第10話「処方箋のない未来」
二月の半ば、涼子と蒼の関係は、営業所内で正式に「周知の事実」となっていた。人事部の提案通り、蒼の評価権限は副所長の田辺に移され、半年間のモニタリング期間が始まっていた。
最初こそ、営業所内には戸惑いの空気があった。だが、涼子が誰よりも公平に、これまで通り厳しく仕事に向き合う姿を見せ続けたことで、次第に周囲の目も落ち着いていった。
「所長、相変わらず、神谷にだけは特に厳しいですね」
坂本が、朝礼後、苦笑しながらそう言った。
「当たり前でしょう。誤解されないようにするには、それくらいがちょうどいいの」
涼子がそう返すと、坂本は笑いながら頷いた。
「まあ、それでこそ所長ですよ」
営業所の空気は、以前と変わらないようでいて、確かに変わっていた。涼子と蒼の関係を、誰もが特別視するでもなく、かといって隠すでもなく、自然なものとして受け入れ始めていた。
***
三月の初め、涼子のマンションで、二人は静かな夜を過ごしていた。
「振り返ると、あっという間だったわね」
涼子は、ワイングラスを傾けながら、ぽつりと呟いた。
「忘年会の夜から、まだ三ヶ月も経ってないなんて、信じられない」
「僕にとっては、長かったですよ」
蒼は、苦笑しながら言った。
「所長に何度、突き放されたか」
「うるさいわね」
涼子は、蒼の肩を軽く叩いた。二人の間に、穏やかな笑いが広がる。
「涼子さん」
蒼が、改まった声で呼んだ。
「はい」
「これからも、よろしくお願いします。上司としても、恋人としても」
涼子は、その言葉に、静かに微笑んだ。
「こちらこそ。これから先も、色々大変なことはあると思うけど」
「それでも、一緒に乗り越えていきましょう」
蒼が差し出した手を、涼子は迷わず握った。窓の外には、春の訪れを予感させる、柔らかな夜風が吹いていた。
***
四月、新年度が始まった。涼子の営業所には、新入社員が二名配属された。慌ただしい新年度のスタートの中、涼子は所長として、これまで通り忙しい日々を送っていた。
ある日の午後、涼子のデスクに、一本の内線が入った。
「早坂所長、本社の営業企画部から、来月の全国所長会議の件でご連絡です」
「はい」
「今年から、関西エリアの統括所長も交代されるそうで。新しく着任される方が、早坂所長の以前の上司だった方だと伺っています」
涼子は、一瞬、手が止まった。
「……どなたですか」
「桐谷さん、とおっしゃる方だそうです」
その名前を聞いた瞬間、涼子の中に、忘れかけていた記憶が、鮮やかに蘇った。
桐谷隆一。涼子が新人MRだった頃、右も左もわからない涼子に、仕事のいろはを教えてくれた、憧れの先輩だった。涼子が今のように、堅実に、まっすぐに仕事と向き合う姿勢を身につけられたのは、間違いなく、桐谷の存在があったからだった。
そして同時に、涼子が誰にも言えずにいた、若い頃のほろ苦い想いの記憶でもあった。
「……そうですか。ありがとうございます」
涼子は、静かに内線を切った。デスクの向こうでは、蒼が、いつも通り資料をまとめている姿が見える。
涼子の心の中に、これまで感じたことのない、複雑な感情が広がっていった。
――桐谷さんが、戻ってくる。
それは、涼子にとって、決して悪い知らせではないはずだった。だが、なぜか胸の奥に、小さなざわめきが生まれていた。
***
その頃、蒼もまた、思わぬ出来事に直面していた。
担当エリアの中核病院である、中央総合病院。そこに新しく着任した若手医師との顔合わせで、蒼は初めて、彼女と対面していた。
「はじめまして、内科の白石です」
白石美咲、三十歳。大学病院からの出向で、優秀さで知られる女性医師だった。切れ長の目に、涼子とはまた違う種類の、隙のない美しさを纏っている。
「よろしくお願いします、MRの神谷です」
「神谷さん、前任の方から、優秀な担当者だと伺ってます。期待していますね」
白石の視線には、単なる業務上の挨拶以上の、何かが滲んでいるように、蒼には感じられた。
「……頑張ります」
蒼は、そう答えながらも、白石の視線に、かすかな戸惑いを覚えていた。
その日の夜、蒼は涼子に、新しく担当することになった医師について、何気なく報告した。
「中央総合病院に、新しく若い女性の先生が来たんです。優秀な方みたいで」
「そう。何か気になることでも?」
涼子が尋ねると、蒼は少し考えてから、首を横に振った。
「いえ、特には。ただの新任の挨拶でした」
だが、蒼の脳裏には、白石の意味深な微笑みが、なぜか消えずに残っていた。
***
涼子は、その夜、蒼が帰った後、一人でベランダに出て、夜空を見上げていた。桐谷の名前を聞いてから、涼子の中には、これまで感じたことのない、落ち着かない気持ちが渦巻いていた。
蒼との関係は、確かなものになったはずだった。だが、過去の記憶や、新たに現れる存在は、時に、確かなはずの関係にも、小さな揺らぎを生む。
――大丈夫。私たちは、あの試練を乗り越えたんだから。
涼子は、自分にそう言い聞かせながら、夜空を見上げ続けた。
だが、この春、涼子と蒼の関係には、新たな試練が待ち受けていることを、この時の二人は、まだ知る由もなかった。
(第2章「新しい波紋」へ続く)




