表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処方箋のない恋  作者: 優涼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/10

第4話「所長になった理由」


 大阪から戻って一週間が経った。


涼子と神谷の間には、以前とは違う空気が流れていたが、二人とも、それを表に出すことはなかった。


オフィスでは上司と部下、それ以上でもそれ以下でもない態度を保っている。


だが、涼子は気づいていた。


神谷の視線が、以前よりも長く自分に向けられていることに。


金曜日の夜、涼子は珍しく一人で飲みに出かけた。


行きつけの、支店から少し離れたところにあるバーだった。ここなら、部下や取引先に会う心配もない。


カウンター席でウイスキーを傾けていると、スマートフォンが鳴った。


神谷からだった。


『お疲れ様です。もしよかったら、少しだけお話しできませんか』


涼子は少し迷ってから、店の場所を送った。断る理由が、思いつかなかった。


三十分後、神谷が店に現れた。


カウンターの隣に座り、同じウイスキーを注文する。


「呼び出してごめんなさい、って言うべきかしら」


「いえ、僕が誘ったんです」


しばらく、たわいもない会話が続いた。


仕事の話、業界の噂話。


だが、アルコールが少し回ってきた頃、神谷がふと尋ねた。


「所長は、どうしてこの仕事を選んだんですか。所長になるまで、大変だったんじゃないですか」


普段なら、涼子はこういう質問をはぐらかす。だが、今夜は少しだけ、話してみたい気分だった。


「私、最初は営業所で唯一の女性MRだったの」


涼子はグラスを見つめながら、静かに話し始めた。


「今から十二年前。当時はまだ、女性MRなんて珍しかった時代。先生方の中には、女には任せられないってはっきり言う人もいたし、同僚の男性からも、腰掛けだと思われてた」


「……それは、大変でしたね」


「大変だった。でも、それだけなら、まだよかったの」


涼子は一度、言葉を切った。グラスの中の氷が、からんと音を立てる。


「当時、付き合っていた人がいたの。同じ会社の、営業所の先輩だった。彼は、私が仕事に本気になるほど、機嫌が悪くなる人だった」


「……」


「『お前が頑張りすぎると、俺の立場がない』ってよく言われた。私が学会で表彰されたときも、喜んでくれるどころか、不機嫌になった。それでも私、彼と別れられなかったの。仕事以外に、自分を評価してくれる人がいないような気がして」


神谷は黙って、涼子の話に耳を傾けていた。


「結局、彼は他の女性と浮気して、それで終わったんだけどね。バカみたいでしょう。仕事で結果を出しても、恋愛では自分を安売りしてた」


「バカみたいだなんて、思いません」


神谷の声は、静かだがはっきりとしていた。


「所長は、ちゃんと頑張ってきただけです。相手が、その頑張りを受け止められなかっただけで」


涼子は、その言葉に、思わず神谷の顔を見た。まっすぐな目が、涼子を見つめていた。


「その後、私は決めたの。もう誰かに評価してもらうために頑張るのはやめようって。自分自身のために、結果を出そうって。そこから、がむしゃらに働いた。プライベートなんて、ほとんど捨てた」


「それで、所長になったんですね」


「そう。誰よりも数字を出して、誰よりも早く出社して、誰よりも遅くまで残って。気づいたら、三十五歳で、独身で、恋人もいない女所長の出来上がり」


涼子は自嘲気味に笑った。だが、その笑いには、隠しきれない寂しさが滲んでいた。


「所長は、寂しくないんですか」


神谷の問いに、涼子は一瞬、答えに詰まった。


「……寂しいわよ。もちろん」


正直に答えていた。

誰にも見せたことのない本音だった。


「でも、その寂しさに慣れるしかなかった。仕事で結果を出すことでしか、自分の価値を証明できないと思ってたから」


「そんなことないです」


神谷は、真剣な表情で言った。


「所長は、仕事の実績なんてなくても、価値のある人です。少なくとも、僕はそう思ってます」


涼子の胸が、大きく揺れた。


誰かにそう言ってもらえたのは、久しぶりだった。いや、もしかしたら、初めてかもしれない。


「……あなた、そういうことを、簡単に言いすぎ」


涼子は、動揺を隠すように、わざと軽い口調で言った。


「簡単に言ってるわけじゃないです。本気です」


神谷の目は、真剣そのものだった。涼子は、その視線から逃げるように、グラスに残ったウイスキーを飲み干した。


「……今日は、話しすぎたわ。忘れて」


「忘れません」


きっぱりとした返事に、涼子は苦笑した。


この男は、いつもこうだ。


涼子が逃げようとする言葉を、まっすぐに受け止めてくる。


「所長」


神谷が、改まった声で呼んだ。


「僕は、大阪でのことも、あの夜のことも、後悔してません。むしろ、所長のことをもっと知りたいと思ってます」


涼子は、しばらく黙っていた。


心の中では、様々な思いがせめぎ合っていた。


上司としての分別。

会社での立場。

そして、自分自身の本当の気持ち。


「……もう少しだけ、時間をちょうだい」

やっとの思いで、涼子はそう答えた。逃げでも拒絶でもない、精一杯の本音だった。


「わかりました。待ちます」


神谷は、それ以上何も言わず、静かに頷いた。


バーを出た後、二人は駅まで並んで歩いた。


会話はなかったが、以前のようなぎこちない沈黙ではなかった。


師走の冷たい風の中、涼子は隣を歩く神谷の存在を、素直に心地よく感じている自分に気づいていた。


――この気持ちに、名前をつけるのは、まだ怖い。


だが、その怖さの中に、確かな温かさが混じり始めていることを、涼子はもう否定できなくなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ