第12話 数字という現実
月曜日の朝。
営業フロアは、いつもより少しだけ静かだった。
週明け特有の重さ。
まだエンジンがかかりきっていない空気。
だが——
その静けさは、すぐに壊れた。
「じゃあ、始めるぞ」
黒田の声。
週次の営業会議。
全員が席に着き、資料を開く。
誠もその一人として座っていた。
だが、視線の温度は明らかに違う。
誰も露骨には見ない。
だが、どこか距離がある。
「まずは全体の数字からだ」
黒田がスクリーンを指す。
売上。
達成率。
進捗。
淡々と数字が並ぶ。
そして——
「未達が三名」
一瞬、空気が締まる。
黒田は名前を読み上げた。
「田辺」
「……はい」
「佐伯」
「はい」
そして——
「高城」
誠は顔を上げた。
「はい」
黒田は資料をめくる。
「高城、現時点での実績」
一拍置く。
「ゼロだな」
その一言が、会議室に落ちる。
誰も何も言わない。
だが、空気が変わる。
「進捗は?」
「坂口様案件が、試験導入段階です」
「売上は?」
「まだ立っていません」
即答だった。
言い訳はしない。
だが——
「つまり、ゼロだ」
黒田は繰り返した。
その言葉に、逃げ場はない。
「はい」
誠は頷いた。
黒田は腕を組む。
「で、その試験導入とやらで、いつ数字になる?」
誠は一瞬だけ間を置いた。
「現時点では、確約はありません」
「だろうな」
黒田は即答する。
「不確定要素に時間を使ってるわけだ」
その言葉は正しい。
正しすぎて、反論の余地がない。
「他の案件は?」
「……動いていません」
「なぜだ」
「リソースを集中しているためです」
黒田は少しだけ笑った。
「一点集中か」
その言い方には、明確な皮肉が含まれている。
「で、その一点が外れたら?」
沈黙。
誰も口を開かない。
誠は、静かに答えた。
「ゼロです」
黒田は頷いた。
「そうだな」
一歩、踏み込む。
「つまりお前は、“当たるかどうか分からない一発”に全てを賭けている」
誠は何も言わなかった。
否定はできない。
だが、それがすべてでもない。
「営業はな」
黒田はゆっくりと言う。
「確率を積み上げる仕事だ」
会議室の空気が、さらに引き締まる。
「一発当てる仕事じゃない」
その言葉は、経験に裏打ちされたものだ。
重い。
そして——
正しい。
誠の胸の奥に、わずかな揺れが生まれる。
「高城」
黒田が名前を呼ぶ。
「お前のやってることは、営業じゃない」
はっきりと言った。
その一言が、深く刺さる。
誠は、ゆっくりと息を吸った。
そして——
「……かもしれません」
そう答えた。
会議室の空気が、わずかに揺れる。
「ただ」
誠は続ける。
「この形でしか取れない案件もあります」
黒田は何も言わない。
「確率は低いかもしれません」
「でも、成立すれば大きい」
黒田は少しだけ目を細めた。
「“成立すれば”な」
「はい」
誠は頷く。
そのやり取りは、そこで終わった。
会議が終わる。
席に戻る途中、田辺が小さく言った。
「きついな」
誠は苦笑する。
「まあな」
「正論しか言われてないのが、余計きつい」
「そうだな」
二人は少しだけ笑った。
だが、その笑いは軽くない。
現実は、そこにある。
デスクに戻る。
パソコンを開く。
数字の一覧。
未達の赤い表示。
それが、妙に目に刺さる。
「……ゼロか」
小さく呟く。
分かっていたことだ。
だが、改めて突きつけられると重い。
「積み上げる仕事、か」
黒田の言葉が頭に残る。
正しい。
営業は本来、そういう仕事だ。
小さな案件を積み重ねる。
確率を上げる。
安定した数字を作る。
それに対して、自分は——
「一点張りだな」
苦笑する。
リスクが高い。
外せば終わり。
合理的ではない。
「……それでも」
誠は画面から目を離した。
現場の光景が浮かぶ。
止まる作業。
迷う人。
変わった瞬間。
「意味はある」
小さく呟く。
午後。
メールが一通届く。
件名:紹介先の件
坂口からだった。
内容を開く。
紹介先の会社名と、担当者の連絡先。
「……来たか」
誠の心拍が少しだけ上がる。
だが同時に、別の感情も湧く。
「……これも、まだゼロだ」
紹介はチャンスだ。
だが、売上ではない。
数字にはならない。
「結局、積み上がってないな」
現実は変わらない。
夕方。
電話をかける。
紹介先の担当者。
数回のコールの後、繋がる。
『はい』
落ち着いた声。
誠は名乗る。
簡単に経緯を説明する。
『ああ、坂口から聞いてます』
反応は悪くない。
だが——
『一度話は聞きますが、すぐに導入は難しいですね』
その一言で、温度が分かる。
興味はある。
だが、急ぎではない。
つまり——
すぐには数字にならない。
「承知しました」
誠は淡々と答える。
「まずは状況を伺えれば」
通話を終える。
深く息を吐く。
「……また長いな」
夜。
帰宅すると、由紀がテレビを見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
少し間を置いて、由紀が聞く。
「どうだった?」
誠は靴を脱ぎながら答える。
「相変わらずだな」
「厳しい?」
「ああ」
短い言葉。
だが、十分に伝わる。
由紀は少しだけ頷く。
「そっか」
それ以上は聞かない。
その距離感が、ありがたかった。
リビング。
陽菜がスマホを見ながら言う。
「ねえ」
「ん?」
「すぐ結果出ないとダメなの?」
誠は少し考える。
「会社としては、な」
「ふーん」
陽菜は視線を上げる。
「でもさ」
少し間を置いて言う。
「時間かけないとできないこともあるよね」
その一言に、誠は少しだけ目を細めた。
「……あるな」
「じゃあ、それやってるんでしょ?」
誠は答えなかった。
ただ、小さく笑った。
その夜。
机に向かう。
数字は、変わっていない。
ゼロのまま。
だが——
動きはある。
現場。
試験導入。
紹介。
すべて、途中だ。
「……営業って、難しいな」
ぽつりと呟く。
正しさだけでは足りない。
結果だけでも足りない。
その間で、揺れ続ける。
それが現実だ。
誠はゆっくりと画面を見つめる。
このまま進むのか。
戻るのか。
答えは、まだ出ていない。
だが——
一つだけ確かなことがある。
このままでは、終われない。
数字という現実を背負いながら。
それでも、前に進むしかない。
その覚悟だけが、静かに残っていた。




