第9話「向き合う覚悟」
翌週、涼子は人事部長に、正式な面談を申し入れた。蒼も同席を希望したが、涼子はまず自分一人で話をつけることを選んだ。
「所長として、まず私自身の責任を、はっきりさせておきたいの」
そう言う涼子に、蒼はそれ以上何も言わず、送り出した。
人事部の会議室、涼子は人事部長と、コンプライアンス担当者の前に座っていた。
「本日は、異動の件について、私の考えをお伝えしに参りました」
涼子は、深く息を吸ってから、続けた。
「まず、神谷とのことは、事実です。個人的な関係にあります。隠すつもりも、否定するつもりもありません」
会議室に、緊張が走った。人事部長は、眉を寄せながら、涼子の言葉を受け止めた。
「早坂所長、それは、正式にお認めになる、ということですか」
「はい」
涼子は、まっすぐに人事部長を見つめた。
「ただし、はっきりさせておきたいことがあります。私は、所長としての立場を利用して、神谷に特別な評価を与えたことは一度もありません。彼の評価は、彼自身の実績によるものです。それは、これまでの人事評価記録を見ていただければ、明らかだと思います」
涼子は、事前に準備していた資料を差し出した。神谷の評価履歴、担当エリアの実績データ、そして涼子自身がこれまで下してきた人事判断の記録。すべてが、公平性を裏付けるものだった。
「私たちの関係が始まったのは、あくまでプライベートな時間です。業務上の評価に、私情を挟んだことは、一度もありません」
コンプライアンス担当者が、資料に目を通しながら、静かに頷いた。
「……確かに、データ上は、不自然な優遇の跡は見受けられませんね」
「もちろん、上司と部下という立場上、周囲に誤解を与えかねないリスクがあることは、重々承知しています。だからこそ、ご提案があります」
涼子は、事前に考えていた案を切り出した。
「私の方から、営業所内での神谷の直属の評価権限を、副所長に移譲します。神谷の人事評価、査定については、今後、私が直接関わらない体制を作ります。それによって、公平性は担保できると考えています」
人事部長は、しばらく考え込んだ後、涼子に尋ねた。
「異動という選択肢は、考えられなかったのですか。その方が、社内的には、もっとも簡単に解決できる問題だと思いますが」
「考えました」
涼子は、正直に答えた。
「ですが、私はもう、逃げたくないんです」
涼子の声には、これまでにない強さが宿っていた。
「異動という形で問題を回避すれば、確かに表面上は解決するかもしれません。でも、それは、私たちの関係を『隠すべき恥ずかしいこと』として扱うことになる。私は、そうは思っていません」
会議室に、しばらく沈黙が流れた。人事部長は、涼子の顔を、じっと見つめていた。
「早坂所長、あなたは、これまで誰よりも堅実で、リスクを避けてきた方だと、私は認識していました。それが、今回は、随分と踏み込んだ判断をされますね」
「はい」
涼子は、静かに、しかし確かな声で答えた。
「これまでの私は、リスクを避けることで、自分の価値を証明してきました。でも、今回だけは、リスクを取ってでも、大切にしたいものがあります」
その言葉に、迷いはなかった。
***
面談の結果は、その週のうちに正式に伝えられた。
異動という形の処分は見送られ、涼子が提案した「評価権限の移譲」という形で、社内の体制が整えられることになった。ただし、コンプライアンス上、今後の状況を半年間、人事部が定期的にモニタリングするという条件つきだった。
「所長、本当に、大丈夫だったんですか」
面談の結果を聞いた蒼は、安堵と申し訳なさの入り混じった表情を浮かべていた。
「大丈夫。ちゃんと、筋道を立てて話したから」
涼子は、少し疲れた様子だったが、その表情には、これまでにない晴れやかさがあった。
「所長、ありがとうございます」
蒼は、深く頭を下げた。
「頭を下げるのは、なし」
涼子は、蒼の肩に、そっと手を置いた。
「私たちは、これから対等に向き合っていく。あなたが頭を下げる必要は、もうないの」
蒼は、顔を上げ、涼子をまっすぐに見つめた。その目には、これまでとは違う、確かな決意が浮かんでいた。
「所長。いえ、涼子さん」
初めて、蒼が涼子の名前を、敬称付きで呼んだ。
「僕は、これからも、あなたの隣にいたいです。部下としてでも、恋人としてでもなく、あなたと対等に生きていく一人の人間として」
涼子は、その言葉に、目頭が熱くなるのを感じた。
「蒼くん」
「涼子さんが、これだけの覚悟を見せてくれたんです。僕も、覚悟を決めます」
蒼は、まっすぐに続けた。
「僕は、涼子さんと、これからの人生を、一緒に歩いていきたいです」
それは、これまでの告白とは違う、確かな未来を見据えた言葉だった。涼子は、しばらく言葉を失っていたが、やがて、静かに、しかしはっきりと頷いた。
「私も、同じ気持ち」
窓の外には、二月に入ったばかりの、まだ冷たいけれど、どこか春の気配を含んだ風が吹いていた。
長く曲がりくねった道のりを経て、涼子と蒼は、ようやく、対等な二人として、同じ方向を見つめ始めていた。
(第10話へ続く)




