私しか知らない僕
放課後、詩乃が図書委員の仕事で離れ、澪とひなたは二人きりで帰ることに。
雨が降り出し、一本の傘の下で肩を寄せ合いながら歩く距離が近づく。
ひなたにバレンタインの話を振られ、澪は過去のことを思いながら曖昧に答える。
やがてひなたが「渡したいものがある」と切り出し、互いにプレゼントを差し出す。
中身はどちらも白を基調としたお菓子で、偶然の一致に二人は思わず笑みをこぼす。
雨音の中、傘で塞がった手をきっかけに、二人は自然と食べさせ合う距離へと近づいていく。
バレンタイン翌日の空も、昨日と同じように重たい。雲が低く垂れ込めていて、光がほとんど差し込んでこない。
いつもならもう少し明るいはずなのに、今日はやけに色が薄い気がする。
……まあ、そんな日もあるか。
深く考えずに、いつも通りに駅へ向かう。改札を抜けて、いつもの場所で待ち、電車に乗る。
いつもなら――
ひなたと、詩乃がいるはずの場所に目を向ける。
……あれ?
二人ともいない。
少しだけ、視線を巡らせる。
時間を間違えたわけじゃない。人も、それなりにいる。
あの二人だけが、いない。
先に行ったのかな……
車内は、妙に静かだった。
会話が、ほとんど聞こえない。人はいるのに、音だけがどこか遠い。
つり革に手を伸ばすが、空を切った。
思っていたより、少し遠かった。
もう一度、伸ばして、今度はちゃんと掴む。
……なんだろう。
ほんの些細なズレなのに、胸の奥に引っかかる。
なんだか気分が悪くなってきた。
窓に映る景色を眺めて落ち着かせようとする。
……誰?
窓に映っていたのは自分の顔。見慣れているはずなのに、どこか違う気がして。
でも、その違和感をうまく理解できないまま、電車は駅に着いた。
学校までの道も、やけに静かだった。足音だけが、やけに響く。
校門をくぐり、教室へ向かう廊下では。すれ違う生徒はいるのに、誰とも目が合わない。
まるで、見えていないみたいに。
それにやけに、長く感じる。
一歩進むごとに、距離が伸びていくみたいに。
…やっと着いた。
教室の扉の前に着く頃には無意識に、息を荒げていた。
息を整えていたその時だった。
……あ
つい、声が出てしまった。
そこに、ひなたがいた。
ひなた、おはよう。今日早く来てたの?
思わず、ほっとする。ようやく、いつも通りだと、思えた。
でも。
ひなたは、すぐには何も言わなかった。
ひなたはゆっくりと口を開く。
「……黒瀬さんってさ」
その声は、いつもと同じはずなのに。
どこか、遠く感じる。
「最初から、ちょっと変だと思ってた」
え……?どういう意味?
思わず聞き返したけれど、ひなたは視線を合わせない。
「なんか、うまく言えないけど……」
言葉を探すように、間を置いて。
「気持ち悪い、っていうか」
胸の奥が、きゅっと締まる。
…ごめん、わたし何か嫌われる事、したかな……したなら謝るから
わたしはひなたの手を取ろうとする。
「やめて、触らないで」
その一言は、あまりにもあっさりしていた。
だからこそ、心に重くのしかかる。
「そういうの、ほんと無理だから」
何を言われているのか、全く理解できない。
なんで…
視界が歪み、足元がぐらつく、周囲の音は騒がしく聞こえてくる。
ひなたの顔を、見ようと顔を見上げると、ひなたの輪郭が、ゆらりと揺れる。
「だって、黒瀬さんって――」
言葉が途切れ、世界が、歪み飲み込まれる。
「……っ、は」
飲み込まれかけた体を引き剥がし、荒々しく呼吸をする。
視界の先には見慣れた、自分の部屋。
荒い息遣いが、喉を焼き、全身が、じっとりと汗ばんでいた。
「……夢……」
そう呟いた声は、かすれていた。
胸の奥に、まだ残っている。
あの言葉。
あの視線。
ただの夢だと分かっているのに、胸の奥に残る感触だけが消えなくて――安堵と恐怖が混ざり合ったまま、ぽつりと涙が布団の上に零れる。
息がうまく整わないまま、天井を見つめる。
夢だと分かっているのに、胸の奥に残った感触だけが、どうしても消えなかった。
「……なんで、あんな夢」
掠れた声は、自分でも驚くくらい弱かった。
そのとき。
コンコン、と軽いノックの音がする。
「澪? 起きてる?」
姉の遥の声だった。
「……入るよ」と、ドアが開く。
「珍しいじゃん。まだ寝てるなんて――」
軽い調子の声が、途中で止まった。
ベッドの上で起き上がったままの澪と、目が合う。
「……え、どうしたの」
涙の跡に気づいたのか、姉の声が少し低くなる。
「別に……なんでも」
慌てて目元を擦る。
うまく誤魔化せた気は、しなかった。
姉は一歩近づきじっと、顔を覗き込むようにして。
「……怖い夢でもみたの?」
頭を撫でるように手が伸びてきた。
「――っ、熱」
はっきりとした声だった。
自分でも、その瞬間に気づいた。
体が、妙に重く、さっきまでの夢のせいだと思っていた、息苦しさも。
全部、違う理由だったみたいに。
「ちょっと待って、体温計持ってくる」
そう言って、遥はすぐに部屋を飛び出した。
残された静けさの中で、もう一度息を吐く。
――夢。
そう、夢のはずなのに。
頭の奥に、こびりつくみたいに残っている。
ひなたの、あの、言葉。
「……やだな」
再びぽつりと零れる。
体の熱とは別に、胸の奥がじんわりと冷えていくようで。
布団を握る指に、少しだけ力が入った。
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