第6話「気づかれた視線」
公園での告白から数日、涼子と神谷の間には、これまでとは違う空気が流れていた。
表向きは変わらず、上司と部下。
だが、二人にしかわからない、微妙な距離の縮まりがあった。
涼子は、まだ蒼に対する答えを出せずにいた。
だが、以前のように「なかったことにする」と突き放すこともしなくなっていた。
仕事帰り、二人でこっそり食事をすることも増えていた。
その変化に、最初に気づいたのは、同じ営業所のベテランMR、坂本だった。
「所長、最近、神谷とよく一緒にいますね」
朝礼後、坂本がさりげなく涼子に声をかけてきた。
坂本は入社十五年目のベテランで、涼子とも長い付き合いがある。
物腰は柔らかいが、観察力は鋭い。
「仕事の相談が多いだけよ。B病院の件で連携が必要だから」
涼子は、努めて平静な声で答えた。だが、坂本の視線は、どこか探るようだった。
「そうですか。まあ、余計なお世話でしたね」
坂本はそう言って、それ以上追及してこなかった。
だが、涼子の胸には、小さな不安が残った。
その不安は、思わぬ形で現実になった。
金曜日の夜、涼子と蒼は、駅から少し離れた小さな居酒屋で食事をしていた。
人目を避けるため、あえて営業所のメンバーが来ないような店を選んでいたはずだった。
「所長、こういうお店、よく知ってますね」
「昔、よく一人で来てたの。誰にも会わないから」
その油断が、命取りになった。
「あれ、所長じゃないですか」
聞き覚えのある声に、涼子は振り返った。そこには、他部署の同期入社の女性社員、田村がいた。
田村は営業事務を担当していて、社内の噂話に精通していることで有名だった。
「田村さん……」
涼子の声が、わずかに強張った。
田村の視線は、涼子と蒼の間を、素早く行き来していた。
「二人で食事なんて、珍しいですね。何かの打ち合わせですか?」
「そうそう、来期の戦略について、色々相談してて」
蒼が、すかさず自然な口調でフォローを入れた。
田村は、それ以上深くは追及せず、軽く会釈をして自分のテーブルへと戻っていった。
だが、涼子は、田村の去り際の視線に、隠しきれない好奇心が滲んでいたことに気づいていた。
「……まずいかもしれない」
涼子は、小さく呟いた。
「大丈夫ですよ。ただの食事です」
蒼は落ち着いていたが、涼子の不安は消えなかった。
田村のような噂好きの社員に見られたということは、月曜日には、社内に何らかの形で話が広がっている可能性がある。
案の定、週明けの月曜日、涼子は坂本から改めて声をかけられた。
「所長、少しいいですか」
会議室に呼ばれ、涼子は身構えた。坂本の表情は、いつもより真剣だった。
「単刀直入に聞きます。神谷と、何かあるんですか」
涼子は、一瞬言葉に詰まった。
だが、ここで下手にごまかせば、余計に怪しまれる。涼子は、深呼吸をしてから、静かに答えた。
「坂本さん、心配してくれてるのはわかる。でも、今は、答えられない」
その返答自体が、肯定に近いことを、涼子も理解していた。
坂本は、しばらく涼子の顔を見つめてから、深いため息をついた。
「所長、俺は所長のことも神谷のことも、悪く言うつもりはないです。ただ、社内恋愛、しかも上司と部下となると、色々と厄介なことになりかねません。パワハラだ、依怙贔屓だって言われるリスクもある。神谷の評価にも、傷がつくかもしれない」
坂本の言葉は、正論だった。涼子自身、何度も自分に言い聞かせてきたことだった。
「わかってる。だから、慎重にしてる」
「所長らしくないですね。いつもの所長なら、リスクがあることには、絶対に手を出さない人だ」
坂本の言葉が、涼子の胸に刺さった。確かに、これまでの涼子なら、こんな不確実でリスクの高い関係に、足を踏み入れることはなかっただろう。
だが、蒼との関係だけは、理屈で割り切れなかった。
「坂本さん、もう少しだけ、時間をください。ちゃんと、けじめはつけるから」
涼子の真剣な表情に、坂本はそれ以上何も言わず、小さく頷いた。
「わかりました。俺は、何も見なかったことにします。ただし、噂が広がりすぎたら、所長も神谷も、無事では済まないですよ」
その警告は、涼子の心に重くのしかかった。
その日の夜、涼子は蒼に、坂本とのやり取りを伝えた。
二人は、涼子のマンションの近くの公園で、静かに向き合っていた。
「坂本さんに、気づかれてしまった」
「……そうですか」
蒼の表情が、少し曇った。
「所長、僕のことで、色々背負わせてしまって、すみません」
「あなたが謝ることじゃない」
涼子は、首を横に振った。
「私が、この関係を選んでいるの。誰かに強制されているわけじゃない」
その言葉に、蒼は少し驚いたように涼子を見た。
涼子自身、その言葉が、はっきりとした自分の意志の表明であることに、遅れて気づいていた。
「所長」
「まだ、正式な返事はできない。でも、あなたとの関係を、ここでやめる気は、私にはない」
涼子の声は、静かだが、確かな強さを持っていた。蒼の目に、安堵とも喜びともつかない色が浮かんだ。
「ただ、これからは、もっと慎重にならないと。噂が広がれば、あなたの評価にも影響する。それだけは、避けたい」
「所長は、いつも僕のことを気にかけてくれますね」
蒼は、静かに微笑んだ。
「所長のそういうところが、僕は好きなんです」
涼子は、その言葉に、頬が熱くなるのを感じた。
師走の冷たい風の中、二人の間だけには、確かな温もりが灯っていた。
だが、涼子の心の中には、坂本の警告が、小さな棘のように残り続けていた。
――このまま、二人の関係を、隠し通せるのだろうか。
答えの出ない不安を抱えながら、涼子は蒼の隣で、静かに夜空を見上げた。
(第7話へ続く)




