メニューにない一皿
いつものをお願いします。
フランセテは、世界一簡単な注文を受けたかのように笑顔になった。
「はい! ただいま!」
客は頷き、窓際の席に腰を落ち着けた。
フランセテは振り向くと、壁に掛かった黒板のメニューを読み始めた。
魚のフライ。
ジャガイモの煮込み、アヒアコ。
本日の定食。
最初から、もう一度読む。
念のため、黒板の裏側まで確かめた。
そこに秘密の料理名はなかった。消しかけた太陽の絵と、ペンキの染みがあるだけだ。
「……おかしいな」
彼はポケットから手帳を取り出した。そこには、マティルデの教えが大きな字で書かれている。
『注文が分からなかったら、聞くこと!』
よし、とフランセテは頷いた。
今度こそ、勝手な判断で動かない。席へ戻り、丁寧に尋ねた。
「すみません。『いつもの』には、ご飯がつきますか?」
眼鏡をかけた客は顔を上げた。
「いや、つかないよ」
「サラダは?」
「それも違うね」
「温かい料理ですか? それとも冷たい料理ですか?」
「温かいよ」
フランセテは手帳に印をつけた。
「なるほど。これで料理の候補が半分に絞れました!」
男は小さく笑った。
「マティルデに聞いてごらん。あの人なら分かるよ」
「分かりました!」
フランセテは厨房へ向かった。
ところが、あと数歩というところで、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「おい、新人シェフ。まだ聞いてないのか?」
ベトだった。
帽子を後ろ向きにかぶり、片腕にトマトの箱を抱えている。その口元には、何かをたくらんでいる人間特有の笑みが浮かんでいた。
残念ながら、フランセテにはまだその笑みを見分ける経験が足りない。
「何をですか?」
「裏メニューのことだよ」
「……裏メニュー?」
ベトは箱をベンチに置き、声を落とした。
「本当は教えちゃいけないんだ。何年も通ってる常連しか知らない料理が、この店にはある」
フランセテは黒板を振り返った。
「やっぱり!」
「何がやっぱりなんだよ」
「メニューに書いてない料理があると思ったんです!」
ベトは重々しく頷く。
「そのレシピを知ろうとして、一生を費やす料理人もいるらしいぞ」
「そんなに……! マティルデさんは知ってるんですか?」
「知ってるどころか、守ってる本人さ」
フランセテは目を見開いた。
厨房の奥では、マティルデが鍋をかき混ぜながら、届かなかった玉ねぎの袋について仕入れ業者と話していた。エプロンには粉がつき、片手には木べら。
いつもと変わらない姿のはずなのに、急に威厳が増して見える。
「……秘伝のレシピの守り人」
「そういうこと」
ベトは笑いをこらえるのに必死だった。
「どうすれば注文できるんですか?」
「合言葉を使う」
フランセテは身を乗り出した。
「教えてください!」
ベトは窓際の男を目で示す。
「『いつもの』だ」
二人の間に厳かな沈黙が流れた。
フランセテは手帳にその言葉を書き、丸で囲んだ。
さらに下へ、こう付け足す。
『閲覧制限あり』
◇ ◇ ◇
調査は五分後に始まった。
米を丸焦げにしたときとは違う。今回は、分からないことを確かめてから動くのだ。
秘密の注文があるなら、その合言葉を知っている人もいるはず。
最初の聞き込み相手はロサだった。
店の入口で、空の木箱を二つ重ねている。
「ロサさん、内密にお聞きしたいことがあるんですが」
「またジャガイモが逃げたの?」
「今回はもっと重大なんです!」
ロサは箱を置いた。
「何?」
フランセテは左右を確かめた。
「いつもと同じものが食べたいとき、何を注文しますか?」
「魚があれば魚料理かな。レモンは多めで」
フランセテは記録した。
「ロサさんも、あの合言葉を使うんですか?」
「合言葉?」
「それは明かせません」
ロサはしばらく彼を見つめた。
「……ベトに何か吹き込まれた?」
フランセテは手帳を胸に抱えた。
「情報源の秘密は守ります!」
ロサは声を上げて笑った。
「まったく、あのベトは! マティ、ちょっと聞いてよ!」
「待ってください!」フランセテは慌てた。「まだ調査中なんです!」
次の手がかりは、向こうからやってきた。
通路を歩いていた作業員が店をのぞく。
「マティ! いつもの、持ち帰りで頼むよ!」
「十分待っておくれ!」厨房から声が返る。
フランセテは勢いよく振り向き、椅子にぶつかりそうになった。
また一人。
その直後、別の席の短い髪の女性も声をかけた。
「マティルデ、私もいつものお願いね!」
「はいよ!」
フランセテは固まった。
同じ合言葉なのに、二人ともまるで別の注文をしている。
『会員には階級がある』と手帳に書いた。
しばらく考えて、消した。
『合言葉の意味は、使う人によって変わる』
こちらのほうが、もっと恐ろしい秘密に思えた。
マティルデが料理を運んでくると、フランセテは柱の陰に隠れた。もっとも、その柱は彼の肩の半分ほどしか隠していなかった。
「そこで何してるんだい?」
「目立たないように観察しています」
「通りから丸見えだよ」
「……隠れ方も練習しないといけませんね」
マティルデは手帳に気づいた。
「何を書いてるの?」
フランセテは迷った。
情報源を守る約束だ。だが、目の前にいるのは秘伝のレシピの守り人かもしれない。ここで隠すのは失礼ではないだろうか。
そっと手帳を見せる。
『窓際の客:階級不明』
『ロサ:魚とレモン』
『ほか二名:合言葉を確認』
『ベト:情報提供者』
マティルデの視線が、手帳からベトへ移った。
ベトは入口で水を飲んでいたが、急にコップの陰へ隠れようとした。
「ベト」
「……何、マティ?」
「この子に何を教えたんだい?」
「いやあ、ちょっと面白い話をね」
ロサが入口で吹き出した。
マティルデは深く息をつく。
「フランセテ。お客さんが『いつもの』って言うのは、普段頼んでるものを出してほしいってことだよ。それだけ」
フランセテはゆっくり手帳を下ろした。
「合言葉じゃないんですか?」
「違う」
「じゃあ、人によって料理が違うのは……」
「好みが違うからさ。いつも来てくれる人なら、何が好きか覚えてるんだよ」
フランセテは書いたものを見直した。
ロサはレモンを多めに。
ベトは辛くないサルサを。
窓際の客には、マティルデだけが覚えている一皿がある。
「……つまり、一人ずつの好みを覚えてるんですね」
「そういうこと」
フランセテは少し考え、感心したように言った。
「それ、合言葉を覚えるよりずっと大変じゃないですか」
マティルデは返事に困った。
ベトだけは、とうとう我慢できずに笑いだした。
◇ ◇ ◇
窓際の男性はエリアスという名前だった。
長年、市場の近くで働いていた人だ。今はもう早朝から荷物を運んだり値段交渉をしたりはしないが、マティルデの食堂に立ち寄る習慣は変わらなかった。
「エリアスさんの『いつもの』はジャガイモのオムレツだよ」とマティルデは説明した。「外はこんがり、中は柔らかく。サルサは別皿でね」
「やっぱりメニューにない料理があったんですね!」
「時間があるときに作る料理はほかにもあるよ。黒板に全部は書けないだろう?」
フランセテは考え込んだ。
「なるほど。思っていたより小さな謎でした」
「そのぶん食べやすい謎でよかったね」とロサが口を挟む。
マティルデはカウンターの箱を開け、眉をひそめた。
「困ったね。今朝頼んだ卵がまだ届いてない。それに、もうすぐ昼の仕込みで手がいっぱいになる。今日はいつものオムレツを作れそうにないよ」
フランセテはエリアスのほうを見た。
男性は窓の外を眺めながら静かに待っている。催促する様子はない。
「何か、似たものを出せませんか?」
「何か考えがあるのかい?」
その問いかけに、フランセテの頭の中では、見たこともない食材が次々と並び始めた。
光に満ちた巨大な厨房。
厳しい表情の審査員たち。
世界中の料理人が注目する、名前さえない新しい一皿。
そして――真っ黒になった米の大鍋。
壮大な光景は一瞬で消えた。
「……まだ分かりません」とフランセテは正直に答えた。「先に、エリアスさんがあのオムレツのどこを好きなのか聞いてもいいですか?」
マティルデは木べらを皿に置いた。
「そうしな」
フランセテは窓際へ戻った。
「エリアスさん。今日は材料が少し足りなくて、いつも通りには作れないんです。どんなところが一番お好きなのか、教えていただけますか?」
男性は少し考えた。
「外側が香ばしく焼けていて、中が柔らかいところかな。サルサは別にしてほしい。たっぷりかけたい日も、少しだけにしたい日もあるから」
「辛いのはお好きですか?」
「控えめがいいね。ジャガイモの味も楽しみたいし」
フランセテは丁寧に書き留めた。
「今日の料理が、オムレツとは少し違っても大丈夫ですか?」
エリアスは微笑んだ。
「私は昼ごはんを食べに来たんだよ。難しいなぞなぞを解きに来たわけじゃない。マティルデがおいしいと言うなら、食べてみるさ」
「ありがとうございます!」
「慌てなくていいよ。時間はあるからね」
その一言に、フランセテは思いがけず気持ちが軽くなった。
◇ ◇ ◇
答えは、その朝マティルデが用意していた大皿の中にあった。
ゆでたジャガイモ。
フレッシュチーズ。
少量の小麦粉と刻んだ香草。
どれも身近な食材だ。
「ジャガイモとチーズの小さな焼き物にしようか」とマティルデが言った。「いつものオムレツじゃないけど、外をこんがり、中を柔らかく仕上げることはできる。火はあたしが見るから、あんたは生地を作って形を整えるのを手伝いな」
「はいっ!」
フランセテは手を洗い、作業を始めた。
まずジャガイモをつぶす。
細かくしたチーズ、少しの小麦粉、刻んだ香草を加える。マティルデが塩加減と生地のまとまりを確かめた。
「急がないこと。水分が多いと、焼くとき崩れやすいからね」
フランセテは真剣に頷いた。
生地を少し取る。
丸く整える。
端が割れた。
指で直す。
反対側が割れた。
彼は黙ってその生地を見つめた。
「……何か伝えようとしているみたいです」
「力を入れすぎないで、まとまりを直しな」
マティルデは顔も上げずに答えた。
「あっ、はい」
二つ目は、きちんと形を保った。
完璧な円ではない。
料理雑誌の表紙に載るような出来でもない。
それでも、持ち上げても崩れなかった。
マティルデがへらで受け取る。
「よく見ておいで」
薄く油を引いたフライパンに生地を置き、ゆっくり焼き色をつける。ジュッという小さな音がして、ジャガイモとチーズの香りが広がった。
フランセテは思わず顔を近づけた。
頭の中では、いつの間にか巨大な競技場に立っていた。
満員の観客。
フライパンに降り注ぐ黄金の光。
見えない実況者が、料理界の歴史を変える瞬間だと叫んでいる。
「そして今こそ……」フランセテは小さくつぶやく。「運命の一回転!」
へらへ手を伸ばしかけた、そのとき。
「言うまでフライパンに触るんじゃないよ」
マティルデの声で競技場は消えた。
「……はい」
彼女はへらの差し込み方と、崩さず裏返す動きを見せた。次の一枚では、すぐそばで見守りながら、フランセテにもやらせてくれた。
彼は深く息を吸う。
へらを滑り込ませる。
そっと持ち上げる。
裏返す。
生地がフライパンに戻った。
少し斜めになった。
それでも、割れていない。
「マティルデさん!」
「見てたよ」
「崩れませんでした!」
「大声を出してる間に焦がさないようにね」
フランセテはぴたりと黙った。
しばらくして、声をひそめて聞く。
「……心の中でお祝いしてもいいですか?」
「それなら好きにしな」
彼は目を閉じ、胸元で小さく拳を握った。
その頭の中では、盛大な花火が打ち上がっていた。
現実の厨房では、マティルデが火を少し弱めた。
最初の一枚を取り出すと、マティルデは小皿にのせて中身を確かめた。
「これは試し焼きだよ」
フランセテは、こんがりした表面を見つめた。
「エリアスさんには出さないんですか?」
「塩加減も、ちゃんと形が保てるかも確かめてないだろう。きれいに見えるだけじゃ、お客さんには出せないよ」
マティルデは小さく切り、彼にも味見をさせた。
表面は少し香ばしく、中はまだ温かい。ジャガイモとチーズの柔らかい味が広がった。
「おいしいです!」
「もう少し塩が欲しいね」と、マティルデも味を確かめて言った。「次はよくなるよ」
フランセテは、皿に残った一切れを見た。
「これはどうするんですか?」
「きちんと焼けてるから、あたしたちで食べよう。試したものを何でも捨てる必要はないからね」
フランセテは頷き、大きな皿を取り出した。
そして、皿の縁に香草の葉を並べ始める。
マティルデが横目で見た。
「何してるんだい?」
「山みたいに盛りつけたらどうかなと思って。サルサを川にして、焼き物は……」
「フランセテ」
「はい?」
「エリアスさんは風景画を頼んだわけじゃないよ」
彼は皿を見下ろした。
「……そうでした」
「外はこんがり、中は柔らかく。サルサは別皿。それがあの人の希望だったろう?」
フランセテは飾りすぎた葉を外し、小さなサルサ用の器を探した。さっきまでは市場中を驚かせる一皿を想像していたのに、今は、たった一人のための皿を整えている。
そこへ外から作業員の声が飛んできた。
「マティ! 休憩、もうあまりないんだ!」
「今、運ぶよ!」
マティルデはフランセテを見た。
「エリアスさんの分も大切。でも、ほかのお客さんも待ってる。先にあっちの料理を運ぶのを手伝って。それから仕上げよう」
フランセテは皿から手を離し、トレーを持った。入口ではロサが扉を押さえ、彼が通りやすいようにしてくれた。
「秘密の料理はどうなったの?」とロサが笑う。
「もう秘密じゃありません。エリアスさんのための料理です!」
「それなら、ずっといいね」
厨房へ戻ると、お客さんに出す二枚も焼き上がっていた。マティルデがきれいな皿にそっとのせる。
フランセテは、約束どおり別の器にサルサを盛った。
『いつもの』という言葉を聞いてから初めて、何を運ぶのかはっきり分かっていた。
◇ ◇ ◇
エリアスは、運ばれてきた皿を眺めた。
こんがり焼けた小さなジャガイモの焼き物が二つ。
別皿に盛られたサルサ・クリオージャ。
見た目は、ごく普通の昼ごはんだった。
「いつものオムレツではないんです」とフランセテは説明した。「今日は卵が届かなかったので。でも、おっしゃっていたように、外はこんがり、中は柔らかくなるように作りました」
エリアスは眼鏡を直した。
「君が作ったのかい?」
フランセテは、厨房で働くマティルデを振り返った。
「二人で作りました。僕は生地作りを手伝って、一枚だけひっくり返しました。ほかはマティルデさんがやってくれました」
「そうか。じゃあ、いただこう」
エリアスは一切れ切った。
断面を少し眺める。
口に運んだ。
フランセテは席の横で待っていた。
一秒。
二秒。
三秒。
エリアスはサルサを少しのせて、また食べた。
フランセテは何か言わなければと思った。
「お味は……」
通りかかったマティルデが、そっと肩に触れた。
「最後まで食べさせてあげな」
フランセテは口を閉じた。
やがてエリアスが言った。
「いつものとは違うね」
フランセテの肩が少し落ちる。
「……すみません」
「まずいとは言ってないよ」
フランセテは顔を上げた。
エリアスはもう一切れ切る。
「外は香ばしくて、中は柔らかい。私の好きな感じだ。サルサが別なのもいい。自分の好きなだけつけられるからね」
ひと口食べ、頷いた。
「次に来たときは、これも食べたいか聞いてくれていいよ」
フランセテはすぐに返事ができなかった。
「……本当ですか?」
「本当だよ。ただし、一人に大宴会みたいな量は出さないでおくれ。これくらいがちょうどいい」
「分かりました!」
エリアスは微笑み、また食事へ戻った。
フランセテはゆっくり厨房へ戻った。
マティルデが、窓際をちらちら見ている彼に気づく。
「どうしたんだい?」
「何でもありません」
「じゃあ、どうして笑ってるの?」
エリアスは、窓の外を眺めながら静かに食事を続けている。
フランセテは答えた。
「……おいしいって思ってもらえたみたいで」
マティルデは皿をカウンターに置いた。
「そうだね」
二人はまた仕事に戻った。
◇ ◇ ◇
午後、最後の客が帰ったころ。
マティルデは、手帳に何かを書き込んでいるフランセテを見つけた。
「今度は何を書いてるんだい?」
彼はページを見せた。
見出しには大きく、こうある。
『いつもの』
その下に、名前と好みが並んでいた。
『エリアスさん:外はこんがり、中は柔らかく。サルサ別皿。辛さ控えめ』
『ロサさん:魚料理。レモン多め』
『ベトさん:辛さ控えめ。話の内容は要確認』
マティルデは最後の一行を読んだ。
「……ベトのところ、どういう意味だい?」
「今朝、裏メニューには秘密の合言葉があると言われたので」
「ああ……」
マティルデは笑いをこらえた。
「でもね、いつも同じものを頼むとは限らないよ。覚えていても、決めつけないで聞いてあげな」
フランセテは頷いた。
そして、見出しの『いつもの』を線で消す。
代わりに書いた。
『お客さんの好きなもの』
マティルデは少し眺めた。
「そのほうがいいね」
ちょうどそのとき、ベトが入口から顔を出した。
「マティ! まだ何か残ってる?」
「魚ならあるよ」
「よかった。じゃあ、いつもの!」
フランセテはすぐに立ち上がった。
ベトはにやりとした。また困った顔をすると思っているのだろう。
ところがフランセテは、黒板を見もしなかった。
「魚とご飯に、辛さ控えめのサルサですね。前と同じでいいですか?」
ベトの笑顔が止まった。
「……ああ。それだ」
「分かりました。マティルデさんにも確認します!」
ベトは少し驚いた様子で彼を見た。
「おっ、覚えたんだな」
「はい! 『いつもの』は合言葉じゃなくて、その人が好きなものを覚えているってことなんですね」
ベトは両手を上げた。
「参った。今日は君の勝ちだ」
フランセテは満足そうに笑った。
だが、手帳へ目を戻したとき、何かを思い出した。
「ところで、ベトさん」
「何だ?」
「つけ払いの帳簿も秘密なんですか?」
入口に現れたロサが、その場で笑い崩れた。
ベトは片手で顔を覆った。
「誰に聞いたんだ、そんなこと!」
「ロサさんです!」
「ロサ!」
「あははっ! 今度はあんたがからかわれる番だよ!」
厨房から三人を見ていたマティルデは、ため息をついた。
そして、少し笑った。
その騒ぎの中、フランセテは手帳に一行書き加えた。
『ベトさん:辛さ控えめ。裏メニューの話は信用しない』
しばらく眺めてから、もう一つ。
『料理を作る前に、必ず聞くこと』
◇ ◇ ◇
店を閉めるころには、市場にも夕暮れが訪れていた。
商人たちが商品を片づけ、道には空の台車が行き交う。
フランセテが椅子を重ねるあいだ、マティルデは会計を締め、厨房の明かりを消した。通路の灯りだけが残る。
「今日は役に立つことを覚えたね」
フランセテは扉を押さえ、彼女を先に通した。
「はい!」
「何を覚えた?」
彼は少し考えた。
「人は同じ言葉で違う料理を頼むことがあって、違う言い方で同じ料理を頼むこともあるんですね」
マティルデは目を細めた。
「悪くないね」
「だから、作る前にちゃんと話を聞きます」
「それが一番だよ」
道の向こうでは、買い物袋を手にしたエリアスがゆっくり歩いていた。角を曲がる前に、こちらへ手を振る。
フランセテも大きく手を振り返した。
伝説のレシピは発明していない。
秘密の組織も見つからなかった。
料理だって、一人で作れたわけではない。
それでも、一人の客の話を聞き、初めての料理を手伝い、おいしそうに食べてもらうことができた。
フランセテは布の鞄を肩に掛け直す。
「マティルデさん」
「今度は何だい?」
「明日は何を作るんですか?」
マティルデは答えかけて、思い出した。
明日の朝は、市場から大きな注文がいくつも入る予定だった。
厨房を見る。
フランセテを見る。
なぜだか、消火器がどこにあるか確かめておいたほうがいい気がしてきた。
「明日はね……ずいぶん忙しくなるよ」
フランセテは拳を握った。
「準備はできています!」
マティルデはあきれたように笑った。
「百個のジャガイモのときも、そう言ってたね」
「あの百個には勝ちました!」
「フランセテ……」
「はい!」
「ジャガイモは敵じゃないんだよ」
彼は少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「そうですね。結局、みんながごはんを食べるのを助けてくれたんですから」
マティルデはすぐには返事をしなかった。
曲がったエプロンの襟を直してやり、扉を開ける。
「ほら、帰って休みな。料理人さん」
「また明日、マティルデさん!」
フランセテは笑顔で市場を歩いていった。
マティルデはその背中を見送った。
それから、厨房の奥へちらりと目をやった。
消火器は、いつもの場所にあった。
今のところは。




