雨粒の所為にしたくなくて
翌朝、澪がいつもの電車に現れず、ひなたは小さな違和感を覚えながら学校へ向かう。
ホームルームで澪の欠席理由が「体調不良」だと知らされ、胸のざわめきは確かな不安へと変わる。
澪から届いた「熱が出たけど大丈夫」という短いメッセージを見ても、ひなたの心は晴れなかった。
昨日の雨の中、一本の傘で寄り添って帰った時間を思い出し、自分のせいで風邪をひかせたのではと責め始める。
「無理しないでね」と返信するものの、授業中も澪のことばかり考えてしまう。
放課後、直接澪の様子を見に行こう――そう決意したひなたの胸には、不安だけが残り続けていた。
気づいたときには、一人で電車に乗っていた。
行き先なんて、考えるまでもなかった。
揺れる車内で、ぼんやりと窓の外を見つめる。見慣れた景色が、少しずつ変わっていく。
――次の駅。
澪が乗ってくるはずだった駅。
その駅のアナウンスが流れた瞬間、胸の奥がきゅっと縮まる。
「……」
ドアが開き、朝と同じように、人が乗り降りして。
でもやっぱり、あの姿はない。分かっていたはずなのに、少しだけ息が詰まった。
ゆっくりと電車を降り、ホームに立って、周りを見渡す。
――来ちゃった。
心の中で、そう呟く。
ほんとに来るつもりなんて、なかったはずなのに。
それでも、足はここまで運んでしまっていた。
改札を抜けるとそこにあるのは、見知らぬ駅前の景色。
「……で、どうしよう」
当然のことに、今さら気づく。
澪ちゃんの家を知らない。
謝ることばかり考えて、その先のことなんて、何も考えていなかった。
小さく息を吐く。
帰る、という選択肢が頭をよぎる。
でも。
「……」
昨日のことが浮かぶ。
雨の音。
濡れた肩。
甘い味。
“ちょっと熱出ちゃってるだけだから大丈夫”
「……」
視線を落としそのまま、ゆっくりと歩き出す。
とりあえず、駅の周りに何か、手がかりがあるかもしれない。
そう思い、しばらく歩いて。
ふと、思い出す。
「……公園」
前に、澪ちゃんが言っていた気がする。
家の近くに、公園があるって。
曖昧な記憶を頼りに、周囲を見渡し、少し歩いた先に、それらしい緑が見えた。
小さな公園。
ブランコと、滑り台。
小学生くらいの子たちが遊んでいる。
「……これのことかな、」
自信は、なかった。
でも、他に当てもない。
公園の周りの住宅地に足を踏み入れる。
一軒一軒、表札に目を向けながら歩く。
自分でも、何をしているのか分からなくなる。
それでも、足は止まらなかった。
そして。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
視界に入った名前。
――黒瀬。
表札に、はっきりと書かれている。
足が、止まる。
でも。
「……ほんとに?」
同じ苗字なんて、いくらでもある。
間違ってたら、どうするの。
というか――
「……」
ここまで来て、ようやく気づく。
謝ってどうしよう。
それで、何が変わるの。
大丈夫かどうか、確かめるだけ?
そんなの、通話でもできたはずで。
「……」
インターホンに指が、伸びる。
でも、触れる直前で止まる。
――やっぱり、帰ろうかな。
その考えが、ふっと浮かぶ。
迷惑かもしれないよね。
ただの風邪だよね、何日したらまた会える。
私が来る理由なんて、ないのかもしれない。
「……」
どうしていいか分からなくなり、その場に立ち尽くした。
そのとき。
「……あの、どちら様ですか?」
後ろから、声がした。
びくっと肩が跳ね振り返ると、そこには、買い物袋を持った優しそうな女性が、少し不思議そうにこちらを見ていた。
「えっと、あ……」
言葉が、上手く出てこない。
視線が揺れる。
逃げ場が、なくなった。
「あの…」
喉が乾く。それでも、なんとか絞り出す。
「黒瀬さんの……友達、で」
女性は一瞬だけきょとんとして。
それから、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ああ、もしかして澪の」
その言葉で、確信した。
ここが、そうだと。澪ちゃんの家なのだと。
「来てくれたの?ごめんね、あの子ちょっと熱出してて」
「……っ」
胸の奥が、強く締め付けられる。
「どうぞ、上がって」
自然にそう言われて。
もう、引き返せなかった。
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