信じる気持ち
風邪で寝込む澪を心配し、ひなたは思い切って澪の家を訪ねる。
澪の母に迎えられ、初めて入った部屋で穏やかな寝顔に胸をなで下ろす。
しかし、本棚にあった家族写真には、澪から聞いたことのない「一人の男の子」が写っていた。
動揺を隠す間もなく澪が目を覚まし、二人はいつも通りの穏やかな会話を交わす。
澪は「風邪はひなたのせいじゃない」と優しく励ますが、ひなたの胸のざわめきは消えない。
あの家族写真の少年は誰なのか――その疑問だけが、ひなたの心に深く残っていた。
風邪で休んでから二日ぶりの登校。
朝の空気はまだ少しひんやりとしていて、制服の袖を通すと自然と背筋が伸びた。
「……よし」
熱も下がった。咳もほとんど出ない。
まだ少し体は重いけれど、もう学校へ行けるくらいには回復している。
駅へ向かい、電車に乗り込むと、そこには見慣れた二人の姿が目に入った。
「おはよー、澪ちゃん!」
大きく手を振るひなたに、澪も笑顔で手を振り返す。
「おはよう。二人とも」
「おはよう。体調はもう大丈夫?」
詩乃が心配そうに尋ねる。
「うん。もう熱も下がったし、もう大丈夫」
「よかったぁ……。急に休んだから心配したんだからね?」
ひなたは少しだけ頬を膨らませる。
「ごめんごめん。まさかあんなに熱が上がるとは思わなくて」
「無理しちゃだめだよ? また倒れたら大変なんだから」
「ありがとう」
車内では授業の話や昨日のテレビ番組、もうすぐ始まる小テストの話で盛り上がる。
そんな何気ないやり取りをしながら、三人で笑い合いながら学校に向かういつも通りの朝だった。
教室へ入ると、クラスメイトたちが一斉に澪へ視線を向けた。
「あ、黒瀬さん!もう大丈夫?」
「風邪だったんでしょ?」
「結構熱あったって聞いたけど」
次々と声をかけられ、澪は少し照れくさそうに笑う。
「うん。もう平気だよ」
心配してくれる言葉に胸が少し温かくなる。
そんな中、勢いよく駆け寄ってきたのはみさきだった。
「澪ちゃーん!」
勢いそのままに澪の両肩を掴む。
「ほんっと心配したんだから!」
「ご、ごめん」
「ひなたなんて毎日『大丈夫かなぁ』って言ってたんだからね?」
「み、みさき!」
ひなたが慌てて止めようとすると、みさきは楽しそうに笑う。
「だって本当じゃん!」
「もう……」
照れたように目を逸らすひなた。
その様子に教室のあちこちから笑い声が漏れる。
澪も思わず笑みを浮かべた。
(……よかった。)
風邪も治って、またいつもの毎日が始まる。
澪はそんなふうに、疑いもなく思っていた。
昼休みも、授業も、いつもと変わらず過ぎていった。
風邪で休んだ分のノートを詩乃に見せてもらい、みさきに「ちゃんと写しなよ?」とからかわれ、ひなたとも何度か目が合って笑い合う。
何も変わっていない。いつも通りの日々が再び幕を開けた。
昼休み。
「澪ちゃん、お弁当食べよー!」
みさきの声に続いて、四人で机を寄せる。
いつも通りの昼休み。
ひなたも笑っている。
風邪で休んだ分のノートを見せてもらいながら、他愛もない話で盛り上がる。
(今日は、聞けなかった。)
帰り道。
「じゃあ、帰ろっか!」
駅まで三人で歩く。
他愛もない話をして、笑って。
ひなたとも目が合えば、いつものように笑い返してくれる。
(……今日こそ、話してくれると思った。)
体育の授業。
ペアになって準備運動をする。
「はい」
ひなたが自然に手を差し出す。
いつもと変わらない。
(どうして、何も言わないの。)
掃除当番。
偶然、掃除場所で二人になる。
「ねぇひなた、昨日のドラマ見た?」
「恋愛教室のこと?」
「それそれ」
(今なら話せたのに。)
放課後。
心の中にしまった写真を、何度も思い出す。
聞かなきゃ。
でも、聞いたら。
きっと、今までみたいには笑えなくなる。
好きで居られなくなる。
それでも。
もう、限界だった。
「……澪ちゃん」
不意に名前を呼ばれた。振り向くと、そこにはひなたが立っていた。
その表情は、朝に見せていた柔らかな笑顔とはどこか違っていた。
「少しだけ、いいかな」
誰もいない空き教室。
窓から差し込む夕日が、教室をオレンジ色に染めていた。
ドアが閉まる音だけが、静かに響く。
「……急に呼び出してごめんね、澪ちゃん。」
ひなたはそう言って、小さく笑った。
いつもの笑顔。
そう見えた。
「ううん。どうしたの?」
「ちょっと、聞きたいことがあって。」
「聞きたいこと?」
ひなたはすぐには答えなかった。
視線を机へ落とし、小さく息を吸う。
「……この前、お見舞いに行った時のことなんだけど。」
「澪ちゃんの部屋で……写真、見ちゃったの。」
一瞬、息を呑む。
(写真……?)
どの写真だ。
旅行の写真か。
学校の写真か。
それとも――。
「家族写真みたいな写真で。」
心臓が大きく脈打つ。
(まさか。)
「あの……男の子が写ってた。」
全身から血の気が引いていく。
「澪ちゃん、弟っていたっけ?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
喉がひりつく。
何か言わなきゃ。
違う、ごまかせ、と。
でも。
言葉が出ない。
沈黙だけが、教室に流れる。
ひなたは、そんな澪をじっと見つめていた。
「……やっぱり」
小さく漏れたその声で。
澪は悟る。
(もう、逃げられない。もう、隠せない。)
「全部話す」
震える声でそう言った。
「だから――」
「澪ちゃん」
「……本当なの?」
澪は唇を噛む。
全部、過去を話さなければ。
でも。
その言葉が、どうしても喉を通らない。
「……うん」
ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなかった。
「昔は……男だった」
静寂が流れる。
ひなたは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……そっか」
たったそれだけの言葉なのに。
首が締めつけられる。
「ごめん」
「黙ってるつもりじゃなかった」
「何度も話そうと思った」
「でも……怖かった」
嫌われるのが。
失うのが。
何より、今の自分を否定されるのが怖かった。
「どうして、何も言ってくれなかったの」
ひなたの声は震えていた。
「わたし……あの日から、ずっと待ってた」
「もしかしたら、話してくれるかもしれないって」
「でも、いくら待っても……何も言ってくれなかった」
その言葉が、胸に突き刺さる。
何も言えなかった。
言わなかったのではない。
言えなかった。
だけど。
ひなたには、その違いなんて分からない。
「……ごめん」
もうそれしか言えない。
「ごめんじゃ……分からないよ」
ひなたは苦しそうに目を伏せた。
「私、今までのこと、何が本当だったのか分からなくなっちゃった」
「一緒に笑ったことも、一緒に帰ったことも」
「全部……。」
震える声が、そこで止まる。
澪は拳を強く握り締めた。
全部話そう。
今までのことも。
過去も。
全部。
「私、本当は――」
「もういい。」
その一言で。
喉まで出かかった言葉は、静かに飲み込まれた。
「今は……聞けない。」
ひなたは一歩、後ろへ下がる。
たった一歩。
それだけなのに、二人の距離は、もう届かないほど遠く感じた。
「少し、一人にさせて」
そう言い残し、ひなたは教室を出ていく。
ドアが強く閉まる音だけが、静かな教室に響いた。
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