第8話「選ばされる前に」
会議室での涼子の告白から数日後、事態は思わぬ方向に動き出した。
「早坂所長、本社からの正式な通達です」
人事部長から直接呼び出された涼子は、渡された書類に目を通し、息を呑んだ。そこには、営業所内での「上司と部下の私的関係」に関するコンプライアンス上の懸念が記され、対応策として、神谷蒼の他支店への異動が検討されている旨が記されていた。
「これは……」
「あくまで検討段階です。ですが、噂が本社の耳にまで届いている以上、何らかの対応は避けられません。異動が難しければ、所長ご自身の異動も、選択肢として挙がっています」
人事部長の言葉は、事務的だったが、涼子にとっては、これ以上ないほど重いものだった。
自分が異動すれば、これまで築き上げてきた営業所での実績も、部下たちとの信頼関係も、一からやり直しになる。だが、蒼が異動すれば、蒼はこれまで担当してきた病院や医師との関係を、すべて手放さなければならない。しかも、異動の理由が「上司との関係」だと社内に知れ渡れば、蒼のキャリアには、消えない傷がつく。
「……返答までに、どれくらいの猶予がありますか」
「二週間です。それまでに、どちらかの異動について、方向性を固めていただきたい」
涼子は、重い足取りで会議室を後にした。
***
その夜、涼子は蒼を呼び出した。いつもの公園ではなく、今度は涼子の部屋だった。人目を気にする必要は、もはやなかった。
「異動の話、聞いた?」
涼子が切り出すと、蒼は静かに頷いた。
「今日、坂本さんから聞きました。所長か、僕か、どちらかが異動になるって」
「私が、異動を受ける」
涼子は、すでに心を決めていた。
「あなたのキャリアを、これ以上壊すわけにはいかない。私は所長という立場だから、異動しても、まだやり直せる。でも、あなたはこれからのMR人生が長い。今、変な傷をつけるわけにはいかない」
「駄目です」
蒼は、涼子の言葉を、はっきりと遮った。
「所長がこれまで積み上げてきたものを、僕のせいで手放させるなんて、絶対に嫌です」
「蒼くん」
「僕が異動します。所長は、ここに残ってください」
二人は、互いを想うあまり、互いのために犠牲になろうとしていた。その優しさが、かえって二人の間に、新たな緊張を生んでいた。
「どうして、そうやって、自分を犠牲にしようとするの」
涼子の声が、思わず大きくなった。
「あなたが異動して、離れ離れになるなら、私は一体、何のためにこの関係を続けてきたの? 私は、あなたを守りたくて、この関係を選んだのに」
その言葉に、蒼もまた、感情を抑えられなくなった。
「僕だって同じです! 所長を守りたいから、僕が身を引こうとしてるんです。それなのに、所長がすべてを背負おうとするから――」
蒼の声も、次第に大きくなっていった。二人とも、相手を想うがゆえに、平行線をたどっていた。
沈黙が落ちた。互いに、荒い息を整えながら、しばらく見つめ合う。
「……ごめんなさい」
先に口を開いたのは、涼子だった。
「大きな声、出してしまって」
「いえ、僕の方こそ」
二人は、少し落ち着きを取り戻した。涼子は、ソファに深く腰掛けながら、静かに息を吐いた。
「私たち、どちらかが犠牲になることばかり考えてる。それじゃ、駄目なのかもしれない」
「……どういうことですか」
「異動でどちらかが職場を離れる、っていう選択肢以外にも、方法はあるはずなの。私たちは、逃げることばかり考えて、ちゃんと会社と向き合うことを、後回しにしてたのかもしれない」
涼子の言葉に、蒼は少し考え込むような表情を見せた。
「所長、それって……」
「私、人事に、きちんと話をしようと思う。異動じゃなくて、私たちの関係を、正式に認めてもらう方向で」
その言葉に、蒼は驚いたように涼子を見た。
「それは……簡単なことじゃないですよね」
「簡単じゃない。もしかしたら、私の立場が危うくなるかもしれない。でも、逃げることに、もう疲れた」
涼子は、まっすぐに蒼を見つめた。
「私、あなたのことを、隠さなきゃいけない関係のままにしておきたくない。ちゃんと、正々堂々と向き合いたい」
その言葉には、これまでの涼子にはなかった、強い覚悟が込められていた。
「所長……」
蒼の目に、驚きと、それ以上の感動が浮かんでいた。
「一緒に、会社と向き合ってくれる?」
涼子の問いかけに、蒼は迷わず頷いた。
「もちろんです。所長が、逃げないと決めたなら、僕も逃げません」
二人の間に、これまでとは違う、確かな連帯感が生まれていた。もう、どちらかが犠牲になる関係ではない。二人で、この状況に立ち向かう関係へと、変わりつつあった。
「ただ、正直に言うと、怖い」
涼子は、小さく本音を漏らした。
「今の立場を失うかもしれない。これまで積み上げてきたものが、全部崩れるかもしれない」
「怖いのは、僕も同じです」
蒼は、涼子の手をそっと握った。
「でも、所長が一人で怖い思いをするより、二人で怖い思いをする方が、僕はずっといいと思います」
その言葉に、涼子の目に、涙が滲んだ。
「……あなたって、本当に、ずるい」
「所長にだけ、ずるいです」
蒼の軽口に、涼子は思わず笑ってしまった。張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
窓の外では、一月の冷たい月が、静かに二人を照らしていた。二週間後に迫った期限に向けて、二人はこれから、共に会社と向き合っていくことになる。それがどんな結果を招くのか、まだ誰にもわからない。
だが、少なくとも、二人はもう、一人で戦おうとはしていなかった。
(第9話へ続く)




