あなただけの物だから
重たい空の下、バレンタイン当日を迎えた澪はカバンの中の贈り物を何度も確かめながら登校する。
教室ではいつもと違う視線や空気に戸惑い、自分の立場の変化を意識する。
クラスメイトから次々と友チョコを受け取り、用意していなかったことに少しだけ居心地の悪さを感じる。
ひなた・詩乃・みさきと合流し、それぞれの手作りお菓子を交換する。
澪も勇気を出してクッキーを渡し、喜ばれることで小さな達成感を得る。
しかしカバンの中には、まだ渡せていない“もう一つの想い”が残っていた。
いつも通りの放課後、三人で教室を出ると、廊下から見える外は、朝よりもさらに雲が厚くなっていた。
今にも降り出しそうな空気が、廊下の奥まで流れ込んでいる。
「なんか降りそうだね」
ひなたが窓の方を見ながら言う。
「早めに帰った方がいいかもね」
そう返しながら、靴を履き替える。
そのとき、「あ、ごめん」詩乃が思い出したように声を上げた。
「今日、図書委員の仕事あったんだった」
「え、そうなの?」
ひなたが、聞き返す。
「うん。ちょっと忘れてた」
そう言いながら、詩乃はどこか落ち着いた様子で頷いた。
「先に帰ってていいよ。そんな時間かからないと思うけど…雨降りそうだし」
詩乃は微笑みこちらを見つめる。
「そっか。じゃあまた明日ね」
「またね」と、三人は手を振って、詩乃は図書室へ向かっていった。
必然と二人だけになる。
特別なことでもないはずなのに、ほんの少しだけ空気が変わる。
「澪ちゃん、手繋いで帰ろ?」
「…恥ずかしいから学校出てからね」
校門を出て、いつもと違う近道を歩く二人。
その途中でーー
ぽつり、と。
小さな音が、地面に落ちた。
「……あ、降ってきたね」
澪は空を見上げる。
最初は、軽い雨だった。
けれど。
歩いて行くうちに、ぽつ、ぽつ、と。その音は増えていく。
やがて、はっきりとした雨音に変わった。二人は近くの屋根に避難した。
「強くなってきたね」
気づけば、雨粒ははっきりと形を持って、地面を叩き打っていた。
ひなたは、少しだけ困ったように笑う。
「どうしよう…傘、持ってきてないんだよね」
「傘」という言葉を聞き、ふと折り畳み傘の存在を思い出す。
澪は鞄を開け、中を探して折り畳み傘を取り出す。
「助かった……」
ほっとしたように、澪が息をついた。
けれど、すぐに少しだけ困った顔になる。
「でも、一つだと……」
言いかけて、言葉が止まる。その先を、なんとなく察する。
「……一緒に入る?」
できるだけ自然な調子で、そう言った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
ひなたが、嬉しそうに笑う。
そう言って、ひなたが一歩近づく。
傘を開くと、雨音が一段と近くなる。
その下に、二人で入る。
「ひなた濡れてない?」
「澪ちゃんもうちょっとよって濡れちゃうよ?」
ひなたが澪の腕を引く。
小さい傘の中、二人が肩を寄せ合い帰り道をたどる。
しばらく歩いたあと、「……今日さ」ひなたが、ふと思い出したように口を開く。
「バレンタイン何個もらえた?」
ひなたに囁かれるように聞かれ、それだけで、なぜだか緊張が走った。
「澪ちゃん、いっぱいもらってたよね」
「……まあ、それなりに」
「いいなー」
軽く笑う声。しかし、どこか妬まれているような気がすり
「で、でもみんな友チョコだから」
「澪ちゃんはさ…本命チョコ貰ったことある?」
澪の言葉を遮るようなその一言で、足元の感覚が一瞬だけ曖昧になった。
ーー本命。
頭の中で、その言葉が飛び回る。
あるか、ないかで言えば、ある。
けれど。それは、過去の話。
なんと答えようかと、考えようとした瞬間。
ざーー、と。
雨音が、一段と大きくなった気がした。
耳元で鳴り続けるその音が、やけにうるさい。
規則的で、途切れなくて。
まるで、心臓の鼓動みたいに。
「……ないよ」
結局、曖昧に濁すしかなかった。
「そっか」
ひなたはそれ以上は踏み込まなかった。
けれど、そのまま少しだけ前を見てーー
「わたしさ」
ぽつりと、続ける。
「渡したいものがあるんだ」
その言葉に、自然と足が止まった。
ひなたも同じように立ち止まる。
雨は相変わらず降り続いていて、傘に当たる音だけが、二人の間を満たしていた。
「これ」
ひなたが、小さく言って。
鞄から取り出したのは、白い包みだった。
「よかったら」
少しだけ照れたように、差し出される。
一瞬、思考が遅れる。
それでも、反射みたいに手が動いた。
「……あ、私も」
ほとんど間を置かずに、鞄に手を入れる。
取り出した袋を、そのまま差し出した。
二人の手元が、同時に視界に入る。
白い袋と、透明な袋に包まれた白いチョコレート。
「……あ」
ひなたが、小さく声を漏らした。
「同じだ」
「えっと、何が?」
ひなたが自分の袋を紐解くと、中には白いハート型のチョコレートがあった。
「あ、同じだ」
改めて自分のクッキーを見ると、表面に、白いチョコで彩っている。
「でしょ?」
ひなたは嬉しそうに笑う
意識して選んだわけじゃない。
けれど、その事実が、妙にくすぐったい。
「せっかくだしさ、今お互いの食べない?」
「いいよ」
いつも通りの調子で答えたつもりだった。
けれど、内側では、思っていたよりもその提案を受け入れている自分がいた。
ーーが。
「……」
動きが止まる。
片手には、傘。
もう片方で袋を持っても、うまく開けられない。
指先に力を入れてみるけど、思ったよりも固くて、端が少し引っ張られるだけで終わる。
「……開かない」
小さく呟く。
その様子を見て、ひなたがくすっと笑った。
「貸して」
傘の下の距離が、さらに縮まる。
すぐ目の前で、袋を持つ手が重なる。
ひなたはそのまま、器用に封を開ける。
「はい、どうぞ」
差し出されるクッキー。
「……ありがと」
クッキーを受け取ったところでまた止まる。
片手は傘。
もう片方には自分のクッキー。
「……どうする?」
ひなたが、少しだけ楽しそうに言う。
「……」
一瞬だけ考えて、
「そういうこと?」
ひなたが、小さく笑った。
「そういうこと」
気づけば。お互いに、同じように手を伸ばしていた。
人気が少なく、静かな帰り道。
雨の音だけが、やけに大きく響いていた。
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