第1話 公開処刑
「じゃあ、今月の結果、いこうか」
会議室の空気が、わずかに沈んだ。
営業部の月例会議。いつもの光景だ。
だが、全員が分かっている。
ここから先は「報告」じゃない。
「査定」だ。
プロジェクターに数字が映し出される。
順位、担当、売上、達成率。
上から順に読み上げられていく。
「1位、田辺。達成率128%。まあ、安定してるな」
部長の黒田恒夫は、淡々と言った。
褒めているようで、感情はない。
だが田辺健一は、わずかに背筋を伸ばした。
こういう空気の取り方がうまい。
「2位、……」
順番に名前が呼ばれていく。
誰もが自分の順位を知っているのに、あえて口に出される。
逃げ場はない。
誠は、手元の資料に視線を落としたまま、数字をなぞっていた。
自分の欄は、見なくても分かる。
最下位。
達成率、62%。
「……で、最下位。高城」
来た。
「達成率62%。理由は?」
視線が、一斉に集まる。
誠は顔を上げた。
「案件の見送りが数件ありました」
「見送り?」
黒田の眉がわずかに動く。
「受注直前だった案件もあったよな?」
「はい。ただ——」
「ただ?」
一瞬、言葉が詰まる。
会議室の空気が変わる。
“言い訳するなよ”という無言の圧が、じわりと広がる。
誠は一度、息を吸った。
「顧客側の条件が整っていなかったため、導入後の運用で損失が出る可能性が高いと判断しました」
数秒の沈黙。
そして——
「は?」
黒田の声は、低かった。
「損失?それはお前が決めることか?」
「最終的には顧客判断ですが、情報提供として——」
「高城」
遮られる。
「お前の仕事は何だ?」
「……営業です」
「そうだな。営業だ。コンサルタントじゃない」
クスクスと、どこかで笑いが漏れた。
視線を動かさなくても分かる。
田辺だ。
黒田は続ける。
「顧客が判断する材料を出すのはいい。だが、最終的に決めるのは向こうだ。違うか?」
「……はい」
「じゃあなぜ止めた?」
「止めたわけではありません。ただ——」
「“今回は見送った方がいい”って言ったんだろ?」
図星だった。
誠は、黙った。
「それで、向こうはやめた。そういうことだな?」
「……はい」
黒田は小さく息を吐いた。
「高城。お前な」
声のトーンが、少しだけ変わる。
怒鳴りはしない。
だが、その分、冷たい。
「それで会社はどうやって飯食うんだ?」
誰も笑わない。
今度は、空気が固まる。
「お前の判断が正しいかどうかは知らん。だがな、結果として数字が出ていない。これが全てだ」
正論だった。
反論の余地はない。
誠自身、それは分かっている。
「他にも見送りがあるな。全部同じ理由か?」
「……はい」
「なるほどな」
黒田は資料をめくった。
「つまりお前は、“売らなかった”わけだ」
その言葉が、やけに重く響いた。
売らなかった。
営業として、一番やってはいけないこと。
「いいか、高城」
黒田はゆっくり言った。
「売れない理由はいくらでも作れる。だがな、売る理由を作るのが営業だ」
誰かが小さく頷いた。
誠は何も言えなかった。
頭では分かっている。
分かっているのに——どこかで引っかかる。
あの案件。
導入すれば、確実に運用コストが跳ね上がる。
担当者も、それを薄々分かっていた。
だから誠は言ったのだ。
「今はやめた方がいいです」
その結果が、これだ。
「……以上だな。次いくぞ」
黒田は視線を外した。
終わり。
それだけだった。
会議が終わると、ざわざわと人が動き出す。
「お疲れ」
背後から声がした。
田辺健一だった。
「まあ、ドンマイってやつだな」
軽い調子だが、悪意はない。
ただ、どこか“余裕”がある。
「お前、真面目すぎるんだよ」
「……そうかもな」
「顧客のため、とか考えすぎ。そんなのさ、向こうが決めることだろ?」
正しい。
たぶん、会社的には。
「数字出してるやつが正義なんだよ。シンプルに」
田辺は肩をすくめた。
「まあ、そのうち慣れるって」
それだけ言って、去っていく。
慣れる、か。
誠はその言葉を、心の中で繰り返した。
デスクに戻ると、メールが一通来ていた。
差出人:坂口 良雄
件名:先日はありがとうございました
開く。
『先日は率直なご意見ありがとうございました。正直、あのまま進めていたら後で大変なことになっていたと思います。一度社内で見直しをかけます。また相談させてください。』
誠は、しばらく画面を見つめていた。
——ありがとう、か。
その一言が、やけに引っかかる。
売っていない。
数字も出ていない。
評価は最下位。
それなのに——
「……何やってんだろうな」
小さく呟く。
そのとき。
「高城さん」
振り向くと、新人の佐伯翼が立っていた。
「さっきの会議……あの」
言いにくそうに口を開く。
「売らないって……ありなんですか?」
真っ直ぐな目だった。
誠は、一瞬言葉に詰まる。
ありか、なしか。
そんな単純な話じゃない。
だが——
答えなければいけない気がした。
「……分からない」
正直に言った。
佐伯は少し驚いた顔をする。
「分からない、ですか?」
「ああ。少なくとも、会社的には“なし”だろうな」
苦笑する。
「でもな」
言葉が、自然と続いた。
「売ったあとで困るのが分かってるものを、売るのは——」
そこまで言って、止まる。
自分の中でも、まだ言語化しきれていない。
佐伯は黙って待っている。
誠は、ゆっくりと言った。
「……仕事なのかどうか、分からなくなるんだよ」
静かな言葉だった。
佐伯は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
その日の夜。
帰宅すると、リビングの明かりがついていた。
「おかえり」
妻の由紀が顔を出す。
「遅かったね」
「会議が長引いてな」
上着を脱ぎながら答える。
テーブルには、夕食が並んでいた。
少し冷めている。
「先に食べてていいって言ったのに」
「まあね」
由紀は笑ったが、どこか疲れている。
食事をしながら、他愛ない会話が続く。
学校の話。
ニュースの話。
そして——
「ねえ」
由紀が、箸を置いた。
「今月、大丈夫?」
来た。
「ボーナス査定、そろそろでしょ?」
誠は一瞬、言葉に詰まる。
「……まあ、なんとか」
曖昧に答える。
由紀はそれ以上は聞かなかった。
だが、その沈黙が重い。
食後、ソファに座っていると、娘の陽菜がやってきた。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「ちょっといい?」
珍しい。
スマホをいじりながら話しかけてくることはあっても、こうして正面に座るのは。
「どうした」
「学校でさ、進路の話あって」
「ああ」
「働くってさ、どういう感じ?」
唐突だった。
「どういうって……」
言葉を探す。
「まあ、簡単じゃないな」
「ふーん」
陽菜は少し考えてから、言った。
「お父さんの仕事ってさ」
嫌な予感がした。
「人の役に立ってるの?」
一瞬、時間が止まった気がした。
答えが、出ない。
出てこない。
頭の中に浮かぶのは、今日の会議室。
最下位。
売らなかった案件。
黒田の言葉。
——それで会社はどうやって飯食うんだ?
そして、メールの一文。
——ありがとうございました。
どっちが正しい?
どっちが、仕事だ?
「……どうだろうな」
気づけば、そう答えていた。
陽菜は少し首をかしげた。
「そっか」
それだけ言って、立ち上がる。
「ありがと」
部屋に戻っていった。
誠はソファに沈み込んだ。
天井を見上げる。
分からない。
何が正しいのか。
何が間違っているのか。
ただ一つ、確かなのは——
このままでは、いけないということだけだった。
翌朝。
会社に向かう途中、スマホが震えた。
坂口からだった。
「もしもし」
『あ、高城さん。おはようございます』
「おはようございます」
『昨日の件なんですが』
少し間があって、坂口は言った。
『やっぱり、一度ちゃんと相談させてもらえませんか』
誠は足を止めた。
『他の会社にも話はしてるんですが……正直、どこも“売る前提”で話してくるんですよ』
苦笑が混じる。
『高城さんだけなんです。“やめた方がいい”って言ったの』
胸の奥が、わずかにざわつく。
『だから、逆に聞きたいんです』
坂口は、はっきりと言った。
『じゃあ、どうすればいいのか』
通話の向こうで、風の音がした。
誠はしばらく黙っていた。
その問いは——
これまでの営業人生で、一度も真正面から考えたことがなかった。
売るか、売らないか。
それだけだった。
だが今、問われているのは違う。
「どうすればいいのか」
答えなければいけない。
逃げられない。
誠は、ゆっくりと口を開いた。
「……分かりました」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「一度、整理してみます」
電話を切る。
通勤ラッシュの中、人が流れていく。
誠だけが、その場に立ち止まっていた。
売らない。
それは簡単だ。
だが——
その先は?
「……どうすればいい?」
誰にともなく、呟く。
答えは、まだない。
だが——
探すしかない。
売らない、その先を。
誠は、再び歩き出した。
その一歩が、これまでと少しだけ違うことに、まだ気づいていなかった。




