僕が残していった物
放課後、ひなたは澪に会いたい一心で、一人電車に乗って澪の最寄り駅へ向かう。
家を知らないことに気づきながらも、公園の記憶を頼りに住宅街を歩き続ける。
やがて「黒瀬」の表札を見つけるが、訪ねるべきか迷い、インターホンの前で立ち尽くす。
引き返そうとしたその時、買い物帰りの女性に声をかけられ、思わず「澪の友達です」と名乗る。
女性は澪の母親で、澪が熱を出して寝込んでいることを優しく教えてくれた。
そしてひなたは、もう迷うことなく澪の家へ足を踏み入れるのだった。
玄関で靴を脱いだ瞬間、ふわりと柔らかい匂いがした。
どこか落ち着くような、生活の匂い。
「どうぞ、上がって」
ひなたは促されるままに、一歩中へ入る。
廊下はすっきりと整っていて、余計なものがほとんどない。
壁も床もきれいで、歩くたびに自分の足音だけが小さく響いた。
――なんか、澪ちゃんっぽい。
理由は分からないけど、そう思った。
静かで、整っていて、どこかきちんとしている感じが。
「ごめんね、わざわざ来てもらって」
前を歩くお母さんが、振り返って少し笑う。
「あの子、今朝から熱がでちゃって」
「い、いえ……」
慌てて首を振る。
来たのは自分の勝手で、迷惑をかけているのはこっちの方なのに。
それでも、お母さんは気にした様子もなく続ける。
「でも、来てくれて嬉しいと思うよ。澪」
その言葉に、胸が少しだけ締め付けられる。
「……あの、いつも仲良くしてくれてありがとうね」
不意にそう言われて、思わず足が止まりそうになる。
「え、あ……」
何か返そうとして、うまく言葉が出てこない。
「こちらこそ……」
なんとか、それだけ絞り出す。
お母さんはやわらかく頷いて、また前を向いた。
ひなたはその背中を追いかけ、階段を上がり廊下を少し進んで。
「ここ」
立ち止まった先。
目の前には一つのドア。
そのドアには、小さなプレートがかかっていた。
『みお』
手書きの、少し丸い文字。
それを見た瞬間、急に現実味が増した気がした。
ここが、ここから先が、澪の部屋。
「……」
その前に、自分は立っていると考えると、喉が乾く。
ここまで来たのに、足が動かない。
会って、どうするのか。
何を言うのか。
まだ、ちゃんと決められていないままなのに。
「大丈夫?」
お母さんが軽く振り返る。
「あ、はい……」
慌てて頷く。
逃げるわけにはいかない。
ここまで来たんだから。
お母さんが、ドアの前で軽くノックする。
コンコン、と控えめな音。
「澪ー?」
少しだけ間を置いてから、続ける。
「お友達、来てくれたよ」
部屋の中からの返事は、ない。
お母さんは苦笑して、ゆっくりとドアを開けた。
「まだ寝てるかも」
そう言いながら、少しだけ扉を広く開ける。
「どうぞ」
促されて、恐る恐る中へ入る。
部屋の中に入ると、空気が少しだけひんやりしていた。
カーテンは完全に閉められておらず、カーテンの隙間から光がやわらかく差し込んでいる。
ベッドの上で澪は、静かに横になっていた。
おでこに冷えピタを貼り、規則正しい寝息で眠っている。
「…よかった」
その姿を見た瞬間。
胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけほどけた気がした。
澪の顔を覗き込むように、そっと近づく。
無防備な寝顔。
長いまつ毛。
少し赤い頬。
軽く開いた唇。
ひなたはそのまま、しばらく見惚れてしまった。
「……かわいい」
このままキスをしてしまいたい。そう思ってしまってから、はっとする。
慌てて視線を逸らした。
(何考えてるんだろ)
頭を振って、気持ちを落ち着かせる。このままだと、変なことばっかり考えてしまいそうで。
視線を、部屋の中へと逃がす。
整えられた机。
無駄のない棚。
無防備な寝顔。
どこか、澪らしい静けさがある。
――その中で。
ほんの少しだけ、違和感があった。
棚の端。
本の隙間から、何かが少しだけはみ出ている。
「?」
ひなたは無意識に、手を伸ばした。
指先で引き出すとそれは、一枚の写真だった。
「……」
それは、一枚の家族写真だった。
少し色褪せた写真の中で、四人が穏やかに笑っている。
「……」
最初に目に入ったのは、さっき玄関で迎えてくれたお母さん。
その隣に立つ背の高い男性、おそらくお父さん。
その横には、体育祭の日に会った澪のお姉さんが、いつも通り優しく微笑んでいた。
そこまでは分かる。
でも。
「……ん?」
写真の端に立つ、一人の男の子。
中学生くらいだろうか。
家族に囲まれて、少し照れくさそうに笑っている。
「……誰?」
思わず、小さく呟く。
でも、澪に兄弟がいるなんて聞いたことはない。
「……弟?」
いや、違うと思う。
もし弟なら、どうして一度も話に出なかったんだろう。
写真を持つ手に、自然と力が入る。
改めて、その男の子の顔を見る。どこかで見たことがあるような。
そんな気がするのに、思い出せない。
いろんな憶測をしていくうちに胸の奥が、嫌にざわついていく。
「……違うよね……」
声が、かすれる。
ひなたは見なかった事にしようと、そっと元の場所に戻そうとした。
そのとき。
「……ん……」
ベッドの方から、小さな声がした。
びくっと肩が跳ねた。
声の方へと振り向くと澪が、ゆっくりと目を開けていた。
「……ひな、た……?」
ぼんやりとした視線が、こちらを捉える。
「え、なんで……」
驚いたように、少しだけ体を起こす。
「……あ、その……」
慌てて、写真を棚に押し隠す。
何も見ていないふりをするみたいに。
「お見舞い、来たくて……」
それだけ、なんとか言葉にする。
澪は一瞬、きょとんとして。
それから、少しだけ表情を緩めた。
「……そっか」
ほっとしたような、柔らかい声。
「ありがと……」
その言葉に、胸がちくりと痛む。
さっきまでの不安と、目の前の安心が、うまく混ざらない。
「もしかして寝顔、見た……?」
少しだけ恥ずかしそうに、視線を逸らす澪。
そのいつも通りの仕草。
だからこそ、余計に。
さっき見たものが、頭から離れそうにない。
「それより……熱、大丈夫?」
「うん。朝よりはちょっと楽になったかな」
「何度くらいあったの?」
「朝測ったときは、三十九度くらいだったかな」
「そんなにあったの?」
思わず声が大きくなる。
澪は困ったように笑って、肩をすくめた。
「薬飲んで寝てれば治るよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
少しだけ呆れたように言うと、澪は「ごめん」と苦笑する。
「ちゃんと水分は取ってる?」
「うん、お母さんがいろいろ持ってきてくれたから」
「ご飯は?」
「おかゆ食べた」
「薬は?」
「飲んだよ」
「……そっか」
「……ごめんね」
ぽつりと、ひなたが呟いた。
「え?」
澪が不思議そうに首を傾げる。
「昨日、一緒に帰ったでしょ」
視線を落としたまま、言葉を続ける。
「私が相合傘しよとかちゃったから……。雨に濡れたせいで、風邪ひいちゃったのかなって」
澪は一瞬目を丸くすると、小さく笑った。
「違うよ」
熱で少しかすれた声なのに、その笑い方はいつも通りだった。
「ひなたのせいじゃない。風邪なんて誰でもひくし、今日起きるまでは元気だったんだから」
「でも……」
「だから、気にしなくていいよ」
優しく手を握られ、言い切られてしまう。
「……ありがと」
小さく返事をする。
いつもと変わらない会話だった。
それなのに、どこか上の空な自分がいる。
「…ねえ、ひなた」
あの家族写真。
知らない男の子。
あの人は、誰なんだろう。
「……ひなた?」
頭の中では、さっき見た写真の色んな憶測が頭の中を飛び交っている。
「ねぇひなた」
肩をゆさられ、名前を呼ばれ、その声でようやくはっとして顔を上げた。
「な、何?」
澪が少しだけ困ったように笑っている。
「大丈夫?」
心配そうな瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。
「あ、ご、ごめん」
慌てて笑顔を作る。
「ぼーっとしちゃってた」
「ひなた、なんか今日、元気ない?」
「そんなことないよ」
すぐに首を横へ振る。
「ちょっと心配だっただけ」
「そっか」
「ひなた、今日来てくれてありがとう」
澪は安心したように微笑んだ。
その優しい笑顔を見て。
胸の奥が、また少しだけ痛んだ。
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