百個のジャガイモと一人の料理人
倉庫に荘厳な音楽が響き渡っていた。
まず、ヴァイオリン。
続いて、力強い太鼓の音。
そして、まるで世界の運命を決める戦いが始まるかのような、壮大な合唱。
木製の作業台の前で、フランセテはじっと立っていた。
朝の光が、その顔を照らしている。
目の前にあるのは、一個のジャガイモ。
たった一個だ。
フランセテは静かに目を閉じた。
マティルデに教わったことを思い出す。
指の位置。
皮むき器にかける力。
食べられる部分を無駄にしないこと。
ゆっくりと目を開く。
「ついに、この時が来た……」
音楽が盛り上がっていく。
フランセテは皮むき器を構えた。
その瞬間、世界が止まったかのように感じられた。
最初の一筋は完璧だった。
薄く、途切れのない皮が、静かに容器へ落ちていく。
フランセテは息をのんだ。
二筋目は、さらに美しい。
そして三筋目。
自分でも信じられないほど、手が正確に動いていた。
音楽は、いよいよ最高潮に達する。
「やった……!」
最後の皮が落ちた。
フランセテはジャガイモを高く掲げる。
表面はなめらか。
余計な部分も、ほとんど削っていない。
「やったあああっ!」
「何ができたんだい?」
音楽が止まった。
フランセテが振り返る。
入口にマティルデが立っていた。
彼女は少年を見た。
ジャガイモを見た。
そして、袋の陰にある段ボール箱の上で、小さなスピーカーが光っていることに気づいた。
「……その音楽、どこから流れてるんだい?」
「僕がかけました!」
「それは見れば分かるよ」
「昨夜、専用のプレイリストを作ったんです! 初めての仕事を、忘れられない一日にしたくて!」
マティルデはスピーカーを見つめた。
「……それで、なんでオーケストラが必要なんだい?」
「ジャガイモを一個むいていたからです!」
沈黙。
マティルデは、フランセテが誇らしげに掲げているジャガイモを受け取った。
丁寧に皮がむけている。
思っていた以上に、ちゃんとできていた。
「まあ……これはうまくむけたね」
フランセテの目が輝いた。
「本当ですか!?」
「ああ。でも問題が一つあるよ」
「何でしょう?」
マティルデは作業台を指さした。
残り九十九個。
「もう十五分たってる」
フランセテは時計を見た。
ジャガイモを見た。
そしてスピーカーを見た。
「……あっ」
「この調子じゃ、終わるのは明日だよ」
彼は深く考え込んだ。
「なるほど……」
マティルデは頷いた。
ようやく分かってくれたらしい。
「じゃあ、もっとテンポの速い曲にします!」
「音楽の問題じゃないよっ!」
◇ ◇ ◇
マティルデはスピーカーの電源を切り、棚の上に置いた。
フランセテは、小さな機械が視界から消えるのを名残惜しそうに見つめた。
最初の大勝負は終わった。
しかし、残る相手は九十九個。
「よく聞きな」とマティルデが言った。「急げとは言ってないんだよ。まず丁寧にできるようになること。それから少しずつ手際をよくしていくんだ」
「分かりました」
「それと、一個むくたびに大騒ぎしなくていいからね」
フランセテはうつむいた。
「……小さなお祝いもだめですか?」
「だめ」
「はい……」
マティルデはジャガイモを一つ手に取った。
「まず洗って、傷みがないか確かめる。それから皮を薄くむくんだ。ほら」
彼女の手が滑らかに動いた。
一筋。
もう一筋。
さらに一筋。
あっという間に、きれいなジャガイモができあがる。
フランセテは目を見開いた。
「すごい……」
「慣れだよ」
「マティルデさんは、今まで何個くらいむいたんですか?」
「さあねえ。数えたことなんてないよ」
「千個?」
「それくらいは軽く超えてるね」
「一万個?」
「そうかもしれないね」
フランセテは息をのんだ。
「……伝説の人が目の前にいる」
「目の前にいるのは、昼ごはんを作らなきゃいけないおばさんだよ」
マティルデは皮むき器を渡した。
「ほら、続けな」
フランセテは作業を再開した。
一個。
また一個。
さらに一個。
最初のうちは、なかなか順調だった。
ところが、妙な形をしたジャガイモに当たった途端、皮むき器が深く入りすぎた。
皮と一緒に、大きな実が削れてしまう。
フランセテは眉をひそめた。
形を整えようとする。
また削る。
そして、もう一度。
気づいたときには、ジャガイモはずいぶん小さくなっていた。
様子を見に来たマティルデが、それを手に取った。
くるりと回す。
もう一度見る。
それからフランセテを見た。
「……何をしたんだい?」
「ちょっと作業が難航しまして……」
「半分近く削っちゃってるじゃないか!」
「きれいな形にしようと思って……」
マティルデは、元の大きさが似ていたジャガイモを隣に置いた。
違いは一目瞭然だった。
「ほら、これだけ食べられる部分を捨ててしまったんだよ」
フランセテは、容器に落ちた厚い切れ端を見つめた。
今までは、皮をきれいにむくことばかり考えていた。
そのために、どれほどの食べ物を無駄にしているかまでは考えていなかった。
マティルデが容器を指さす。
「これはね、みんなに食べてもらうために買ったものなんだ。捨てるためじゃないよ」
フランセテは黙って聞いた。
「ジャガイモ一個でも、育てた人がいる。収穫して、運んで、ここまで届けてくれた人がいるんだ。大事に使わないとね」
フランセテは新しいジャガイモを手に取った。
じっと見つめる。
「……必要なところだけ取ればいいんですね」
「その通り」
「少しくらい形がいびつでも?」
「いびつでも構わないよ」
フランセテは頷いた。
もう一度、皮むき器を当てる。
今度はゆっくりと動かした。
薄い皮が一筋、落ちた。
さらに一筋。
もう一筋。
むき終えたジャガイモは、ほとんど大きさが変わっていなかった。
「マティルデさん……」
「どうした?」
「今度は、ほとんど無駄にしませんでした」
マティルデは確かめた。
「うん。ずっとよくなったね」
フランセテは笑った。
ジャガイモを置き、次の一個を手に取る。
その朝初めて、彼は音楽がなくても満足していた。
もっとも、鼻歌くらいは歌いたそうだったが。
◇ ◇ ◇
午前中、ロサが店に顔を出した。
腕には空の木箱を二つ抱え、もう片方の手には仲間と分けるためのパンが入った袋を持っていた。
「おはよう、マティルデさん!」
「おはよう、ロサ」
ロサは倉庫の作業台を見て足を止めた。
そこには大量のジャガイモ。
そして真ん中では、フランセテが真剣な顔で作業を続けていた。
「うちの小さなシェフは何してるの?」
「ジャガイモの皮むきだよ」
「それは見れば分かるけどさ」
ロサは棚のスピーカーに目を向けた。
「さっき音楽が聞こえたけど、もう終わったの?」
マティルデは目を閉じた。
「……聞かないでおくれ」
フランセテが顔を上げた。
「僕の初めての大勝負のための音楽だったんです!」
ロサはジャガイモを見た。
皮むき器を見た。
「……誰と戦ってるの?」
「このジャガイモたちです!」
ロサは数秒間、真顔で考えた。
「それで、どっちが勝ってるの?」
フランセテは皮をむき終えたジャガイモを見た。
二十二個。
続いて、まだ残っている山を見た。
表情が曇った。
「……今のところ、戦況についてはコメントを控えます」
ロサは吹き出した。
「あはははっ! ほんと、変わった子だねえ!」
作業台へ近づくと、大きなジャガイモが目に入った。
上の部分が二つに分かれ、なんとなくハートの形をしている。
「見て、これ。ハートみたい」
フランセテは皮むき器を置いた。
そっと手に取る。
「本当だ!」
不思議そうに眺めた。
「これも料理に使えるんですか?」
「傷んでなければ使えるよ」とマティルデが入口から答えた。「形なんて気にしなくていいんだ」
フランセテはもう一度、その形を確かめた。
「じゃあ、ほかのジャガイモと同じですね」
「おいしくなるかは、料理次第だけどね」とロサが笑った。
フランセテも笑う。
「おいしく食べてもらえるように頑張ります!」
マティルデが作業台を指さした。
「まずは皮をむきな!」
「はいっ!」
ロサは肩を揺らして笑った。
「マティルデさん、いったいどこで見つけたの、この子?」
「アリに餌をやってるところを見つけたんだよ」
ロサが固まった。
「……え?」
「本物のアリだよ」
ロサはフランセテを見た。
「アリにごはんをあげてたの?」
フランセテは誇らしげに頷いた。
「僕の最初のお客さんたちなんです!」
沈黙。
ロサは木箱を持ち直した。
「……これ、絶対ベトに話さなきゃ」
「ベトには余計なことを言うんじゃないよ!」とマティルデが叫ぶ。
だが、ロサはもう店を出ていた。
笑いすぎて、木箱を落としそうになりながら。
◇ ◇ ◇
三十七番目のジャガイモが逃げ出したのは、十一時少し前だった。
きっかけは、小さなでっぱり。
フランセテは、なるべく実を削らずに皮をむこうとしていた。
ジャガイモを回す。
持ち直す。
もう一度回す。
その瞬間、手が滑った。
「あっ!」
ジャガイモが作業台に落ちる。
空の容器にぶつかる。
端まで転がり――
落ちた。
フランセテは勢いよく立ち上がった。
「逃げたあああっ!」
ジャガイモは床を転がり、通路へ向かっていく。
フランセテは追いかけようとした。
「フランセテ! 走るんじゃないよ!」
厨房からマティルデの声が飛んだ。
彼はその場で止まった。
ジャガイモだけが転がり続ける。
そのとき、入口にロサが現れた。
足元を見る。
しゃがむ。
そして、片手で逃走中のジャガイモを捕まえた。
フランセテは目を丸くした。
「……すごい」
ロサがジャガイモを掲げる。
「これ、あんたの?」
「三十七番です!」
「ああ……」
ロサは手の中のジャガイモを眺めた。
「なかなか手ごわそうだね」
「ものすごく!」
ロサは笑った。
「でも、もう捕まえたよ」
フランセテは深々と頭を下げた。
「ご協力、感謝します!」
そこへマティルデがやってきた。
「ロサ、それ貸して」
ジャガイモが傷んでいないか確かめ、もう一度洗って確認するために別の容器へ置く。
それからフランセテを見た。
「走っちゃだめだと言ったね?」
「はい」
「じゃあ、何をしようとしたんだい?」
「……走ろうかと思いました」
ロサが吹き出した。
マティルデはため息をつく。
「何か落としたら、まず知らせること。誰かがつまずいたら危ないだろう?」
フランセテは頷いた。
「分かりました」
ロサが彼の肩を軽く叩いた。
「元気出しな。三十七番はもう捕まえたんだから」
「ありがとうございます!」
「でも、三十八番には気をつけなよ」
フランセテの顔から血の気が引いた。
「……どうしてですか?」
ロサはにやりと笑った。
「仲間を助けに来るかもしれないからね」
そう言って、笑いながら去っていった。
フランセテはゆっくりと作業台に向き直った。
次のジャガイモが置いてある。
丸い。
動かない。
なのに、妙に怪しく見えた。
「……その手には乗らないぞ」
「フランセテ、手を動かしな!」
「はいっ!」
◇ ◇ ◇
時間が過ぎていく。
市場の騒がしさも、厨房の熱気も増してきた。
マティルデは玉ねぎ、ニンニク、黄色い唐辛子でアヒアコの味の土台を作っていた。
アヒアコ・デ・パパ。
ジャガイモを煮込んで作る、ペルーの家庭料理だ。
香ばしい匂いが店いっぱいに広がり、近くのパン屋から漂う焼きたてのパンの香りと混ざっていた。
フランセテは作業を続けた。
まだ動きは遅い。
それでも、むく皮はずいぶん薄くなっていた。
気になる部分を見つけると、自分で判断して削り続けるのではなく、マティルデに確かめてもらうようにもなった。
彼は、状態が気になるジャガイモを二個、別にしていた。
マティルデが確認する。
一個は、傷んだ部分を適切に取り除けば使える。
もう一個は状態が悪く、料理には使わないことになった。
「ちゃんと声をかけてくれてよかったよ」
フランセテは頷いた。
そして、袋から新しいジャガイモを取り出した。
しばらくしてマティルデが戻ると、むき終えたジャガイモが二つの容器に分けられていた。
「なんで分けてあるんだい?」
「こっちは大きくて、こっちは小さいんです」
「それは見れば分かるよ」
「切るときに、なるべく大きさをそろえたほうが、火の通り方もそろうかなと思って」
マティルデは二つの容器を見た。
「自分で考えたのかい?」
「はい!」
「いいところに気づいたね」
フランセテは瞬きをした。
「え?」
「よく考えたって言ってるんだよ。これなら切るときに分けやすい」
フランセテは並んだジャガイモを見つめた。
また何か注意されると思っていた。
ところが今回は、自分の考えを褒めてもらえた。
「ということは……」
「何だい?」
「僕の作戦は成功ですか?」
マティルデはじっと彼を見た。
「その部分はね」
フランセテの目が輝いた。
「やっぱりいいいっ!」
「また騒ぐんじゃないよ!」
彼は慌てて口を押さえた。
マティルデは首を振った。
「ほら、続けな」
フランセテは素直に頷いた。
ただ、作業に戻る途中、小さな音が聞こえた。
「タン、タン、タターン……」
「フランセテ!」
「すみません! ヴァイオリンのつもりでした!」
◇ ◇ ◇
九十個目をむき終えたころ、フランセテは手の疲れを感じ始めた。
同じ動作を長時間続けることに、まだ慣れていなかった。
皮むき器を置く。
指をゆっくり開いたり閉じたりする。
そして、マティルデを見た。
彼女は朝からずっと働いている。
ジャガイモの確認。
味つけの準備。
鍋の管理。
注文と違う品物を持ってきた業者への対応。
今も料理をかき混ぜながら、昼食に必要な分量を確認していた。
その手は迷いなく動いていた。
昨日、玉ねぎを切っていた手。
皿を素早く、丁寧に並べる手。
何年もの間、市場で働く人たちの食事を作り続けてきた手。
「マティルデさん」
「何だい?」
「手、痛くならないんですか?」
彼女はフランセテを見た。
それから自分の手を見る。
「痛くなる日もあるよ」
フランセテは眉をひそめた。
「料理するのが嫌になることはないんですか?」
マティルデは少し笑った。
「そりゃ疲れるよ。ときには来年まで寝ていたいくらいさ」
フランセテの目が大きくなった。
「来年までですか!?」
「もののたとえだよ」
「あっ……」
マティルデは味見をして、塩を少し足した。
「でも、明日も店を開けなきゃね」
「お仕事だからですか?」
「それもあるよ」
そのとき、店の前に男が二人現れた。
「マティ! 今日もアヒアコあるよな?」
「もちろん! お昼になったらおいで!」
二人は手を振り、そのまま歩いていった。
マティルデは料理に向き直る。
「ああやってお腹をすかせて来てくれると、何かおいしいものを作ってあげたくなるんだよ」
フランセテは彼女の顔を見た。
男たちに返事をしたとき、マティルデは笑っていた。
ほんの小さな笑顔だった。
フランセテは作業台へ戻った。
九十一個目のジャガイモを手に取る。
そして、また皮をむき始めた。
◇ ◇ ◇
「百個っ!」
倉庫から声が響いた。
マティルデが顔を上げる。
「今度は何だい?」
フランセテが入口に現れた。
袖をまくり、髪を乱し、これ以上ないほど誇らしげな顔をしている。
「終わりました!」
マティルデはお玉を置いた。
「見せてごらん」
二人は作業台へ戻った。
そこには、次の調理工程を待つジャガイモが並んでいた。
使えないものは取り替え、確認の必要があるものはきちんと分けてある。
マティルデは一個手に取った。
次の一個。
さらにもう一個。
「まだまだ練習が必要だね」
フランセテは少し肩を落とした。
「はい……」
「皮が残ってるものもある」
「はい……」
「時間もかかりすぎだよ」
「……はい」
マティルデは最後のジャガイモを置いた。
「でも、最初よりずっと無駄が減った。分からないところはちゃんと聞いたし、最後までやり遂げたね」
フランセテはゆっくり顔を上げた。
「……ということは?」
マティルデは頷いた。
「よく頑張ったよ」
フランセテは動かなかった。
音楽は流れない。
天から光が差すこともない。
伝説の料理人が現れて、その才能を認めることもない。
ただ、小さな食堂の倉庫で、一人の女性が彼の仕事を認めてくれた。
フランセテは唇を結んだ。
「……ありがとうございます」
マティルデはトレーを手に取った。
「さあ、今度は切って、昼ごはんを仕上げるよ」
「はいっ!」
フランセテは急いで後を追った。
そして、驚くべきことが起きた。
それから数分間、彼は何一つ騒ぎを起こさず、言われた通りに働いたのだ。
マティルデも、ようやく少し安心し始めた。
ところが――
「マティルデさーん!」
彼女は勢いよく振り返った。
「今度は何を焦がしたんだい!?」
フランセテがスプーンを一本掲げた。
「何も! このスプーンをどこにしまうのか聞きたかったんです!」
マティルデは彼を見つめた。
一秒。
二秒。
それから胸に手を当てた。
「……そういう呼び方はやめておくれ」
「どういう呼び方ですか?」
「市場が火事になったみたいな声だよ」
「分かりました!」
「それと、声を小さく」
「はいっ!」
「……本当に頼むよ」
◇ ◇ ◇
昼食の時間になると、店はたくさんの声で満たされた。
市場の働き手たちが、何人かずつ入ってくる。
袋のほこりがまだ手についている人。
短い休憩時間を利用して、急いで席につく人。
最初に来たのはロサだった。
「マティ! いい匂い!」
「座っておいで。もうできるよ」
続いてベトが入ってきた。
「今日は何?」
「アヒアコ・デ・パパです!」とフランセテが元気よく答えた。
ベトは彼を見た。
「君が作ったの?」
フランセテは少し考えた。
「僕はジャガイモの皮をむきました」
「ああ」
「百個!」
ベトが眉を上げた。
「百個?」
「百個です!」
「よく生き残ったな」
フランセテは拳を握った。
「厳しい戦いでした……」
ベトは席についた。
「ちゃんと煮えてるといいな。復讐しに来られても困るし」
ロサが吹き出した。
マティルデは料理を盛りつけ始めた。
アヒアコはほどよくとろみがつき、柔らかなジャガイモが形を残している。
黄色い唐辛子を使った味つけが、料理に明るい色と香りを与えていた。
仕上げに加えたフレッシュチーズが、全体をまろやかにまとめている。
フランセテは、次々と運ばれていく皿を見つめた。
一皿。
また一皿。
どの皿にも、彼が午前中ずっと準備していたジャガイモが入っていた。
お客さんたちは食べ始める。
会話をする。
ひと息つく。
すぐに仕事へ戻らなければならない人もいた。
市場で起きた出来事を楽しそうに話す人もいた。
ロサがひと口食べた。
「うわあ、マティ! 今日もおいしい!」
「ありがとう、ロサ」
ベトも食べ続けていた。
「なあ、フランセテ」
「はい?」
「あの三十七番って、どれだったんだ?」
フランセテの顔が青くなった。
皿を見る。
鍋を見る。
そしてベトを見る。
「……分かりません」
ベトはゆっくりスプーンを持ち上げた。
「じゃあ、ここにいるかもしれないな」
沈黙。
ロサが口元を押さえた。
フランセテは一歩後ずさる。
「まさか……!」
ベトは笑った。
「どうやら、ついに捕まえたみたいだ」
そう言って、ひと口食べた。
フランセテは、その皿を厳かな表情で見つめた。
「……君の犠牲は忘れない」
厨房からマティルデの声が飛んだ。
「フランセテ! 昼ごはんと話してないで、こっちを手伝いな!」
「はいっ!」
◇ ◇ ◇
昼の営業が終わるころ、市場は少しだけ静かになっていた。
最後のお客さんたちが帰っていく。
ロサもベトと一緒に仕事へ戻った。ただ、その前に、まだ荷下ろしをしている仲間のために料理を一人前買い、持ち帰り用に包んでもらっていた。
マティルデは片づけを始めた。
フランセテは作業台を拭き、調理器具をしまうのを手伝った。
手はまだ少し疲れている。
でも、気分はよかった。
一日働いた。
何度も失敗した。
それでも、最後まで仕事を終えることができた。
片づけを続けていると、マティルデが帳簿を確認しているのが見えた。
近くのテーブルには、少しだけ残ったアヒアコが置いてある。
彼女の昼ごはんだった。
「マティルデさん」
「何だい?」
「もうお昼は食べましたか?」
「まだだよ。これを終わらせてからね」
フランセテは皿を見た。
それから時計を見る。
思い返せば、昼の間、マティルデはずっと料理を運んでいた。
座って食事をしているところを、一度も見ていない。
フランセテは少し考えた。
そして、きれいなトレーを一枚取る。
皿をのせ、冷めないように蓋をする。
スプーンを用意する。
ナプキン。
水の入ったコップ。
それらを、さっき拭いたテーブルに丁寧に並べた。
「マティルデさん」
彼女が帳簿から顔を上げる。
「今度は何だい?」
フランセテは軽く頭を下げた。
「お昼ごはんをお持ちしました」
マティルデは彼を見た。
それからテーブルを見る。
自分の料理が、きちんと並べられていた。
フランセテはその横に立っている。
まるで、とても立派なレストランの給仕係になったつもりで。
「……これは?」
「マティルデさん、みんなのためにずっと料理を作っていたでしょう?」
彼女は答えなかった。
「でも、自分ではまだ食べていなかったから」
マティルデはもう一度トレーを見た。
フランセテは笑った。
「今度は、マティルデさんの番です」
数秒間、彼女は何も言えなかった。
やがて帳簿を閉じた。
立ち上がり、席につく。
「……ありがとうね」
フランセテは横に立ったままだった。
「おいしいですか?」
マティルデがひと口食べる。
「もちろん、おいしいよ」
「よかった!」
「作ったのはあたしだよ」
「あっ、そうでした!」
マティルデは小さく笑った。
「ほら、あんたも座りな。あたしより疲れた顔をしてるよ」
フランセテは素直に腰を下ろした。
遠くから市場の音が聞こえる。
店の前をモトタクシーが通り過ぎた。
商人が今日最後の売り物を呼びかけている。
マティルデは静かに食事を続けた。
フランセテも、何も言わずに座っていた。
今度はヴァイオリンもない。
太鼓もない。
世界の運命を告げる合唱もない。
ただ、一人の女性が昼ごはんをおいしそうに食べている。
フランセテには、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
「さて、フランセテ」
帳簿を確認し終えたマティルデが顔を上げた。
「はい!」
「今日は初めて、一日きちんと働いたね」
「はい!」
「何度も失敗した」
「はい……」
「あたしを何度も困らせた」
「……はい」
「ジャガイモ一個のためにオーケストラまで聞かされたしね」
フランセテはうつむいた。
「すみません……」
マティルデは帳簿を閉じた。
「でも、ちゃんと人の話を聞いた。間違えたところは直したし、最後までよく働いたよ」
フランセテは顔を上げた。
マティルデは手招きした。
「これからの勤務時間と仕事の内容、お給料について決めよう。あんたがよければ、これからも来てほしいんだ」
フランセテは黙ったままだった。
「聞こえたかい?」
「はい……」
「じゃあ、どうしたんだい?」
フランセテは口を開いた。
閉じた。
また開いた。
「それって……」
マティルデは笑った。
「そうだよ。あんたを正式に手伝いとして雇いたいんだ」
数秒間、何の音もしなかった。
そして――
「マティルデさあああん!」
「何だい!?」
「本当にありがとうございますっ!」
フランセテは勢いよく頭を下げた。
マティルデは慌てて、カウンターの端に置いてあった帳簿を引っ込める。
今日、彼は多くのことを学んだ。
だが、頭を下げるときの距離感は、まだまだだった。
「分かったから! カウンターを壊すんじゃないよ!」
フランセテは顔を上げた。
目が輝いている。
「絶対にがっかりさせません!」
「そう願うよ」
「一生懸命働きます!」
「それはもう分かってる」
「そしていつか、世界で一番おいしい料理を作ります!」
マティルデは彼を見つめた。
乱れた髪。
少し汚れたエプロン。
一日働いて疲れた手。
百個のジャガイモをむくために、午前中の大半を使ってしまった青年。
それなのに、世界一の料理人になるという夢を語る声には、少しの迷いもなかった。
マティルデは小さく笑う。
「だったら、まず明日も時間通りに来ることだね」
「はいっ!」
フランセテは自分の荷物をまとめた。
帰る前に、もう一度厨房へ振り返る。
テーブル。
調理道具。
鍋。
すべてがきれいに片づいていた。
そして彼は、初めて確信していた。
明日も、こっそり忍び込まなくていい。
ちゃんと入口から入っていいのだ。
フランセテは大きく息を吸った。
笑った。
そして市場へ出ていった。
◇ ◇ ◇
その夜。
フランセテは小さな手帳を開いた。
あるページには、できれば忘れてしまいたい記録が残っていた。
『飲食店勤務経験:三日間』
『退職理由:米の炊き加減に関する意見の相違』
彼は鉛筆を持った。
少し考える。
そして、その下に書き足した。
『新しい仕事:調理助手』
『最初の任務:ジャガイモ百個』
『結果:任務完了』
満足そうに文字を眺める。
最後に、もう一行。
『注意事項:三十七番は危険』
手帳を閉じた。
明かりを消す。
ベッドに横になる。
明日も新しい一日が始まる。
また何かを学ぶ日。
また何かを間違える日。
そして運がよければ、誰かを笑顔にできる料理を作る日。
フランセテは目を閉じた。
自然と笑みが浮かぶ。
何もかもうまくいきそうだった。
そのとき、ふと思い出した。
「……あっ」
ゆっくり起き上がる。
「僕のスピーカー!」
鞄の中を探した。
あった。
帰り際、マティルデが返してくれたのだ。
ただし、条件が一つ。
仕事中にオーケストラを流すのは、もう禁止。
フランセテは小さなスピーカーを見つめた。
それからスマートフォンを取り出す。
プレイリストを開いた。
今日の大勝負のために、場面ごとに曲を選んであった。
『準備』
『最初の対決』
『決戦』
『勝利』
画面をしばらく眺める。
そして、新しいプレイリストを作った。
名前は――
『明日:仕事二日目』
入れた曲は、たった一曲。
静かなメロディー。
太鼓もない。
合唱もない。
トランペットもない。
フランセテは満足そうに笑った。
「これなら、マティルデさんも気に入ってくれるかな」
スマートフォンの画面を消す。
布団に潜り込む。
そして、久しぶりに、将来手に入れる名声のことではなく――
明日も帰っていける場所があることを喜びながら、眠りについた。




