いつもとは違う朝
バレンタイン翌日、澪はひなたたちの姿が見当たらず、どこか現実感のない朝に小さな違和感を覚える。
ようやく教室前でひなたを見つけるが、冷たい言葉で拒絶され、世界は音も景色も歪み始める。
「触らないで」という一言が胸に突き刺さり、澪は恐怖の中で意識を飲み込まれていく。
次の瞬間、自室で目を覚まえた澪は、それが悪夢だったことに安堵しながらも涙を流す。
夢の余韻に震える澪を心配した姉・遥が駆けつけ、額に触れた瞬間、その異変に気づく。
悪夢だけではなかった――澪の体は熱を帯び、静かな朝に新たな不安が忍び寄っていた。
朝の空は、どんよりとしていた。昨日の雨の名残みたいに、雲が低く垂れ込めている。
傘はいらないけど、なんとなく気分は晴れない。
ホームに立って、電車を待つ。
隣には、いつも通り詩乃がいる。
「なんか、また降りそうだね」
ひなたが空を見上げながら言うと、詩乃もちらっと同じ方向を見る。
「今日天気予報で雨は降らないって言ってたし、大丈夫じゃない?」
「そうかな」
こういう何気ない会話が、いつも通りで少し安心する。
電車が来て、乗り込む。
ドアの近く、いつもの位置。
携帯を見ながらでも無意識に、視線は扉の方に向く。
――次の駅。
澪が乗ってくる駅。
電車が減速し、ホームが見えてきた。
人が並んでいて、ドアが開き、人が乗り降りする――
でも。
「……あれ?」
待っていた長い黒髪は、見えなかった。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
「澪ちゃんいない」
ぽつりと呟くと、詩乃も扉の方を見たまま軽く頷いた。
「ほんとだ。珍しい」
「寝坊とかかな」
「かもね」
それだけの会話。
深刻な感じは、まだない。
ただ少しだけ、「あれ?」って引っかかるくらいで。
電車の揺れに合わせて、つり革が揺れる。
その動きを、なんとなく目で追いながら。
――昨日の帰り道が、ふと頭に浮かんだ。
同じ傘の下。
「……」
小さく、息を吐く。
「どうかした?」
詩乃に聞かれて、すぐに首を振った。
「ううん、なんでもない」
電車は、そのまま次の駅へと進んでいく。
教室に入ると、いつも通りの騒がしさ。
みさきがこっちに気づいて、手を振る。
「おはよー!」
「おはよ」
席に向かいながら返すと、みさきがきょろっと周りを見た。
「あれ、今日は澪ちゃんと一緒じゃないんだ?」
「あー……」
少しだけ言葉に詰まる。
「電車で会えなかったんだよね」
詩乃が代わりに答える。
「へー、珍し」
みさきは軽い調子でそう言って、あまり気にしていない様子だった。
その感じに、少しだけ安心する。
大したことじゃない、って。
そう思っていいはずなのに。
ちょうどその時、教室のドアが開き、担任が入ってくる。
「はい、おはよう。席つけー」
いつも通りの優しい声。
教室が少しずつ落ち着いていく。
ひなたは席に座ると、澪の席を眺める。
まだ、空いている。
「……ほんとに寝坊かな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
ホームルームが始まり、もう直ぐ期末が始まるとか、いつも耳にする言葉が流れる中ーー
「と、そうだ今日黒瀬は、今日は体調不良で欠席だ」
その一言が、落ちた。
「え?」
思わず、声が出た。
自分でも驚くくらい、自然に。
前の方で、誰かが「珍しいな」なんて言っている。
そのくらいの、軽い反応。
でも。
「……体調不良」
小さく、繰り返す。
胸の奥が、ざわつく。
さっきまでの違和感が、形を持ったみたいに。
「……」
指先が、少しだけ強く握られる。
ポケットの中で、スマートフォンが小さく震えた。
びく、と肩が揺れる。
周りはもう、いつも通りの空気に戻っている。
誰かが笑っていて、誰かが席を立って、次の授業の準備をしている。
その中で、わたしだけが少し遅れているみたいだった。
ゆっくりとスマホを取り出し、画面をつける。
――8時47分。
通知欄に表示された名前を見て、指が止まった。
『黒瀬 澪』
ほんの一瞬、開くのをためらう。
それでも、指は勝手に動いた。
画面をタップする。
表示されたメッセージは、短かった。
『ごめん今日休むねちょっと熱出ちゃってるだけだから大丈夫心配しないで』
それだけ。
たったそれだけなのに。
「……」
息が、詰まる。
「心配しないで」
その言葉が、妙に引っかかった。
本当に大丈夫なら、そんな言い方、しない気がして。
画面を見たまま、動けなくなる。
昨日のことが、何度も頭に浮かぶ。
大雨。
一つの傘。
濡れた肩。
「……わたしの所為かも」
小さく、声が漏れた。
もしかして。
いや、でも。
「……」
ぐるぐると、同じ考えが回る。
自分のせいかも。
自分が、誘ったから。
一緒に帰ろうなんて言ったから。
「……っ」
無意識に、スマホを強く握る。
「わたしの所為だ」
呟いた声は、微かに震えていて小さかった。
返信画面を開く。
何か打とうとして、指が止まる。
「大丈夫?」
「ごめんね」
「わたしのせいだったら――」
どれも、違う気がして。打っては消して、また打って。
結局、短い一文だけ送る。
『大丈夫?無理しないでね』
送信ボタンを押したあとも、胸のざわつきは消えなかった。
画面をそっと閉じる。
でも、ポケットにしまう気になれなくて、そのまま机の上に置く。
「ひなた?」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
みさきだった。
「ぼーっとしてない?大丈夫?」
「……あ、うん」
慌てて笑う。
いつも通りに。
何もないみたいに。
「ちょっと眠くて」
適当な理由をつける。
みさきは「ふーん」と軽く流して、すぐに別の話に戻っていった。
その様子に、少しだけ安心する。
――バレてない。
でも。
胸の奥の重さだけは、消えなかった。
授業が始まっても、頭に入ってこない。
ノートを取る手は動いているのに、意識は別のところにある。
時計を見る。
まだ、20分も経ってない
先は長い。
ひなたは授業中ずっと考えていた。どうしたらいいのかを。
このままじゃ、だめだ。
放っておけない。
もし、本当に自分のせいだったら――
「……行こう」
放課後にちゃんと顔を見て、確かめよう。
大丈夫かどうか。
そこでちゃんと、謝ろう。
そう決めた瞬間。
少しだけ、胸が楽になった気がした。
それでも。
胸の奥のざわつきは、消えないままだった。
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