1000話(1) 千星霜の物語
積み重ね、ついに千の御話
分かっていた。分かっていながら、走るのに必死だなんて誤魔化して見ないふりをしてきただけ。そのツケが今になって回ってきたのだ。
それはきっと自業自得、だろう。ずっと心のどこかにありながら、それでも延々と目を瞑ってきたことへの罰。この弱さも、仮初の強さという仮面の外れた今の自分も、その責任だ。
「……それでもこんな俺に、サキアは戦えというのか?」
乾いた笑いがアハハとこぼれる。自分を卑下するような、聞いていて心がキュッと掴まれるような痛々しい笑いだ。サキアもその苦しさにほんの少し表情を歪めながらも、けれど彼女の瞳は真っ直ぐとシスルを捉えて離さない。彼女は、彼女だけはシスルの弱さに正面から向き合うと、口はそう言わんばかりの強さで言葉を紡ぎ出す。
「戦えって、強制する力はサキに無いよ。いつだって決めるのはシスルだし、シスルの人生はシスルのものだから。だから……もし、あなたが今の魔界で幸せを謳歌したいんだって言うのなら、サキに止める権利は無いの」
「なら、どうして君は俺を止める。逃げた俺の手を引いて、それでも引き戻そうとするんだ―――」
「決まってる。それは、単にサキのエゴだよ。サキは、いつだって誰かのために一直線なシスルを見ているのが好きなの。そんなあなたが好きで、そんなあなたのモノになりたいって思ったんだから」
それは迷いのない、サキアの本音だった。そっと腹部に手を添えて、ゆっくりと、でも力強く彼女はそう言い放つ。
そうだ。これは、サキアの勝手であり我儘である。彼女が強くてかっこいい魔王シスルという男を望むから、そうあってほしいというエゴである。そしてそれは、世界の声でもあった。世間が彼に望み、押し付け、願ってきた理想でもあった。
魔王シスルは、その男は間違っちゃいけない。
魔王シスルは、その男は敗北しちゃいけない。
だってもしそうなれば世界は滅んでしまうから。その責任がすべて彼というちっぽけな人間の両肩に押し付けられていて、そして皮肉なことに彼はその期待に応えたいと張り切ってしまう強さを持っていたから。だから毒を心にため込んで、その毒は徐々に彼という存在を蝕んでいき、ついに彼を飲み込み壊してしまった。
なのに……サキアはまた、それを望むというのか。
「……酷いな、サキアは」
「うん。サキはシスルを苦しめてるね。でも、それでもサキは望むよ」
絶望香るシスルの雰囲気にも怯むことなく、彼女は堂々と言い切る。シスルにとってその言葉がどれだけ鋭くて、毒であって、醜く苦しめる汚泥であるか。分かっていながら、でも彼女はそれを口にするのだ。
「責務から逃げちゃダメ。だってそれはシスルにしかできないんだから。世界を救えるのはシスルだけなのに、そのシスルが諦めちゃってどうするの?」
「それは……ハハッ。厳しいことを言うんだな、サキアは。確かに、俺はこれまで4つの世界魔法を攻略してきた。そういった意味では、俺は世界を救ってきたんだろうよ。でも……それは全部奇跡みたいなものだ。決して俺の実力なんかじゃない」
そう言ってシスルは、深くため息を吐き出して空を見上げた。
「俺はさ、もう疲れたんだよ。多分、限界になってしまったんだな。先の見えない暗闇の中をずっとがむしゃらに走り続けてきて……。止まることも許されず、休むことも許されず。そんな闘いの日々に俺は疲れたんだ。……ダメなのか? そんな俺が、もうやめたいって願うことは。やっとたどり着いた俺の幸せを享受したい。この平穏の中にいたいって願うことは、ダメなのか?」
そう語るシスルの瞳には諦めが漂っていた。弱さ……脆さ……。シスルだって人間だ。いくら魔王といえど、彼は何も神様じゃないし完璧超人でもない。そんな彼を、分かってか分からないでか、人々《みな》は彼に許容を超える期待を押し付けた。彼であればできるだろうと、それは全幅の信頼という名の……“毒”だ。
期待している、信頼している、だから任せるのだ。なんて理由をつけて、押し付ける行為を正当化する。その毒が徐々に徐々に彼へ回って彼を虜にしたのだ。
そんな……シスルの表情にズキンと心が痛む。彼の苦しみ、痛み……それは決して理解できるものじゃない。理解できるよ、分かるよなんて安易に言えるものじゃない。でも、“彼が苦しんでいる”という事実だけは痛々しいほどに伝わってきていた。そして、現在進行形で自分の言葉が彼を傷つけているということも、サキアは理解していた。
(恨まれちゃう……かな。嫌われちゃう、かもね。ああ、辛いな。嫌だな。やっぱり大好きな人に蔑まれたくなんてないよ)
ぎゅっと唇を結んで、ズキズキ痛む胸を掴んで、気を抜けばすぐにでも目を伏せてしまいそうなのを必死で我慢する。嫌だ、いやだ、厭だ、イヤだ……。嫌われたくなんてない。これで関係は終わり、なんて想像しただけで吐きそうになる。
あの日、死に直面し、怒りと絶望でぐちゃぐちゃになったサキアを救ってくれたのがシスルだった。燃え盛る火の中、告白と共に差し出された手のぬくもりは今でもはっきりと覚えている。その日から自分自身を、それに関するすべてを彼に捧げると誓った。未来をくれた、命をくれた、居場所をくれて、温かさをくれて、幸せをくれて……そして、愛をくれた。
そんなシスルを今度は、自分が救う番だ。痛みや苦しみは共有できないとしても、そのそばにいて支えてあげる。
弱さを肯定し、受け止めるのではない。もし彼が先の見えない暗闇を独りで走っているのなら、微かでもいいからその光になりたい―――と。
(嫌われたくない。でも、それは覚悟しなきゃ。……ああ、やっぱサキって悪い女だな。なんでシスルが苦しんでいるのか。今のシスルを生んじゃったのは、きっと“サキのせい”なのに)
心の片隅で、チクチクと突き刺さる心当たりは多分呪いだ。かつて彼女がシスルにかけた……そのつもりはなかったのだが、でも知らぬ間にかけてしまっていた“呪い”が今でも彼を縛っている。
それをわかっているからこそ、サキアだって責任を感じていた。だから今日一日はシスルのために尽くすと決めたのだ。彼の幸せを肯定し、楽しい一日ぐらいは許されてもいいだろうと。けれど、それをずっとは許されない。夢とはいずれ覚めるものであり、いつか覚めるからこそ夢なのだ。
だから……サキアは、何も言わずシスルに抱き着いた。ちょっと背伸びをして、ぎゅっとその手を彼の背中に回す。
ゴツゴツしていて、筋肉質で、ああ男の子なんだなと分かる体つき。突然のそれにびっくりした顔をするアザミに、サキアはそっと瞑っていた目を開く。
「……ごめんね。でも、やっぱりダメだよ。シスルはこんなのじゃダメ。シスルは……かっこよくて、サキのヒーローなんだから!」
そこに理論とか理屈とか、そんな頭のいいものはなかった。残念ながら、サキアの頭ではそんな賢い真似は無理。阿保の子とまでは言わないが、でもサキアは別に賢く演技のできるタイプではないから。
でも、だからこそ。感情のこもった彼女の声も瞳も、それは嘘偽りなんかじゃない本物だってわかる。うるうると大粒の涙滲む目元も、懸命に勇気を振り絞ったのであろう震える声も、それは全部サキアの本音で心からの想いだ。
「……サキア。っ……、そんな、そんなこと言われても、俺はっ……」
だからこそ彼女の言葉はシスルに突き刺さる。諦めも絶望も、そんな苦しい思いが揺らいでしまうほど。シスルは思わず目をそらしてしまう。目を合わせるとすっかり飲み込まれてしまいそうだったから。
幸せの蜜という泥沼に足を取られた彼にとって。それは救いの手であった。沈みゆくシスルに差し伸べられた手。しかし、その手を掴もうと手を伸ばして、けれどその手は途中でピタリと止まってしまう。
「俺は、やっぱり……怖いんだ。もう、あの苦しみは味わいたくないって、全身が叫んでる。ハハッ、笑っちゃうよな。サキアのヒーローっつったって、所詮はこんなものなんだよ」
一度はサキアの背中に回そうとしたその手からフッと力が抜けて、だらんと垂れ下がる。その手を伸ばす勇気は、まだ彼の中に戻ってきていなかった。
怖い……恐ろしいと思ってしまう。必死で走っているときは忘れていた……忘れて“いられた”が、一度知ってしまうとその恐怖は沼の底から這い出ると、足首をガシッと掴んで離さない。
だから、もう二度と。それはいつだったか、シトラの陥った病と似たようなものだった。死の恐怖を知り、殺す痛みを知った彼女は、今まで気にしていなかった“人殺しという罪”に飲まれて一時期剣を握れなくなっていた。今のシスルも同じだった。自分の判断が、行動が、世界の命運なんて大層なものに直結してしまう。その責任を今の今まで背負っていたことが驚きなほど、それは人の身には過ぎたるものであった。
今まではただ我武者羅に走っていたから忘れていられた。でも、一度知ってしまえば、一度その重荷を下ろす楽を知ってしまったらもう二度とそれを背負うことはできない。今までの自分にできたのだから、今の自分も出来るって? そんなのはまやかしだ。むしろ今までの自分が出来ていたことを不思議に思うくらい。
「サキアの言うことは分かるんだ。俺はきっと世界を救わなくちゃいけない。それがここまで積み重ねた旅の、そしてこれまで閉じてきた世界魔法への、そして否定してきた神代兵器たちへの責任なんだろうってことは、痛いほど分かっているんだっ……。でもっ……」
シスルはその手のひらにギューッと爪を立てた。悔しい思いは当然ある。だって、分かっているのだから。自分には責任がある。ああ、言われないでも分かっていた。世界を救うために、数多もの可能性を否定してきた。そのために死ねと命じた者もいる。そのために殺した敵だっている。排除した障害だって、全部世界のためだって割り切っていたからこそ受け入れてきたのだ。だから彼には責任があった。積み重ねた選択と、歩んできた道のりに対して、彼には前へ進む義務があった。
だから……苦しいのだ。かつては重荷から目を背けた。今は世界に対する責任から逃げて、見ないふりをして。
それなのに今、彼は逃げた二つの責任に挟まれている。前みたいに前を向くことは怖い、逃げたい。でも後ろを向けば深く刻まれた足跡が重々しく心臓を握り潰してくる。
「俺一人じゃ、もう駄目なんだよっ……」
その重荷はもはや背負えるものじゃない。世界の命運……なんて巨大なものをたった一人で。その背に、その両肩に、世界の重みはもう預かり切れない。
彼はこれまで抱えてきた思いを吐露した。今までは口にしたくても許されなかった、それは弱音であり赤裸々な本音。サキアの想いに触発されてポロリと零れたそれに、彼女はギリッと奥歯をきしませてガシッと勢いよくシスルの両肩を掴んだ。
「だったら―――サキが一緒に背負うからっ……!」
背に回していた腕はほどき、それをシスルの両肩に乗せて揺さぶる。胸にうずめていた顔を上げた時から、もう止められなかった。ぼろぼろと涙を流し、半ば叫ぶようにして必死で訴える。そんな彼女の真っ直ぐな想いに、シスルはその目を見開く。目が合ってしまった。ああやっぱり、合ってしまえばもう離すことが出来ない。彼女の想いが、叫びが、願いが、止めどなく心へ流れ込んでくる。
「サキもっ、一緒に戦うから! 今度こそあなたの力になりたいの! だから……ねぇ、お願いよ……」
一人じゃない。サキアが共に戦う。彼女はその意思と同じくらい固く拳を握り、ドンッとシスルの胸を叩く。かつてはシスルに救われた。だから今回は自分が救う番だと。
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