第5話 売らない決断
月曜の朝は、いつも少しだけ重い。
電車の中。
吊り革につかまりながら、誠はぼんやりと窓の外を見ていた。
週末に詰めた提案書の内容が、頭の中で何度も再生される。
段階導入。
コスト分散。
作業の簡略化。
形にはなった。
だが——
「通るかどうかは、別だな」
小さく呟く。
会社が認めるか。
顧客が納得するか。
どちらも、まだ分からない。
ポケットの中のスマホが震えた。
坂口からだ。
『今日、少しお時間いただけますか。社内で方向性を決めることになりまして』
来たな、と思う。
「分かりました。本日伺います」
短く返信する。
決める、か。
つまり——この提案が通るか、完全に終わるか。
どちらかだ。
会社に着くと、すぐに黒田に呼ばれた。
「高城、ちょっと来い」
短い声。
会議室に入ると、黒田は腕を組んだまま立っていた。
「坂口の件、今日だな」
「はい」
「提案はまとまったか?」
「一応は」
「見せろ」
誠はノートと資料を差し出す。
黒田は黙って目を通す。
ページをめくる音だけが、部屋に響く。
数分。
やがて、資料を閉じた。
「……面白いな」
意外な言葉だった。
誠は顔を上げる。
「ただし」
黒田は続ける。
「これ、うちの利益はどうなる?」
核心だ。
誠はすぐに答える。
「短期的には落ちます」
「だろうな」
「ですが、中長期では——」
「“長期”はいい」
遮られる。
「今期の数字はどうする?」
現実だ。
誠は一瞬、言葉に詰まる。
黒田はそのまま言う。
「高城。会社はな、“いつか儲かる”では動かない」
「……はい」
「分かってるならいい」
黒田は資料を机に置いた。
「その提案で行くなら、覚悟しろ」
「覚悟、ですか」
「ああ」
視線が鋭くなる。
「今回も“売らない”ってことになる可能性が高い」
言い切られる。
「それでもやるのか?」
部屋が静まる。
誠は資料に目を落とした。
段階導入。
分散。
最適化。
どれも、顧客にとっては意味がある。
だが、会社の数字としては——弱い。
分かっている。
分かっていて。
それでも。
「……やります」
顔を上げて言った。
黒田の目が、わずかに動く。
「理由は?」
短く問われる。
誠は、少しだけ考えてから答えた。
「この形じゃないと、成立しないからです」
沈黙。
黒田はしばらく誠を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……いいだろう」
意外にも、否定はしなかった。
「ただし」
再び釘を刺す。
「結果が出なければ、お前の評価はさらに落ちる」
「はい」
「分かってるな?」
「分かってます」
黒田はそれ以上何も言わなかった。
「行ってこい」
それだけだった。
外に出ると、思ったよりも足が軽かった。
追い込まれているはずなのに、不思議と迷いはない。
「決めたから、か」
自分で呟く。
売るか、やめるか。
その間を取るのではない。
“この形でしかやらない”と決めた。
それが——売らない、ということなのかもしれない。
昼過ぎ。
坂口の会社に向かう。
地方の工務店。
事務所の前には、作業車が何台も止まっている。
中に入ると、現場の空気がそのまま流れていた。
「高城さん、どうも」
坂口が出てくる。
「今日は無理言ってすみません」
「いえ」
応接スペースに通される。
「で、どうですか」
坂口は単刀直入だ。
「正直に言ってください」
誠は頷いた。
資料を広げる。
「結論から言います」
一呼吸置く。
「今の形では、やらない方がいいです」
坂口は、静かに聞いている。
「ただし」
誠は続ける。
「条件を変えれば、成立させることは可能です」
資料をめくる。
段階導入の説明。
コスト分散。
作業効率化。
一つひとつ、丁寧に話していく。
坂口は途中で何度か頷いた。
「……なるほどな」
一通り終わると、腕を組む。
「つまり、“やり方を変えればいける”ってことか」
「はい」
「でも、それって手間増えないか?」
「短期的には増えます」
正直に言う。
「ただ、長期的には負担は減ります」
坂口は少し笑った。
「長期、か」
その言葉の重みは、分かっている。
現場は、今が全てだ。
「正直に言うと」
坂口が言う。
「他の会社はな、“すぐできます”って言うんだよ」
「……そうでしょうね」
「そっちの方が楽だ」
「はい」
「でもな」
坂口は誠を見た。
「あんたの話の方が、現実的だ」
胸の奥が、少しだけ動く。
「ただ」
坂口は続ける。
「社内で通すには、もう一押し欲しい」
来た、と思う。
「何が必要ですか?」
「“なぜ今やるのか”だな」
シンプルだが、難しい。
誠は少し考えた。
そして、言った。
「今やらないと、後でコストが膨らむからです」
「それは分かる」
「もう一つは——」
言葉を選ぶ。
「現場の負担が、今以上に増える前に整える必要があるからです」
坂口は黙る。
誠は続けた。
「今なら、まだ調整できます」
「でも、ギリギリですよね」
「そうです」
「これ以上遅れると?」
「やらない方がいい、という判断になります」
はっきり言った。
坂口は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑う。
「相変わらずだな」
「何がですか」
「売らない営業だ」
苦笑混じりだ。
だが——嫌な感じではない。
「……そうかもしれません」
誠も少し笑った。
夕方。
家に帰ると、陽菜がリビングにいた。
「おかえり」
「ただいま」
「どうだった?」
珍しく、先に聞いてくる。
「まだ分からないな」
正直に答える。
「そっか」
陽菜は少し考えてから言った。
「でもさ」
「ん?」
「お父さん、前よりスッキリしてる」
「そうか?」
「うん」
少し笑う。
「なんか、迷ってない感じ」
誠は一瞬、言葉に詰まる。
迷っていない。
確かに——決めた。
売るかどうかではなく。
“どうやるか”を。
「……そうかもな」
静かに答える。
その夜。
誠は一人でベランダに出た。
夜風が少し冷たい。
遠くで車の音がする。
手すりにもたれながら、空を見上げる。
「……売らない、か」
小さく呟く。
これまでは、“結果として売らなかった”だけだった。
だが今は違う。
選んだ。
この形でしかやらない、と。
それが通らなければ——売らない。
それが、今の自分の仕事だ。
「……やるしかないな」
静かに息を吐く。
その決断が——自分の立場をさらに悪くする可能性もあると分かっている。
それでも。
誠は、部屋に戻った。
机の上には、提案書が置いてある。
まだ完成ではない。
だが、方向は決まった。
売らない。
その先へ進むために。
誠は再び椅子に座り、パソコンを開いた。
この一手が——
会社の中で、自分の立ち位置を決定的に変えることになるとは、まだ知らなかった。




