第4話「所長になった理由」
大阪から戻って一週間が経った。
涼子と神谷の間には、以前とは違う空気が流れていたが、二人とも、それを表に出すことはなかった。
オフィスでは上司と部下、それ以上でもそれ以下でもない態度を保っている。
だが、涼子は気づいていた。
神谷の視線が、以前よりも長く自分に向けられていることに。
金曜日の夜、涼子は珍しく一人で飲みに出かけた。
行きつけの、支店から少し離れたところにあるバーだった。ここなら、部下や取引先に会う心配もない。
カウンター席でウイスキーを傾けていると、スマートフォンが鳴った。
神谷からだった。
『お疲れ様です。もしよかったら、少しだけお話しできませんか』
涼子は少し迷ってから、店の場所を送った。断る理由が、思いつかなかった。
三十分後、神谷が店に現れた。
カウンターの隣に座り、同じウイスキーを注文する。
「呼び出してごめんなさい、って言うべきかしら」
「いえ、僕が誘ったんです」
しばらく、たわいもない会話が続いた。
仕事の話、業界の噂話。
だが、アルコールが少し回ってきた頃、神谷がふと尋ねた。
「所長は、どうしてこの仕事を選んだんですか。所長になるまで、大変だったんじゃないですか」
普段なら、涼子はこういう質問をはぐらかす。だが、今夜は少しだけ、話してみたい気分だった。
「私、最初は営業所で唯一の女性MRだったの」
涼子はグラスを見つめながら、静かに話し始めた。
「今から十二年前。当時はまだ、女性MRなんて珍しかった時代。先生方の中には、女には任せられないってはっきり言う人もいたし、同僚の男性からも、腰掛けだと思われてた」
「……それは、大変でしたね」
「大変だった。でも、それだけなら、まだよかったの」
涼子は一度、言葉を切った。グラスの中の氷が、からんと音を立てる。
「当時、付き合っていた人がいたの。同じ会社の、営業所の先輩だった。彼は、私が仕事に本気になるほど、機嫌が悪くなる人だった」
「……」
「『お前が頑張りすぎると、俺の立場がない』ってよく言われた。私が学会で表彰されたときも、喜んでくれるどころか、不機嫌になった。それでも私、彼と別れられなかったの。仕事以外に、自分を評価してくれる人がいないような気がして」
神谷は黙って、涼子の話に耳を傾けていた。
「結局、彼は他の女性と浮気して、それで終わったんだけどね。バカみたいでしょう。仕事で結果を出しても、恋愛では自分を安売りしてた」
「バカみたいだなんて、思いません」
神谷の声は、静かだがはっきりとしていた。
「所長は、ちゃんと頑張ってきただけです。相手が、その頑張りを受け止められなかっただけで」
涼子は、その言葉に、思わず神谷の顔を見た。まっすぐな目が、涼子を見つめていた。
「その後、私は決めたの。もう誰かに評価してもらうために頑張るのはやめようって。自分自身のために、結果を出そうって。そこから、がむしゃらに働いた。プライベートなんて、ほとんど捨てた」
「それで、所長になったんですね」
「そう。誰よりも数字を出して、誰よりも早く出社して、誰よりも遅くまで残って。気づいたら、三十五歳で、独身で、恋人もいない女所長の出来上がり」
涼子は自嘲気味に笑った。だが、その笑いには、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
「所長は、寂しくないんですか」
神谷の問いに、涼子は一瞬、答えに詰まった。
「……寂しいわよ。もちろん」
正直に答えていた。
誰にも見せたことのない本音だった。
「でも、その寂しさに慣れるしかなかった。仕事で結果を出すことでしか、自分の価値を証明できないと思ってたから」
「そんなことないです」
神谷は、真剣な表情で言った。
「所長は、仕事の実績なんてなくても、価値のある人です。少なくとも、僕はそう思ってます」
涼子の胸が、大きく揺れた。
誰かにそう言ってもらえたのは、久しぶりだった。いや、もしかしたら、初めてかもしれない。
「……あなた、そういうことを、簡単に言いすぎ」
涼子は、動揺を隠すように、わざと軽い口調で言った。
「簡単に言ってるわけじゃないです。本気です」
神谷の目は、真剣そのものだった。涼子は、その視線から逃げるように、グラスに残ったウイスキーを飲み干した。
「……今日は、話しすぎたわ。忘れて」
「忘れません」
きっぱりとした返事に、涼子は苦笑した。
この男は、いつもこうだ。
涼子が逃げようとする言葉を、まっすぐに受け止めてくる。
「所長」
神谷が、改まった声で呼んだ。
「僕は、大阪でのことも、あの夜のことも、後悔してません。むしろ、所長のことをもっと知りたいと思ってます」
涼子は、しばらく黙っていた。
心の中では、様々な思いがせめぎ合っていた。
上司としての分別。
会社での立場。
そして、自分自身の本当の気持ち。
「……もう少しだけ、時間をちょうだい」
やっとの思いで、涼子はそう答えた。逃げでも拒絶でもない、精一杯の本音だった。
「わかりました。待ちます」
神谷は、それ以上何も言わず、静かに頷いた。
バーを出た後、二人は駅まで並んで歩いた。
会話はなかったが、以前のようなぎこちない沈黙ではなかった。
師走の冷たい風の中、涼子は隣を歩く神谷の存在を、素直に心地よく感じている自分に気づいていた。
――この気持ちに、名前をつけるのは、まだ怖い。
だが、その怖さの中に、確かな温かさが混じり始めていることを、涼子はもう否定できなくなっていた。




