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第6話 見せしめ

「で、結果はどうなった?」

 黒田の声は、低く、そしてよく通った。

 営業部のフロア。

 午前中のざわめきの中で、その声だけが妙に輪郭を持って響く。


 電話の保留音、キーボードの打鍵音、コピー機の駆動音。

 そのすべてが一瞬だけ遠のいたように感じた。

 誠は立ったまま、黒田のデスクの前にいた。

 周囲に人がいる状態で呼び止められる。

 それ自体が、メッセージだった。

 ——ここでやる。

 誠は視線を落とさずに答える。

「坂口様の案件ですが、条件付きで前向きに検討となっています」

「検討、ね」

 黒田は椅子にもたれたまま、指先でデスクを軽く叩く。

「で、受注は?」

 わざと間を置かない。

 逃げ場を与えない問い方。

「……まだです」

 誠の声は落ち着いていたが、その奥にわずかな乾きがあった。

 黒田は鼻で笑った。

「つまり、ゼロだ」

 その一言が、空気に沈む。

 周囲の視線が、じわりと集まってくるのが分かる。

 誰もあからさまには見ない。

 だが、耳は確実にこちらに向いている。

 誠は何も言わなかった。

 言い訳を挟めば、それはそのまま“弱さ”になる。

「高城」

 黒田はゆっくりと立ち上がった。

「来い」

 短い言葉。だが拒否はできない。


 会議室のドアが閉まる音は、やけに大きく聞こえた。

 外の喧騒が遮断される。

 代わりに、空気の重さだけが残る。

「座れ」

 誠は椅子に腰を下ろした。

 黒田は立ったまま、しばらく誠を見下ろしていた。

 その視線には、明確な意図があった。

 ——測っている。

 どこまで耐えるか。

 どこで折れるか。

「これが、お前のやったことか」

 黒田は資料を机に投げた。

 紙の束が滑って、誠の前で止まる。

 誠はゆっくりと視線を落とした。

 自分が作った提案書。

 何度も書き直した内容。

 それが今、ただの“結果ゼロの証拠”として置かれている。

「……はい」

「ふざけるな」

 声は荒げていない。

 だが、言葉の圧が強い。

「二週間かけて、ゼロ。しかも自分から“売らない”判断をした」

 机を指先で叩く。

「何を考えてる?」

 誠は答えなかった。

 考えていることはある。

 だが、それをそのまま言えば通じる場ではない。

「顧客のため、か?」

 黒田が続ける。

「いいだろう。理屈としては正しい」

 一瞬、肯定する。

 だが——

「それで会社はどうなる?」

 すぐに切り替える。

「お前の給料はどこから出てる?」

「……会社です」

「そうだな」

 黒田は頷いた。

「じゃあ、その会社に対して何を返してる?」

 誠は、答えなかった。

 答えは分かっている。

 ——何も返していない。

 少なくとも、数字としては。

「高城、お前な」

 黒田は少しだけ声を落とした。

「正しいことをやるのは結構だ」

 その言葉に、わずかな含みがある。

「だがな、結果が伴わなければ、それはただの自己満足だ」

 静かに、しかしはっきりと刺す。

 誠の胸の奥に、わずかな痛みが走る。

 否定できない。

 だが、受け入れきれない。

 その間で、言葉が止まる。

「今回の件、他の営業にやらせたらどうなった?」

 黒田が続ける。

「……売れていたと思います」

「そうだ」

 即答だった。

「問題は出るだろう。だが売上は立つ」

「……はい」

「お前は、それを“やらなかった”」

 その言葉に、意図的な強調が乗る。

 やらなかった。

 選択した、という意味。

 誠はゆっくりと顔を上げた。

「潰したとは思っていません」

 黒田の眉がわずかに動く。

「ほう」

「形を変えただけです」

「結果は出てない」

「まだです」

 その一言で、空気が止まる。

 黒田は数秒、誠を見ていた。

 やがて、口元だけで笑う。

「“まだ”か」

 その言葉は、嘲笑に近い。

「いいだろう」

 黒田は椅子に座った。

 肘をつき、指を組む。

「じゃあ結果を出せ」

 一言ずつ区切るように言う。

「期限は一ヶ月」

 誠の喉が、わずかに乾く。

「それで数字にならなければ——」

 言葉を切る。

 その間が、妙に長く感じる。

「お前の担当、全部外す」


 その一言で、すべてが確定した。

 営業としての立場。

 案件。

 顧客。

 それらが、一気にゼロになる。

「営業としては終わりだと思え」

 静かだった。

 だが、その分だけ現実感が強い。

 誠は、数秒だけ黙った。

 頭の中で、いくつかの選択肢が浮かぶ。

 引き返す。

 謝る。

 やり方を変える。

 どれも現実的だ。

 どれも“正しい”選択だ。

 だが——

「……やります」

 気づけば、そう言っていた。

 黒田の目が、わずかに細くなる。

「理由は?」

「この形じゃないと、成立しないからです」

 沈黙。

 数秒。

 だが、体感ではもっと長い。

 黒田は深く息を吐いた。

「……勝手にしろ」

 それは許可ではない。

 突き放しだ。

「ただし、結果が出なければ終わりだ」

「はい」

 誠は頷いた。

 その動作は、思ったよりも自然だった。


 会議室を出た瞬間、空気の温度が変わった気がした。

 視線。

 意識。

 距離。

 すべてが、ほんの少しだけ遠くなる。

「終わったな」

 誰かの小声が聞こえる。

 誠は振り向かなかった。

 席に戻り、ゆっくりと椅子に座る。

 パソコンの画面を開く。

 何も変わっていないはずなのに、世界の見え方が少し違う。

「……一ヶ月」

 小さく呟く。

 時間は、思ったよりも短い。


 その夜。

 帰宅すると、由紀がすぐに気づいた。

「何かあったでしょ」

 顔を見るなり言う。

 誠は少しだけ苦笑した。

「分かるか」

「分かるよ」

 テーブルに座る。

 しばらく黙ってから、言った。

「一ヶ月で結果出せって言われた」

 由紀の手が止まる。

「出なかったら?」

「営業外される」

 言葉にすると、現実感が増す。

 由紀は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ視線を落とす。

「……それでもやるの?」

 小さな声だった。


 誠は少し考えた。

 やらない選択肢もある。

 だが——

「やる」

 短く答える。

「なんで?」

 その問いは、責めるものではない。

 ただ、確かめるような響き。

 誠は言葉を探した。

「このままだと、嫌なんだ」

 由紀は、ゆっくりと息を吐いた。

「そっか」

 それ以上は何も言わない。

 だが、その沈黙の中に、いくつもの感情が混じっているのが分かった。

 不安。

 諦め。

 そして、少しだけの理解。


 その夜、誠は一人で机に向かった。

 静かな部屋。

 時計の針の音だけが響く。

 提案書を開く。

 文字を見つめる。

「……やるしかないな」

 それは、覚悟というよりも。

 選択の結果だった。

 もう戻らないと決めた、その先にあるもの。

 誠は、ゆっくりとキーボードに手を置いた。

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