第3話 条件を分解する
夜のリビングは、静かだった。
テレビはついているが、音は小さい。
由紀はキッチンで片付けをしていて、陽菜は自分の部屋にいる。
誠はテーブルにノートを広げていた。
白紙。
その中央に、ただ一行。
『坂口様案件 再設計案』
そこから先が、進まない。
「……どうすればいい」
小さく呟く。
売らない理由は、いくらでも出てくる。
リスク、コスト、運用負荷。
だが、それを並べても意味がない。
求められているのは逆だ。
“どうすれば成立するか”
ペンを握る。
しばらく考えてから、ノートの左側に書いた。
『現状の問題』
・初期導入コストが高い
・運用負荷が現場に偏る
・担当者のスキル不足
・トラブル時の対応体制が弱い
一つひとつ、思い出しながら書き出していく。
頭の中に、坂口の現場が浮かぶ。
人手不足。
余裕のないスケジュール。
「このまま入れたら、回らない……」
それは間違いない。
だが。
「……じゃあ、どうすれば回る?」
ペンが止まる。
考える。
“売らない”なら簡単だ。
だが今回は違う。
「条件……か」
ふと、言葉が浮かぶ。
条件。
成立するための前提。
誠はノートの右側に、新しく見出しを書いた。
『成立条件』
しばらく空白が続く。
やがて、ゆっくりと一つ目を書いた。
・運用負荷を下げる仕組み
次に。
・初期コストの分散
さらに。
・現場教育のサポート
書きながら、少しずつ輪郭が見えてくる。
「……分解すればいいのか」
問題を、そのまま受け止めるのではなく。
要素に分けて、一つずつ潰す。
当たり前のことだが——
営業で、ここまでやったことはなかった。
「まだ起きてるの?」
振り向くと、由紀が立っていた。
「うん、ちょっとな」
ノートを見て、由紀が眉をひそめる。
「仕事?」
「ああ」
「大変だね」
その言い方は、労い半分、不安半分だ。
「例の件?」
「まあな」
由紀は椅子に座り、ノートを覗き込む。
「これ、何?」
「案件の整理」
「ふーん……」
少し黙ってから、言う。
「売れそうなの?」
ストレートだ。
誠は一瞬考えてから答える。
「このままじゃ無理だな」
「じゃあ?」
「どうすればできるか、考えてる」
由紀は少し驚いた顔をした。
「珍しいね」
「何が?」
「いつもなら“無理です”って終わりじゃない?」
苦笑する。
「そうかもな」
「今回は違うんだ」
「……そうだな」
なぜ違うのか、自分でもはっきりしない。
ただ——
あの問いが、引っかかっている。
“どうすればいいのか”
「うまくいくといいね」
由紀はそれだけ言って立ち上がった。
「無理しすぎないでよ」
「ああ」
短く返す。
その言葉が、少しだけ軽く感じた。
翌朝。
出社すると、すぐに佐伯が寄ってきた。
「おはようございます!」
「おはよう」
「昨日のレビュー、どうでした?」
「まあ、宿題が増えたな」
「宿題?」
「“売れる形を考えろ”だと」
佐伯は目を丸くした。
「難しそうですね……」
「難しいな」
正直に言う。
「でも、ちょっとだけ見えてきた気もする」
「本当ですか?」
「ああ」
誠はデスクの上のノートを開いた。
「問題をそのまま見るんじゃなくて、分けて考える」
「分ける?」
「例えば、この案件だと——」
昨日書いた内容を簡単に説明する。
佐伯は真剣に聞いている。
「なるほど……」
「全部一気に解決しようとすると無理でも、一つずつなら手があるかもしれない」
「それって、営業の仕事なんですか?」
いい質問だ、と誠は思った。
「分からない」
少し笑う。
「でも、少なくとも“売るため”には必要かもしれない」
佐伯は小さく頷いた。
「なんか……営業っぽくないですね」
「そうだな」
「でも、面白そうです」
その一言に、誠は少しだけ救われた気がした。
午前中。
誠は過去の資料を引っ張り出していた。
類似案件。導入事例。トラブル報告。
机の上に広げ、目を通していく。
「……やっぱり出てるな」
運用負荷に関するクレーム。
想定外のコスト増。
予想通りだ。
だが、その中に——
「ん?」
一つ、気になる記述があった。
『段階導入により初期負荷を軽減』
誠はその資料を引き寄せる。
詳細を読む。
一気に導入するのではなく、機能を分けて段階的に入れる方法。
「これなら……」
初期コストも分散できる。
現場の負荷も抑えられる。
完全な解決ではないが——
一つ、条件が埋まる。
誠はすぐにノートに書き加えた。
・段階導入プラン
ペンの動きが、少し速くなる。
昼過ぎ。
電話が鳴った。
坂口だ。
「お世話になっております、高城です」
『あ、高城さん。すみません、今大丈夫ですか』
「はい」
『例の件なんですが……社内でも話したんですが、やっぱり難しいって意見が多くて』
「そうですか」
予想通りだ。
『ただ、やりたいって声もあるんですよ。効率は上がるんで』
坂口は少し苦笑する。
『だから、余計に判断が難しくて』
現場のリアルだ。
「いくつか、方向性は考えています」
誠は言った。
『本当ですか?』
「まだ整理中ですが、例えば——」
段階導入の話を簡単に伝える。
数秒の沈黙。
『……それ、できるんですか?』
「条件はありますが、可能性はあります」
『なるほど……』
坂口の声が、少しだけ前向きになる。
『他にもありますか?』
「いくつか」
誠はノートを見ながら答える。
『ぜひ聞かせてください』
その言葉に、誠の背筋が少し伸びた。
求められている。
ただ売るのではなく——
考えることを。
電話を切ったあと。
誠は椅子に深く座った。
「……いけるかもしれないな」
小さく呟く。
まだ確信はない。
だが、ゼロではない。
売るか、やめるか。
その二択ではなく。
“成立させる”
そのための道が、うっすら見え始めている。
そのとき。
背後から声がした。
「高城」
振り向くと、黒田が立っていた。
「進んでるか?」
「はい、少しずつですが」
「そうか」
黒田はデスクのノートに目を落とす。
しばらく無言。
そして、ぽつりと言った。
「で、売れるのか?」
核心だ。
誠は一瞬だけ迷った。
だが、はっきり答える。
「……まだ分かりません」
黒田は鼻で笑った。
「正直だな」
「ただ——」
誠は続ける。
「このままじゃ無理なのは確実です」
「当たり前だ」
「なので、成立する条件を一つずつ潰しています」
黒田の目が、わずかに細くなる。
「ほう」
「時間はかかりますが、形にはできると思います」
数秒の沈黙。
黒田は何も言わない。
ただ、誠を見ている。
やがて。
「……やってみろ」
短く、それだけ言った。
「ただし」
一歩近づく。
「結果が出なければ、意味はない」
その言葉は、重い。
だが同時に——
チャンスでもあった。
「はい」
誠は頷いた。
黒田はそれ以上何も言わず、去っていく。
夕方。
誠はノートを閉じた。
まだ未完成だ。
だが、確実に前に進んでいる。
売らない理由ではなく。
売れる条件。
その差は、小さいようで大きい。
「……やるか」
小さく呟く。
パソコンに向かい、提案書の作成を始める。
画面に並ぶ文字が、少しずつ形になっていく。
それは——
これまでの営業とは、明らかに違うものだった。
誠はまだ知らない。
この“分解して考える”という行為が、
自分の立場も、会社の見方も、変えていくことになることを。
だがその変化は、確実に始まっていた。




