第2話 売らない理由
朝のホームセンターは、静かだ。
開店からまだ三十分。客はまばらで、通路の奥まで見通せる。
誠はカートも使わず、ゆっくりと棚を見て回っていた。
ネジ、パッキン、配管部材。
仕事で扱うものばかりだが、ここで見ると少し違って見える。
「同じ部品でも、使い方次第か……」
小さく呟く。
棚の前で足を止める。
給水用の継手。
規格、耐圧、材質。
細かい表示を一つひとつ目で追う。
営業としては、こんなことをしても売上には直結しない。
だが誠にとっては、“知っているかどうか”が気になって仕方がなかった。
知らないまま、勧めるのが嫌なのだ。
ポケットの中のスマホが震えた。
会社からの通知。
朝イチの社内メールだ。
開く。
『本日午後、重点案件レビューを実施。対象者は別途連絡』
短い文章。
その下に、名前のリスト。
——高城 誠
思わず、息を吐いた。
「まあ、そうだよな」
昨日の会議の流れなら当然だ。
重点案件レビュー。
要するに、“なぜ売れないのか説明しろ”という場だ。
スマホをポケットに戻し、再び棚に目を向ける。
同じ商品でも、パッケージの言葉が違う。
「高耐久」「長寿命」「安心設計」
どれも間違ってはいない。
だが、それだけでは判断できない。
「結局、使う側の条件だろ……」
また呟く。
誰に聞かせるわけでもない言葉。
誠はこういう時間が好きだった。
誰にも急かされず、自分のペースで考えられる時間。
営業の仕事とは、少しだけズレているのかもしれない。
会社に着くと、すでにフロアは慌ただしかった。
電話の音。
キーボードの音。
誰かの笑い声。
日常。
自分の席に座り、パソコンを立ち上げる。
メールを開くと、昨日の坂口からの返信が来ていた。
『来週、時間いただけますか。社内でも話をまとめておきます』
短いが、前向きな内容だった。
誠は一度読み返し、返信を打つ。
『承知しました。事前に現状の課題を整理いただけると助かります』
送信。
そのまま、少しだけ手が止まる。
——どうすればいいのか。
昨日の問いが、頭の中に残っている。
売らない、は簡単だ。
だが、それだけでは何も解決しない。
「……考えないとな」
独り言のように呟いたとき。
「おはようございます!」
元気な声が横から飛んできた。
佐伯翼だ。
「おはよう」
「今日も早いですね」
「まあな」
誠は苦笑した。
「ホームセンター寄ってきた」
「え、またですか?」
佐伯は少し驚いた顔をする。
「好きなんですね」
「仕事の延長みたいなもんだ」
「でも、それって直接売上に関係ないですよね?」
率直だ。
誠は一瞬考えてから答える。
「関係ないかもしれないな」
「じゃあ、なんでやるんですか?」
その問いに、少しだけ間が空く。
なぜ、か。
「……分からないまま勧めるのが、嫌なんだよ」
佐伯は黙って聞いている。
「例えばさ、この部品一つで、後のトラブルが変わることがある」
「はい」
「でも、それを知らないまま“これで大丈夫です”って言うのは——」
言葉を探す。
「無責任だと思うんだ」
静かな口調だった。
佐伯は少しだけ考えてから言った。
「でも、それって全部知るのは無理じゃないですか?」
「無理だな」
即答だった。
「だから、せめて“分からない”って分かる状態にはしておきたい」
「……分からないって、分かる?」
「知らないことに気づけるかどうか、ってことだ」
佐伯は「なるほど……」と小さく呟いた。
まだ完全には腹落ちしていない顔だ。
それでいい、と誠は思う。
自分も、最初から分かっていたわけじゃない。
午前中は、細かい案件の処理で過ぎていった。
見積書の修正。
電話対応。
社内調整。
どれも慣れた作業だが、気を抜くとすぐに時間が溶ける。
ふと時計を見ると、もう昼だった。
席を立とうとしたとき。
「高城さん」
呼ばれた。
振り向くと、黒田が立っていた。
「午後のレビュー、分かってるな?」
「はい」
「資料、まとめておけ」
それだけ言って、去っていく。
短いが、圧は十分だ。
誠は深く息を吐いた。
昼休み。
社員食堂はそれなりに混んでいる。
トレーを持って席を探していると、田辺が手を振った。
「こっち空いてるぞ」
「ありがとう」
向かいに座る。
「午後、呼ばれてるんだろ?」
「ああ」
「大変だな」
言いながら、カレーを口に運ぶ。
「まあ、ああいうのは“反省してます”って顔しとけばいいんだよ」
軽い。
「で、次はちゃんと取りますって言っとく」
「それで通るか?」
「通る通る。だって上は結果しか見てないからな」
スプーンを置き、少し身を乗り出す。
「ぶっちゃけさ、高城のやってることって、会社的には“損”なんだよ」
ストレートだ。
「顧客のため、は分かる。でも、それで数字落ちたら意味ないだろ?」
誠は黙って聞く。
「綺麗事で飯は食えない」
田辺はそう言って、水を飲んだ。
誠は、少しだけ視線を落とした。
その通りだと思う部分もある。
だが——
「……全部が綺麗事でもないと思うけどな」
小さく返す。
田辺は肩をすくめた。
「まあな。でも、会社はそう見ないってこと」
それも、事実だ。
午後。
会議室のドアの前に立つ。
重点案件レビュー。
中からは、すでに数人の声が聞こえている。
誠は一度、目を閉じた。
逃げたい、と思う気持ちはある。
だが、逃げても何も変わらない。
ドアをノックする。
「失礼します」
中に入ると、黒田と数名の管理職が座っていた。
「座れ」
言われるままに席につく。
「じゃあ、始めようか」
黒田が資料を手に取る。
「まず、この案件だ」
プロジェクターに、坂口の案件が映し出される。
「受注直前で見送り。理由は?」
誠は口を開く。
「導入後の運用コストが想定より高くなる可能性があり——」
「その判断は誰がした?」
「私です」
「根拠は?」
一つひとつ、詰めてくる。
誠は用意していた資料を説明していく。
データ。
試算。
リスク。
論理としては通っている。
だが——
「で?」
黒田が言う。
「それで売上はいくらだ?」
言葉が止まる。
「ゼロ、だな」
淡々と告げられる。
「高城」
黒田は椅子に深く座り直した。
「お前の話は分かる。理屈も通ってる」
一瞬、空気が緩む。
だが次の言葉で、また締まる。
「でもな、それは“売らない理由”だ」
誠は何も言えなかった。
「じゃあ聞くが」
黒田は視線をまっすぐ向ける。
「どうすれば、この案件は成立した?」
——どうすればいいのか。
昨日、坂口に言われた言葉と同じだった。
誠の中で、何かが引っかかる。
これまで考えてこなかった問い。
売るか、売らないか。
その先。
「……それは」
言葉が出ない。
黒田は少しだけ口角を上げた。
「答えられないか」
誰も何も言わない。
誠の手の中で、ペンがわずかに動く。
悔しさとも違う、何か。
分かっている。
ここで必要なのは、“正しい説明”じゃない。
“成立させる答え”だ。
だが、それが見えない。
「……宿題だな」
黒田が言った。
「次までに考えてこい」
静かに、しかし確定的に。
「売らない理由じゃない。“売れる形”を」
その言葉が、深く刺さる。
会議はそこで終わった。
夕方。
デスクに戻っても、手が動かなかった。
「売れる形」
頭の中で、何度も繰り返す。
売るための条件。
成立させる方法。
これまで、自分はそこを考えてこなかった。
売るか、やめるか。
二択だった。
「……違うのか」
小さく呟く。
そのとき、スマホが震えた。
坂口からだ。
『来週の件ですが、具体的にどう進めればいいか、一度ご提案いただけますか』
短いが、重い。
誠は画面を見つめた。
会社からも、顧客からも、同じことを求められている。
——どうすればいいのか。
逃げ場はない。
だが。
「……やるしかないか」
ゆっくりと、息を吐く。
パソコンを開き、新しいファイルを立ち上げる。
タイトル欄に、指が止まる。
少し考えてから、打ち込んだ。
『坂口様案件 再設計案』
売るでもない。
やめるでもない。
その間にある“何か”を、形にするために。
誠は、キーボードに手を置いた。
その一打目が、これまでの営業とは違うことに——
まだ、はっきりとは気づいていなかった。




