渡す勇気
初めてのお菓子作りに挑むため、澪はメモを片手にスーパーで材料を揃える。
不慣れな材料選びに戸惑いながらも、なんとか必要なものを買い集める。
帰宅後、動画を頼りに手探りでクッキー作りを開始し、ぎこちなくも工程を進めていく。
型抜きを使って形を整え、焼き上がりを待つ時間に不安と期待が入り混じる。
焼き上がったクッキーを姉・遥が試食し、「普通に美味しい」と評価を受ける。
初めての手作りは無事成功し、澪は小さな達成感と安堵を胸に味を確かめる。
朝の空は、どこか重たかった。雲が一面に広がっていて、冬特有の澄んだ青は見えない。
今にも降り出しそう、というほどではないけれど、日差しは弱く、街全体が少しだけ色を落としているように見えた。
バレンタイン当日。
カバンの中にある感触を、登校中から何度も確かめていた。
教室に入り、自分の席に荷物を置きに行く途中で、何人かとすれ違ったときふと、視線を感じた。
ちらりと横目で見ると、男子が何人かこちらを見ている気がする。
すぐに逸らされたり、慌てて話を続けたりするけれど、いつもとは少しだけ空気が違う。
バレンタイン、だからか。
なんとなく納得しながらも、居心地の悪さが少し残る。
今までとは、立場が違う。そう思うと、妙に意識してしまった。
いつもより少しだけ賑やかで、どこか浮ついている。
「おはよ、澪ちゃん」
「あ、おはよう」
席に着くと同時に、何人かのクラスメイトに声をかけられる。
その流れで、「これ、よかったら」と、小さなチョコを差し出された。
「友チョコ。そんな大したのじゃないけど」
「……ありがとう」
笑って受け取って、軽く言葉を返す。
そのやり取りはどれもあっさりしていて、深い意味なんてないみたいに感じた。
ーーそのはずなのに。
手の中に増えていく小さな重みが、少しだけ気になる。
自分は、こういうのを用意していなかった。
ひなたたちには渡すつもりで作ったけれど、
クラスのみんなに配るようなものは、考えてもいなかった。
今さらどうこうできるわけでもないのに、ほんの少しだけ、居心地の悪さが残る。
けれど。
チョコをくれた子たちは、そんなことを気にしている様子もなくて。
「気にしないでね」とでも言うように、軽く笑って、すぐに次の子へと移っていく。
その自然さに、余計に救われるような、誤魔化されているようなーー
曖昧な気持ちのまま、澪は小さく視線を落とした。
「澪ちゃーん!」
明るい声が聞こえ顔を上げると、ひなたが手を振っていた。
その隣には、詩乃とみさきもいる。
「どうしたのー?」
澪は「なんでもない」と言い、小さい紙袋を手にしてみんながいる場所へ向かった。
「おはよー。はい、これ」
みさきがいきなり小さな箱を差し出してくる。
中には、カラフルなマカロンが並んでいた。
店で売ってそうなくらい、華やかで目を引く。
「すごい」
「でしょ?頑張ったから」
みさきは自慢げに鼻を高くする。
「はい、これ」
続いて詩乃が差し出してきたのは、丁寧に包まれたブラウニーだった。
見ただけで手間がかかっていそうなのが分かる。
「ありがとう」
そう言って受け取ると。
「澪、これも」
ひなたが少しだけ控えめに差し出してきた。
透明な容器の中に入っていたのは、ピンク色のカップケーキ。
ふわっと甘い香りがする。
「かわいい…ひなたらしいね」
「でしょ? ちょっと頑張った」
少し照れたように笑うひなたに、小さく頷く。
「……あ」
そのとき、思い出したように紙袋に手を入れる。
「これ」
三人に向けて、透明な袋に入ったクッキーを差し出した。
みんなに比べたら劣るけれど、自分なりに整えたつもりだった。
「かわいい」
「ちゃんと作ったんだ」
「え、手作り?」
三人の反応が一斉に返ってくる。
「……まあ、一応」
「すごいじゃん」
ひなたは少しだけ柔らかく笑った。
その言葉に、胸の奥が軽くなる。
ちゃんと渡せた。
それだけなのに、思っていたよりもずっと大きい。
けれど。
それとは別に、まだ残っているものがあった。
カバンの中。違う袋に入った、もう一つ分。
どうしてか、それだけはまだ勇気が足りなかった。
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