第15話 最初の数字
朝。
空気は、いつもと変わらない。
電話の音。
キーボードの打鍵音。
誰かの短い報告。
営業フロアは、いつも通り動いている。
だが——
誠の中には、妙な静けさがあった。
嵐の前、というよりは。
「……整った、か」
小さく呟く。
坂口の案件。
紹介先のヒアリング。
どちらも、最後の一手を待っている。
やることは、もう多くない。
詰めるだけだ。
午前10時。
電話が鳴る。
ディスプレイに表示された名前を見て、誠は一瞬だけ息を止めた。
坂口。
すぐに受話器を取る。
「お世話になっております」
『高城さん』
声は、いつもより短い。
余計な前置きがない。
「はい」
『結論から言う』
一拍。
その間が、長く感じる。
『やる』
誠の思考が、一瞬止まった。
「……全面導入、でしょうか」
『ああ』
短い肯定。
だが、それだけで十分だった。
胸の奥が、一気に熱くなる。
だが、誠は声を崩さなかった。
「ありがとうございます」
『まだ条件は詰めるぞ』
「はい」
『あと、現場から一つだけ要望がある』
「なんでしょう」
『もう少し、あの“前準備”の精度を上げたい』
誠はすぐに頷いた。
「対応します」
『頼む』
通話が切れる。
誠は、受話器を置いたまま動かなかった。
音が戻ってくる。
フロアのざわめき。
誰かの笑い声。
すべてが、少し遠く感じる。
「……取れた」
小さく呟く。
最初の数字。
ゼロだった場所に、初めて線が引かれる。
だが——
誠はすぐに画面を開いた。
契約条件の確認。
金額。
納期。
範囲。
「……ここからだな」
数字は“決まった”だけでは意味がない。
“成立させる”までが仕事だ。
細部を詰める。
リスクを潰す。
現場との齟齬をなくす。
「ここでミスったら、全部崩れる」
誠の指が、速く動く。
昼前。
黒田の席に向かう。
「失礼します」
「何だ」
誠は資料を差し出した。
「坂口様案件、全面導入で合意いただきました」
一瞬。
黒田の動きが止まる。
「……本当か」
「はい」
黒田は資料を受け取る。
目を通す。
数秒。
沈黙。
やがて、口を開く。
「金額は?」
誠が答える。
黒田の眉が、わずかに動く。
「……悪くないな」
短い評価。
だが、それは十分だった。
「ただし」
黒田は顔を上げる。
「まだ“確定”じゃない」
「はい」
「契約まで落とし込め」
「はい」
黒田は資料を机に置いた。
そして、ほんのわずかだけ言った。
「……よくやった」
その一言は、小さかった。
だが、はっきりと聞こえた。
誠は一瞬だけ驚いた。
そして、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
席に戻る。
田辺がすぐに気づいた。
「顔で分かるな」
誠は少し笑った。
「分かるか」
「分かるよ」
田辺は身を乗り出す。
「で?」
「坂口、決まった」
一瞬の沈黙。
次の瞬間——
「マジかよ!」
声が少し大きくなる。
周囲の視線が集まる。
「やったな!」
田辺は素直に笑った。
「……やっと一本か」
「一本だな」
誠も笑った。
たった一本。
だが——
ゼロとは、全く違う。
午後。
紹介先からメールが届く。
件名:先日の件について
開く。
内容を読む。
「……なるほどな」
小さく呟く。
結論は——
「一部導入で検討したい」
即決ではない。
だが、確実に前に進んでいる。
坂口の事例が、効いている。
「……繋がったな」
誠は椅子にもたれた。
信頼が、次に波及している。
それが、はっきりと見えた。
夕方。
契約書の最終確認。
細部を詰める。
数字を合わせる。
誤差を潰す。
集中していると、時間の感覚が消える。
「……よし」
一通り、整った。
あとは——
相手の最終承認。
夜。
帰宅。
ドアを開ける。
「ただいま」
少しだけ、声が軽い。
「おかえり」
由紀が振り向く。
「……何かあった?」
すぐに気づく。
誠は少しだけ笑った。
「一本、取れた」
由紀の目が少し開く。
「ほんと?」
「ああ」
靴を脱ぎながら言う。
「やっとな」
由紀は小さく息を吐いた。
「よかったね」
その一言に、いろんな感情が混じっている。
安堵。
喜び。
少しの緊張の解放。
誠はゆっくりと頷いた。
リビング。
陽菜が顔を上げる。
「どうだった?」
誠は少しだけ間を置いた。
そして言った。
「……数字になった」
陽菜は一瞬、意味を考える。
「え、それって」
「成功?」
誠は少し笑った。
「まあ、第一歩だな」
陽菜は笑った。
「やったじゃん」
その軽い言葉が、妙に嬉しい。
「……ああ」
誠はソファに座った。
体の力が、少し抜ける。
夜。
机に向かう。
画面を開く。
売上欄。
そこに、初めて数字が入っている。
「……ここからか」
小さく呟く。
一つ、形になった。
だが、これで終わりではない。
むしろ——
ここからが本番だ。
再現できるのか。
積み上げられるのか。
「……やってみるか」
誠はキーボードに手を置いた。
ゼロから一へ。
その一歩は、小さい。
だが——
確実に、世界を変える一歩だった。




