第7話「距離を置くという選択」
年明け、涼子が最も恐れていたことが、現実になり始めていた。
一月の第二週、涼子は本社の人事担当者から、内密に呼び出しを受けた。
「早坂所長、単刀直入にお伺いします。営業所内で、所長と部下の間に、私的な関係があるという噂が耳に入っているのですが」
人事部の会議室、涼子は静かに、しかし内心では激しく動揺しながら、その言葉を受け止めた。
「……どこから、その話を」
「情報源は申し上げられません。ただ、複数の社員から、似たような話が上がってきています。事実確認をさせていただきたく」
涼子は、一瞬、否定するべきか迷った。だが、ここで嘘をつくことに、涼子は強い抵抗を感じた。
とはいえ、正直に認めることが、蒼のキャリアにどれほどの影響を及ぼすかもわからない。
「……プライベートなことなので、コメントは控えさせてください」
涼子は、精一杯の言葉で、それだけを答えた。
人事担当者は、それ以上深追いはしなかったが、最後にこう釘を刺した。
「所長のお立場上、部下との関係が業務評価に影響を及ぼすようなことがあれば、コンプライアンス上の問題になります。念のため、お伝えしておきます」
涼子は、重い足取りで会議室を後にした。
その日の帰り道、涼子は蒼に連絡を取った。いつもの公園で、二人は向き合った。
「人事から呼び出された」
涼子は、淡々とした口調で、事情を説明した。話を聞くうちに、蒼の表情が、みるみる強張っていった。
「……僕のせいですね」
「あなたのせいじゃない」
「いえ、僕が、あの夜、所長を送っていったりしなければ」
「それを言うなら、私が誘ったようなものよ」
涼子は、首を横に振った。
だが、蒼の表情は晴れなかった。
「所長、これ以上、僕のことで、所長のキャリアに傷をつけたくないです」
その言葉に、涼子は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
だが同時に、蒼の言葉の中に、涼子がずっと恐れていた「別れ」の予感を感じ取ってしまった。
「蒼くん、何が言いたいの」
「……しばらく、距離を置きませんか」
蒼の声は、絞り出すようだった。
「所長のキャリアも、僕の将来も、二人でこのまま突き進んだら、どちらも危うくなる気がします。所長には、これまで積み上げてきたものがある。それを、僕のせいで壊してほしくないんです」
涼子は、何も言えなかった。
蒼の言葉は、涼子自身が何度も自分に言い聞かせてきたことと、同じだった。
それなのに、いざ蒼の口からその言葉を聞くと、涼子の心は、激しく抵抗した。
「……わかった」
だが、涼子の口からは、そんな言葉が出ていた。
「しばらく、距離を置きましょう。仕事に集中する期間が、必要かもしれない」
蒼は、涼子のその言葉に、痛みに耐えるような表情で頷いた。
「……はい」
二人は、それ以上何も言わず、それぞれの帰路についた。
冬の夜空の下、涼子は一人、重い足取りで家路をたどった。
それから二週間、涼子と蒼は、業務上必要な会話以外、一切言葉を交わさなくなった。
オフィスでは、以前よりもさらに事務的な態度を貫き、二人きりになる状況も、意識的に避けるようになった。
涼子は、仕事に没頭することで、蒼への想いを紛らわせようとした。
だが、深夜、一人でマンションに帰ると、蒼のいない生活の味気なさに、涼子は改めて気づかされた。
ある夜、涼子は自宅で、一人ワインを開けていた。スマートフォンには、蒼からのメッセージは、一件も来ていない。涼子自身も、送るのを我慢していた。
「……バカみたい」
涼子は、誰もいない部屋で、そう呟いた。
これまで、仕事だけを頼りに生きてきた。
それなのに、たった数ヶ月で、涼子の心の中心には、蒼の存在が大きく根を張っていた。
距離を置くと決めたはずなのに、涼子の心は、蒼を求め続けていた。
その頃、蒼もまた、苦しい日々を送っていた。
営業成績は落ちていないものの、以前のような覇気が失われていることに、周囲も気づき始めていた。
「神谷、最近元気ないな」
坂本が、給湯室で偶然一緒になったとき、そう声をかけてきた。
「そんなことないですよ」
「無理するなよ。所長との件、俺も薄々知ってる。ただ、こういうのは、逃げても、我慢しても、結局は自分の気持ちに嘘をつくだけだぞ」
坂本の言葉は、蒼の胸に重く響いた。
「坂本さんは、俺たちのこと、どう思ってるんですか」
「正直、社内恋愛は面倒なことが多い。特に上司と部下となると、リスクも大きい。だがな、神谷」
坂本は、少し声を落として続けた。
「所長がお前を選んだこと自体が、あの人にとっては、大きな決断だったんじゃないか。あの人が、これまでどれだけリスクを避けて、堅実に生きてきたか、俺は長い付き合いだから知ってる。その所長が、お前のことだけは、簡単に諦めきれずにいるように見えるけどな」
坂本の言葉に、蒼は何も返せなかった。
距離を置き始めて三週間目、涼子は営業所内の会議で、久しぶりに蒼と直接目が合った。
以前のような温かさではなく、どこか痛みを含んだ視線だった。
会議が終わった後、涼子は思わず、蒼を呼び止めていた。
「神谷くん、少しだけ、いい?」
会議室に残った二人。しばらくの沈黙の後、涼子は静かに口を開いた。
「距離を置くって決めたけど……正直、辛い。あなたがいない毎日が、思ってた以上に、辛かった」
涼子の本音だった。
もう、隠しきれなかった。
蒼は、驚いたように涼子を見つめた後、静かに目を伏せた。
「僕もです。所長のいない毎日が、こんなに味気ないなんて、思いませんでした」
二人の間に、これまでとは違う、正直な空気が流れ始めていた。
だが、涼子の中には、まだ拭いきれない不安が残っていた。
――この気持ちを認めたとして、私たちは、この先、どうなっていくのだろう。
会議室の窓の外、一月の冷たい空が、静かに広がっていた。
(第8話へ続く)




