第3話「出張先の夜」
「今週末、大阪の学会に同行してもらえる? 本社から急に頼まれたの」
水曜日の朝礼後、涼子にそう告げられたとき、神谷は一瞬、返事に詰まった。
「……僕がですか」
「担当エリアの先生方も多く参加されるし、あなたが適任だと思って。何か問題でも?」
「いえ、大丈夫です」
問題がないわけがなかった。
土曜の夜のこと以来、二人はできるだけ二人きりにならないよう、無意識のうちに距離を取ってきた。
それなのに、よりによって一泊二日の出張を、二人で行くことになるとは。
涼子自身も、この人選に迷いがなかったわけではない。
だが、神谷担当エリアの医師が学会の主要メンバーに複数含まれている以上、彼を連れて行かない理由の方が不自然だった。
仕事は仕事だ。
涼子は自分にそう言い聞かせた。
土曜日、二人は新幹線で大阪へ向かった。
車内では、学会での立ち回りや、担当医師への挨拶回りの段取りを、業務的に確認し合った。
表面上は、いつも通りの上司と部下だった。
学会は盛況で、涼子と神谷は担当エリアの医師たちへの挨拶や、新薬の情報提供に追われた。夕方には、懇親会にも顔を出し、業界関係者との名刺交換をこなす。
涼子は所長として、そつなく振る舞い続けた。
問題は、その夜だった。
本社が用意していたホテルは、部屋数の都合で、涼子と神谷、それぞれ別の部屋を予約していたはずだった。
ところが、フロントで手続きを終えた神谷が、困惑した顔で戻ってきた。
「所長、すみません。手違いがあったみたいで、僕の部屋、今日は空いてないそうです」
「え?」
「システムの都合で、明日以降しか予約できていなかったみたいで。今夜だけ、別のホテルを探すか、所長の部屋にもう一つベッドを入れてもらうか、フロントの人が言ってて……」
涼子は一瞬、頭が真っ白になった。
この街で、今夜、突然一人部屋を探すのは簡単ではない。
学会シーズンで周辺のホテルはほぼ満室だと、フロントのスタッフも申し訳なさそうに説明していた。
「……エキストラベッド、頼んで」
涼子は、他に選択肢がないことを悟り、そう答えるしかなかった。
部屋に運び込まれたエキストラベッドは、涼子のベッドから二メートルほどしか離れていなかった。
ホテルの一室に、二人きり。
しかも、二人の間には、あの夜以来、まだ言葉にされていない何かが横たわっている。
シャワーを終えた涼子がバスローブ姿で部屋に戻ると、神谷はすでにベッドの端に腰掛け、スマートフォンを見ていた。
涼子の気配に気づいて顔を上げた瞬間、その視線が一瞬、涼子の首元で止まったのを、涼子は見逃さなかった。
「先にシャワー、使っていいわよ」
「……ありがとうございます」
神谷が浴室に消えると、涼子は落ち着かない気持ちのまま、ベッドに腰掛けた。
ドライヤーの音と、シャワーの水音が、薄い壁越しに聞こえてくる。
それだけのことなのに、涼子は自分の心臓の音がやけにうるさく感じられた。
しばらくして、浴室から出てきた神谷は、Tシャツにパジャマのズボンという姿だった。
涼子は、その無防備な格好に、なぜか目のやり場に困ってしまう。
「あの、所長」
「なに」
「明日の朝、早いですし……もう休みましょうか」
「そうね」
灯りを落として、二人はそれぞれのベッドに横になった。
だが、涼子はまったく眠れなかった。すぐ隣に、神谷の呼吸の気配がある。
それだけで、意識のすべてがそちらに引っ張られていく。
「……眠れないんですか」
暗闇の中、神谷の声がした。
「あなたも?」
「はい」
小さな笑いが漏れた。奇妙な連帯感だった。
「所長」
「なに」
「あの夜のこと、僕はずっと考えてます。所長は、なかったことにしたいって言いましたけど」
涼子は、闇の中で目を開けたまま、答えられずにいた。
「無理に聞き出そうとは思ってません。ただ、僕の気持ちだけは、知っておいてほしくて」
「……神谷くん」
「所長のこと、ずっと前から、一人の女性として見てました。あの夜だけの気の迷いじゃないです」
涼子の胸の奥で、何かが大きく揺れた。何と答えればいいのか、わからなかった。
上司として、これは聞き流すべき言葉だ。だが、涼子の心は、その言葉を聞き流すことを拒んでいた。
沈黙が続いた。
やがて、涼子はゆっくりと体を起こし、ベッドの縁に座った。
「……神谷くん、こっち来て」
その声は、自分でも驚くほど掠れていた。
暗闇の中、神谷が身を起こす気配がした。
涼子のベッドの脇まで来て、静かに膝をつく。
「所長……」
「涼子でいい。今だけは」
涼子は、自分の中の理性が音を立てて崩れていくのを感じていた。
所長としての立場も、上司としての分別も、この瞬間だけは、少しだけ脇に置いておきたかった。
神谷の手が、そっと涼子の頬に触れる。
あの夜と同じ、けれど今度ははっきりと意識のある状態で、涼子はその温もりを受け入れた。
「……本当に、いいんですか」
「いいから、聞かないで」
涼子は、そう答えるので精一杯だった。
灯りを落とした部屋の中、二人の距離は、ゆっくりと、しかし確実に縮まっていった。
窓の外には、大阪の夜景が静かに広がっている。
誰にも知られることのない、二人だけの夜だった。
翌朝、涼子が目を覚ますと、隣のベッドはもぬけの殻だった。
神谷はすでに身支度を整え、荷物をまとめていた。
「おはようございます、所長」
いつもの、業務モードの声だった。
だがその目には、昨夜とは違う、確かな熱が残っている気がした。
「……おはよう」
涼子は、昨夜のことを、今度は「なかったことに」とは言わなかった。
言えなかった、というのが正しいかもしれない。
新幹線で東京に戻る車中、涼子と神谷は、いつも通りの業務会話を交わした。
だが、涼子の中で、何かが確実に変わってしまったことを、涼子自身が一番よくわかっていた。
窓の外を流れる景色を眺めながら、涼子は小さくため息をついた。
――この先、私はどうすればいいのだろう。
答えの出ない問いを抱えたまま、新幹線は東京へと向かっていく。




