第5話「蒼の本音」
バーで涼子の過去を聞いた夜から、神谷蒼の中で、何かが固まりつつあった。
「もう少しだけ、時間をちょうだい」
そう言った涼子の声を、蒼は何度も思い返していた。拒絶ではない。かといって、簡単に踏み込んでいい距離でもない。焦れったさを感じながらも、蒼は自分なりに、涼子との関係にどう向き合うべきか、考え続けていた。
十二月も後半に差し掛かったある日、蒼は営業回りの合間に、恩師である大学時代の指導教官のもとを訪れていた。製薬会社を志望する学生の相談役も兼ねている教授で、蒼にとっては数少ない、心を許せる相手だった。
「神谷、なんだか顔つきが変わったな」
雑談の中で、教授にそう言われ、蒼は苦笑した。
「そうですか?」
「ああ。学生の頃から知ってるが、お前、昔から自分の気持ちに蓋をするタイプだっただろう。今日は、なんというか、腹を括った顔をしてる」
図星だった。蒼は、コーヒーを一口飲んでから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「実は、職場に、気になる人がいるんです」
「ほう」
「立場的に、簡単な相手じゃないんですけどね」
教授は、それ以上詳しく聞こうとはしなかった。ただ、静かにこう言った。
「神谷、お前は昔から、本気になると誰よりも一途な奴だった。それは長所だ。ただ、本気になったなら、中途半端に隠すな。相手にも、自分にも、失礼だぞ」
その言葉が、蒼の中で強く響いた。
***
蒼が涼子に惹かれ始めたのは、実は大阪の出張よりも、ずっと前のことだった。
入社三年目、蒼が営業成績で伸び悩んでいた時期があった。当時、涼子はまだ所長になったばかりで、部下の育成に苦心していた。ある日、蒼が担当していた病院で大きなクレームが発生し、蒼は自信を失いかけていた。
そのとき、涼子は蒼を叱るのではなく、一緒に病院へ足を運び、先方の医師と直接話をつけてくれた。帰り道、涼子はこう言った。
「失敗は誰にでもある。大事なのは、そこからどう立て直すか。あなたはまだ若い。焦らなくていい」
その言葉に、蒼はどれだけ救われたかわからない。以来、蒼にとって涼子は、単なる上司ではなく、自分の仕事人生の指針のような存在になっていた。
もちろん、最初は尊敬の念だけだった。だが、涼子が誰にも見せない疲れた表情をふと見せる瞬間や、部下のために黙って頭を下げる姿を見るたびに、蒼の中の感情は、少しずつ形を変えていった。
尊敬が、いつしか、恋慕に変わっていた。だが、上司と部下という立場、そして年齢差を考えると、蒼はその感情を、ずっと胸の内に押し込めてきた。
忘年会の夜、涼子が思いがけず素の表情を見せたとき、蒼の中で、長く抑えてきた想いが一気に溢れ出したのだった。
***
その週末、蒼は涼子に連絡を取った。
『今度の日曜日、少しだけ時間もらえませんか。話したいことがあります』
しばらくして、涼子から返信が来た。
『いいわよ。どこにする?』
二人が待ち合わせたのは、涼子のマンションから少し離れた、静かな公園だった。冬の澄んだ空気の中、二人は並んでベンチに腰掛けた。
「話って、何?」
涼子が尋ねると、蒼は少し緊張した面持ちで、まっすぐに涼子を見た。
「所長のこと、本気で好きです」
前置きも回りくどい言い方もない、まっすぐな告白だった。涼子は、その率直さに、思わず息を呑んだ。
「立場のこととか、年齢のこととか、考えないわけじゃないです。でも、それを理由に、この気持ちに嘘をつくのは、もう嫌なんです」
蒼は、続けた。
「所長が、僕を部下としてしか見られないなら、それでも構いません。でも、僕は諦めるつもりはないです。ちゃんと、一人の女性として、所長のことを大事にしたいと思ってます」
涼子は、しばらく言葉を失っていた。心臓が、うるさいほど早く打っている。
「……神谷くん」
「蒼で、いいです」
その言葉に、涼子は思わず小さく笑ってしまった。緊張した空気が、少しだけ和らぐ。
「蒼くん、あなたね」
「はい」
「私、上司としても、女としても、あなたにこんなに真剣に想われる資格、あるのかしら」
涼子の声には、不安が滲んでいた。蒼は、その不安を包み込むように、静かに、しかしはっきりと答えた。
「資格とか、そういう問題じゃないです。僕が、所長を好きだって、それだけです」
冬の風が、二人の間を通り抜けていく。涼子は、膝の上で握りしめていた手を、ゆっくりと開いた。
「……少し、考えさせて」
「はい。急かすつもりはないです」
蒼は、それ以上何も求めなかった。ただ、涼子の隣に座り続けた。二人の間に流れる沈黙は、以前のような気まずいものではなく、どこか穏やかで、温かいものだった。
夕暮れの中、涼子はふと、隣に座る蒼の手に、自分の手を重ねた。小さな、けれど確かな一歩だった。
蒼は驚いたように涼子を見たが、何も言わず、涼子の手をそっと握り返した。
「まだ、答えは出せない。でも」
涼子は、夕焼けに染まる空を見上げながら、静かに続けた。
「あなたの気持ちを、無視することも、もうできない」
それは、はっきりとした「イエス」ではなかった。だが、涼子の心が、確実に動き始めている証だった。
蒼は、そんな涼子の横顔を見つめながら、静かに微笑んだ。
――焦らなくていい。この人が、自分の気持ちに正直になれるまで、待とう。
二人を包む冬の空気は冷たかったが、重ねられた手のひらだけは、じんわりと温かかった。




