し表情に出してください!」

「難しい注文ですね」


 アデルは涙を拭きながら笑った。


 *


 審問が終わったあと、リリーはオルフェン枢機卿に呼び止められた。


「ベルンシュタイン嬢」

「はい?」

「君に、一つ提案がある」


 リリーは嫌な予感がした。


「何でしょう?」

「今回の事件を受け、教会は奇跡の審査制度を見直すことになった」

「それはよいことですね」

「そこで、君に新設される奇跡審査局の顧問を務めてもらいたい」


 リリーは、しばらく黙っていた。


「……顧問ですか」

「そうだ」

「具体的には、どのような仕事でしょうか?」

「各地で報告される奇跡の調査、記録の検証、証人への聞き取り、必要に応じた現地調査などだ」

「…………」

「待遇は保証する。住居も用意しよう」

「…………」

「どうかね?」


 リリーは、ゆっくりと頭を下げた。


「お断りします」


 オルフェンは目を瞬いた。


「……何?」

「お断りします」

「何故だね?」

「仕事が増えます」


 枢機卿は、しばらく彼女を見つめていた。

 そして、額を押さえた。


「ふっ……君は、本当にそればかりだな」

「大切なことです」

「教会の未来がかかっているのだぞ?」

「私の睡眠時間もかかっています」


 オルフェンは深いため息をついた。


「……わかった。無理強いはせん」

「ありがとうございます」


 リリーは満足そうに頷いた。

 しかし、枢機卿は最後に一つだけ尋ねた。


「ベルンシュタイン嬢」

「はい」

「君は、奇跡を信じているのかね?」


 リリーは少し考えた。

 この三日間、彼女は多くのものを見た。

 毒杯。血の涙。密室の聖遺物。そして、セレスティアの治癒。

 その中には、人間が仕組んだ偽物もあった。

 しかし、すべてが偽物だったわけではない。

 彼女は静かに答えた。


「信じています」


 オルフェンは、少し驚いたようだった。


「……そうか」

「はい」


 リリーは微笑んだ。


「ただ、信じることと、何でも信じ込むことは違いますから」


 枢機卿は、しばらく彼女を見つめていた。

 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……その通りだな」


 *


 翌朝。リリーは中央大聖堂の正門前に立っていた。

 小さな鞄を肩にかけ、北方のベルク修道院へ帰る馬車を待っている。

 隣にはアデルがいた。


「本当に、帰ってしまうんですね……」

「はい」

「もう少し、王都に滞在されてもよいのでは?」

「旅費が支給されるのは今日までですから」

「そこですか!?」


 アデルは呆れたように笑った。


「リリー様らしいですね……」

「そうでしょうか?」

「ええ」


 彼女は少し寂しそうに微笑んだ。


「でも、楽しかったです」

「私もです」

「……本当ですか?」

「はい。大聖堂の帳簿は、非常に興味深かったので」

「私との時間は!?」

「それも、もちろん」


 リリーは微笑んだ。

 アデルは頬を膨らませたが、すぐに笑った。

 そのとき、正門の向こうからセレスティアが歩いてきた。

 白い礼装ではなく、簡素な修道服を着ている。


「リリー様!」

「セレスティア様」


 彼女は駆け寄ってきた。


「もう、お帰りになるんですね」

「はい」

「……寂しくなります」

「私もです」


 セレスティアは少し笑った。


「あなたには、本当に助けられました」

「私は、書類を調べただけです」

「それが、私には必要だったのです」


 彼女は静かに頭を下げた。


「ありがとうございました」


 リリーは、少し困ったように微笑んだ。


「どういたしまして」


 セレスティアは顔を上げた。


「ところで、リリー様」

「はい」

「一つ、お願いがあるんです」

「何でしょう」

「今度、私の故郷の孤児院へ来ていただけませんか?」


 リリーは目を瞬いた。


「孤児院へ?」

「はい。教会の支援について、会計の見直しをすることになったのです」

「……会計?」

「ええ。今までのように、一部の人の判断だけで支援が止まらないように、独立した管理制度を作ることになって……」


 リリーは、少し考えた。

 それは、よいことだと思った。

 寄付金の使途を明確にし、支援の継続を制度として保証する。

 誰かの善意だけに頼らない仕組みは、必要である。


「なるほど」

 彼女は頷いた。


「それなら、会計規則を確認したほうがよいですね」


 セレスティアの顔が明るくなった。


「では、来てくださいますか?」

「いえ」

「えっ?」

「仕事が増えますので」

 セレスティアは、しばらく呆然としていた。そして、声を立てて笑った。

「もう、リリー様ったら!」

 アデルも笑った。

 リリーは、少し不思議そうに二人を見た。


「何か、おかしいでしょうか?」

「いいえ!」


 セレスティアは笑いながら首を振った。


「あなたらしいと思っただけです」


 そのとき、馬車が到着した。

 リリーは二人に別れを告げ、乗り込もうとした。しかし、ふと思い出したように振り返った。


「ああ、そうでした」

「何ですか?」

 アデルが尋ねた。

「セレスティア様。孤児院の会計規則ですが──」

「はい」

「もし必要でしたら、ベルク修道院へ書類を送ってください」


 セレスティアは目を丸くした。

「……見てくださるのですか?」

「時間があるときに」

 リリーは微笑んだ。

「間違いがあれば、気になりますから」


 セレスティアは、嬉しそうに頷いた。

「ありがとうございます!」


 リリーは馬車に乗り込んだ。

 御者が手綱を引く。車輪が石畳の上をゆっくりと転がり始めた。

 窓の外では、アデルとセレスティアが手を振っている。

 リリーも小さく手を振り返した。

 やがて、中央大聖堂の尖塔が遠ざかっていった。

 彼女は鞄から一冊の本を取り出した。

 古い聖典の写しだった。

 帰りの馬車の中で読むつもりで、古文書室から借りてきたのである。

 頁《ページ》を開くと、初代聖女エリシアの言葉が記されていた。


『神の光は、疑う者の目にも等しく降り注ぐ』


 リリーは、その一節をしばらく眺めていた。

 そして、小さく微笑んだ。

「……なるほど」


 彼女は本を閉じた。窓の外には、王都の街並みが広がっている。

 人々は今日も働き、笑い、祈り、ときには嘘をつき、ときには間違える。

 神がどこまで見守っているのか、リリーにはわからなかった。

 ただ、少なくとも、人間の行いについては、人間が責任を負うべきだと思っていた。

 奇跡が起きたとしても。奇跡が起きなかったとしても。その考えは、変わらない。

 リリー・ベルンシュタインは、聖女にならなかった。奇跡を起こす力も、持っていなかった。

 ただ、奇跡を疑い、記録を調べ、証拠を集め、真実を見極めようとしただけである。


 それが、神の御心だったのかどうか。

 彼女には、わからない。

 そして、わからないことを、無理にわかったことにするつもりもなかった。

 馬車が王都の門を抜けた。

 遠くで、中央大聖堂の鐘が鳴っている。

 リリーは目を閉じ、ようやく少しだけ眠ることにした。

 神は間違いを犯さない。人間は間違える。

 だからこそ、人間には、確かめるという務めがある。

 それは、奇跡を否定するためではない。

 奇跡の名を借りた、人間の嘘を見逃さないためである。


 La Fine.

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