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処方箋のない恋  作者: 優涼


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3/10

第3話「出張先の夜」


 「今週末、大阪の学会に同行してもらえる? 本社から急に頼まれたの」


水曜日の朝礼後、涼子にそう告げられたとき、神谷は一瞬、返事に詰まった。


「……僕がですか」


「担当エリアの先生方も多く参加されるし、あなたが適任だと思って。何か問題でも?」


「いえ、大丈夫です」


問題がないわけがなかった。


土曜の夜のこと以来、二人はできるだけ二人きりにならないよう、無意識のうちに距離を取ってきた。


それなのに、よりによって一泊二日の出張を、二人で行くことになるとは。


涼子自身も、この人選に迷いがなかったわけではない。


だが、神谷担当エリアの医師が学会の主要メンバーに複数含まれている以上、彼を連れて行かない理由の方が不自然だった。


仕事は仕事だ。


涼子は自分にそう言い聞かせた。


土曜日、二人は新幹線で大阪へ向かった。


車内では、学会での立ち回りや、担当医師への挨拶回りの段取りを、業務的に確認し合った。


表面上は、いつも通りの上司と部下だった。


学会は盛況で、涼子と神谷は担当エリアの医師たちへの挨拶や、新薬の情報提供に追われた。夕方には、懇親会にも顔を出し、業界関係者との名刺交換をこなす。


涼子は所長として、そつなく振る舞い続けた。



問題は、その夜だった。


本社が用意していたホテルは、部屋数の都合で、涼子と神谷、それぞれ別の部屋を予約していたはずだった。


ところが、フロントで手続きを終えた神谷が、困惑した顔で戻ってきた。


「所長、すみません。手違いがあったみたいで、僕の部屋、今日は空いてないそうです」


「え?」


「システムの都合で、明日以降しか予約できていなかったみたいで。今夜だけ、別のホテルを探すか、所長の部屋にもう一つベッドを入れてもらうか、フロントの人が言ってて……」


涼子は一瞬、頭が真っ白になった。


この街で、今夜、突然一人部屋を探すのは簡単ではない。


学会シーズンで周辺のホテルはほぼ満室だと、フロントのスタッフも申し訳なさそうに説明していた。


「……エキストラベッド、頼んで」


涼子は、他に選択肢がないことを悟り、そう答えるしかなかった。


部屋に運び込まれたエキストラベッドは、涼子のベッドから二メートルほどしか離れていなかった。


ホテルの一室に、二人きり。


しかも、二人の間には、あの夜以来、まだ言葉にされていない何かが横たわっている。


シャワーを終えた涼子がバスローブ姿で部屋に戻ると、神谷はすでにベッドの端に腰掛け、スマートフォンを見ていた。


涼子の気配に気づいて顔を上げた瞬間、その視線が一瞬、涼子の首元で止まったのを、涼子は見逃さなかった。


「先にシャワー、使っていいわよ」


「……ありがとうございます」


神谷が浴室に消えると、涼子は落ち着かない気持ちのまま、ベッドに腰掛けた。


ドライヤーの音と、シャワーの水音が、薄い壁越しに聞こえてくる。


それだけのことなのに、涼子は自分の心臓の音がやけにうるさく感じられた。


しばらくして、浴室から出てきた神谷は、Tシャツにパジャマのズボンという姿だった。


涼子は、その無防備な格好に、なぜか目のやり場に困ってしまう。


「あの、所長」


「なに」


「明日の朝、早いですし……もう休みましょうか」


「そうね」


灯りを落として、二人はそれぞれのベッドに横になった。


だが、涼子はまったく眠れなかった。すぐ隣に、神谷の呼吸の気配がある。


それだけで、意識のすべてがそちらに引っ張られていく。


「……眠れないんですか」


暗闇の中、神谷の声がした。


「あなたも?」


「はい」


小さな笑いが漏れた。奇妙な連帯感だった。


「所長」


「なに」


「あの夜のこと、僕はずっと考えてます。所長は、なかったことにしたいって言いましたけど」


涼子は、闇の中で目を開けたまま、答えられずにいた。


「無理に聞き出そうとは思ってません。ただ、僕の気持ちだけは、知っておいてほしくて」


「……神谷くん」


「所長のこと、ずっと前から、一人の女性として見てました。あの夜だけの気の迷いじゃないです」


涼子の胸の奥で、何かが大きく揺れた。何と答えればいいのか、わからなかった。


上司として、これは聞き流すべき言葉だ。だが、涼子の心は、その言葉を聞き流すことを拒んでいた。


沈黙が続いた。


やがて、涼子はゆっくりと体を起こし、ベッドの縁に座った。


「……神谷くん、こっち来て」


その声は、自分でも驚くほど掠れていた。


暗闇の中、神谷が身を起こす気配がした。


涼子のベッドの脇まで来て、静かに膝をつく。


「所長……」


「涼子でいい。今だけは」


涼子は、自分の中の理性が音を立てて崩れていくのを感じていた。


所長としての立場も、上司としての分別も、この瞬間だけは、少しだけ脇に置いておきたかった。


神谷の手が、そっと涼子の頬に触れる。


あの夜と同じ、けれど今度ははっきりと意識のある状態で、涼子はその温もりを受け入れた。


「……本当に、いいんですか」


「いいから、聞かないで」


涼子は、そう答えるので精一杯だった。


灯りを落とした部屋の中、二人の距離は、ゆっくりと、しかし確実に縮まっていった。


窓の外には、大阪の夜景が静かに広がっている。


誰にも知られることのない、二人だけの夜だった。


翌朝、涼子が目を覚ますと、隣のベッドはもぬけの殻だった。


神谷はすでに身支度を整え、荷物をまとめていた。


「おはようございます、所長」


いつもの、業務モードの声だった。


だがその目には、昨夜とは違う、確かな熱が残っている気がした。


「……おはよう」


涼子は、昨夜のことを、今度は「なかったことに」とは言わなかった。


言えなかった、というのが正しいかもしれない。


新幹線で東京に戻る車中、涼子と神谷は、いつも通りの業務会話を交わした。


だが、涼子の中で、何かが確実に変わってしまったことを、涼子自身が一番よくわかっていた。


窓の外を流れる景色を眺めながら、涼子は小さくため息をついた。


――この先、私はどうすればいいのだろう。


答えの出ない問いを抱えたまま、新幹線は東京へと向かっていく。


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