第14話 兆しの重さ
朝の空気が、少しだけ軽かった。
理由は分からない。
数字が上がったわけでもない。
だが——
誠はデスクに座った瞬間、違和感を覚えた。
「……静かだな」
フロアのざわめきはいつも通り。
電話の音も、キーボードの音も変わらない。
それなのに——
自分の中だけが、妙に落ち着いている。
焦りが、薄い。
「慣れただけか」
小さく笑う。
“ゼロ”という状態に。
それは、決して良いことではない。
だが同時に——
無駄な動揺が消えたのも事実だった。
メールを開く。
坂口からの連絡。
件名:試験導入2回目の結果
誠はすぐに開いた。
内容を読む。
・作業時間:前回比 −28分
・トラブル発生件数:減少
・現場評価:概ね良好
誠は、画面を見つめたまま動かなかった。
「……来てるな」
小さく呟く。
分岐点。
あのラインに、確実に乗っている。
だが——
「まだ“決定”じゃない」
自分に言い聞かせる。
ここで浮かれると、足元をすくわれる。
現場は、正直だ。
一度うまくいっても、次で崩れることもある。
「もう一段、詰める」
誠は返信を書き始めた。
昼前。
電話が鳴る。
ディスプレイを見る。
坂口。
誠はすぐに取った。
「お世話になっております」
『高城さん、今いいか』
声のトーンが、少し違う。
軽い。
「はい」
『昨日の結果、見たよな』
「はい」
『でな』
少し間がある。
『現場から、“これなら回せる”って声が出てる』
誠の指が、わずかに止まる。
「……そうですか」
声を落ち着かせる。
『ただしな』
坂口は続ける。
『全面導入はまだ慎重だ』
「はい」
『もう一回だけ、条件変えて試す』
誠は頷く。
「承知しました」
『そこがクリアできたら——』
言葉が途切れる。
だが、意味は十分だった。
「……ありがとうございます」
『まだ決まってないぞ』
坂口は笑う。
「はい」
誠も笑った。
通話を終える。
ゆっくりと受話器を置く。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
だが——
「まだだ」
小さく呟く。
まだ“数字”ではない。
この会社で評価されるのは、そこだけだ。
午後。
紹介先との打ち合わせ。
会議室。
向かいに座る担当者は、落ち着いた表情をしている。
「坂口から聞いています」
「ありがとうございます」
軽い挨拶のあと、誠は資料を開いた。
だが——
すぐには話さない。
相手の様子を見る。
視線の動き。
資料への反応。
小さな表情の変化。
「まず、現状を教えていただけますか」
誠は言った。
担当者は少しだけ驚いた顔をする。
「売り込みじゃないんですか?」
誠は少し笑った。
「その前に、判断材料を揃えたいので」
その言葉に、相手の表情がわずかに変わる。
警戒が、少しだけ解ける。
「……そうですね」
話が始まる。
現場の状況。
課題。
過去の失敗。
誠は、ひたすら聞く。
メモを取りながら。
途中で口を挟まない。
“売るため”ではなく、“理解するため”に。
時間が過ぎる。
一時間。
気づけば、ほとんど相手が話していた。
「……なるほど」
誠は最後に言った。
「整理すると、今の問題は三つですね」
指を折る。
「時間のロス、判断の遅れ、そして再作業」
相手はゆっくりと頷く。
「……そうですね」
「この三つに対して、分岐点を引きます」
誠は資料をめくる。
損益分岐。
その考え方を、当てはめる。
「ここを超えれば、導入の意味がある」
「超えなければ、やらない方がいい」
相手は黙って聞いている。
やがて、ぽつりと言う。
「分かりやすいですね」
誠は小さく頷いた。
「判断しやすくするのが仕事なので」
その言葉に、相手は少しだけ笑った。
「変わった営業ですね」
「よく言われます」
二人は、少しだけ笑った。
打ち合わせが終わる。
結果は——
「検討します」
それだけ。
決まらない。
すぐには動かない。
いつも通りだ。
だが——
誠は席を立ちながら思った。
「……悪くない」
手応えはある。
確実に。
夕方。
デスクに戻る。
画面を開く。
数字は、相変わらずゼロ。
だが、その横に——
案件の進捗が並ぶ。
坂口:試験導入最終段階
紹介先:ヒアリング完了
「……積み上がってはいる」
小さく呟く。
だが、それは会社には見えない。
評価されない。
「見えないものを、どこまで信じるかだな」
誠は椅子にもたれた。
夜。
帰宅。
ドアを開けると、由紀が振り向く。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は?」
誠は少し考える。
そして、言った。
「……進んだ」
由紀は少しだけ笑う。
「その言い方、増えたね」
「そうか?」
「うん」
テーブルに座る。
「前は“ダメだった”ばっかりだった」
誠は苦笑する。
「まあ、今もダメなんだけどな」
「でも進んでるんでしょ?」
由紀の言葉は、静かだった。
「……ああ」
誠は頷く。
「少しずつだけどな」
由紀はそれ以上聞かない。
ただ、食事を出す。
その距離が、心地いい。
食後。
リビング。
陽菜がスマホを見ながら言う。
「ねえ」
「ん?」
「あとどれくらいで“成功”なの?」
誠は少し考えた。
「……分からないな」
正直に言う。
「じゃあさ」
陽菜は顔を上げる。
「成功って分かるの?」
その問いに、誠は一瞬言葉を失った。
「……分かると思う」
「なんで?」
誠は少しだけ笑った。
「数字が出るから」
陽菜は頷く。
「そっか」
そして、ぽつりと言う。
「じゃあ、今はまだ途中だね」
誠はその言葉を、静かに受け止めた。
その夜。
机に向かう。
画面を見つめる。
数字はゼロ。
だが——
確実に、何かが動いている。
見えない部分で。
静かに。
「……そろそろ来るな」
小さく呟く。
根拠はない。
だが、積み上がりの感覚がある。
あと一歩。
何かが噛み合えば——
流れは変わる。
誠はキーボードに手を置いた。
この“兆し”を、確実に形にする。
そのために、やることは一つだけだ。
積み上げる。
見えなくても。
評価されなくても。
その先にある“数字”を信じて。
静かな覚悟が、胸の奥で固まっていた。




