表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処方箋のない恋  作者: 優涼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/13

第2話「何事も無かったように」

 月曜日の朝、涼子はいつもより十五分早く支店に着いた。


理由は自分でもわかっていた。


神谷より先にオフィスに入り、いつも通りの自分を、いつも通りの姿で待ち構えていたかったのだ。


デスクにつき、パソコンを立ち上げ、メールを確認する。いつもの朝のルーティン。


だが、指先が微妙に落ち着かない。


頭の中では、土曜の朝の記憶が何度も再生されていた。


神谷の体温。

掠れた自分の声。


そして、「なかったことにする」と告げたときの、あの硬い響き。 


「おはようございます」


その声に、涼子の肩がびくりと跳ねた。顔を上げると、神谷が普段と変わらない顔でデスクの横に立っていた。


手には缶コーヒーを二つ持っている。


「……おはよう」


「これ、よかったら。いつものやつです」


差し出されたのは、涼子がいつも自販機で買う微糖のコーヒーだった。


二年間、毎朝顔を合わせてきた部下は、涼子の好みをきちんと覚えていた。


それだけのことに、涼子は不覚にも動揺した。


「ありがとう」


受け取りながら、涼子は神谷の表情をそっと窺った。


特に変わった様子はない。

少なくとも表面上は。


涼子はほっとするべきなのに、なぜかその平静さに、かすかな苛立ちを覚えた。 


自分だけが、こんなにも落ち着かないでいるのが、悔しかった。


午前中は、月例の営業会議だった。


涼子は所長として、各MRの進捗を確認し、今月の目標達成に向けた戦略を確認していく。


神谷の番になっても、涼子は普段通りの口調を崩さなかった。


「神谷くん、B病院の件、先方の反応はどう?」


「先週、部長級の先生に新薬のデータをお渡ししました。感触は悪くないです。来月頭に採用検討会があるとのことなので、そこまでにフォローを固めます」


「わかった。資料は最新版に差し替えて、念のため副作用データの比較表も添付して」


「了解しました」


やり取りは、いつも通りだった。


誰も、この二人の間に何かあったとは気づかない。


だが涼子は、自分の声のトーンが、いつもよりわずかに硬いことに気づいていた。


神谷を見る目が、必要以上に短くなっていることにも。


会議が終わり、各自が持ち場に散っていく中、涼子はふと、資料をまとめる神谷の横顔を見てしまった。


真剣な表情。仕事に向き合うときの、この男の顔つきは嫌いではない。


むしろ、二年間見てきた中で、涼子が密かに評価しているポイントの一つだった。


だが今は、その横顔を見るだけで、土曜の夜の記憶が蘇ってくる。涼子は慌てて視線を逸らし、自分のデスクに戻った。


――駄目だ。これは。なかったことにすると決めたはずだ。


自分に言い聞かせるように、涼子は心の中で繰り返した。


昼休み、涼子は珍しく外に出て、近くのカフェで一人ランチを取ることにした。


オフィスにいると、どうしても神谷の気配を意識してしまう。少し距離を置きたかった。


窓際の席でサンドイッチを頬張りながら、涼子はぼんやりと外の景色を眺めていた。


師走の街は、忘年会帰りらしきスーツ姿の人々や、クリスマスの飾りつけで賑わっている。


ふと、スマートフォンが震えた。

画面を見ると、神谷からのメッセージだった。


『お疲れ様です。C医院の先生から、追加資料の依頼がありました。今日中に対応した方がいいと思うので、確認お願いします』


業務連絡だった。

当たり前だ。


涼子は少しほっとしたような、それでいて拍子抜けしたような、複雑な気分になった。何を期待していたのか、自分でもわからない。


『了解。データ、共有フォルダに入れておいて』


そう返信して、スマートフォンをテーブルに置く。


涼子は、自分の中の動揺に、改めて戸惑いを覚えていた。


三十五年間生きてきて、これほど部下一人の存在に振り回されたことはなかった。


恋愛経験がないわけではない。


だが、いつも仕事を優先してきた結果、まともに誰かと向き合う暇もなく、気づけば三十五歳になっていた。


それなのに、なぜ今、こんなにも神谷のことが気になるのだろう。単なる酔った勢いの過ち、それだけのはずなのに。


その日の夕方、涼子は残業をしていた神谷に、たまたま二人きりになる場面が訪れた。


他のメンバーはすでに退社し、オフィスにはコピー機の音だけが響いている。


「神谷くん、まだ残ってたの」


「明日の商談資料、最終チェックしてました」


涼子はコーヒーを淹れに給湯室へ向かおうとして、神谷の隣を通り過ぎた。


その瞬間、腕が軽く触れた。ただそれだけのことだったのに、涼子の心臓が跳ねる。


「……所長」


「なに」


「土曜のことなんですけど」


涼子の足が止まった。心臓が早鐘を打つ。


「あの、覚えてないふりをするのは、僕にはちょっと、難しいです」


低い声で、しかしはっきりと、神谷はそう言った。涼子は振り返らずに、給湯室の方を向いたまま、しばらく動けなかった。


「……神谷くん」


「所長がそうしたいなら、表向きはそうします。でも、僕は覚えてます。全部」


その言葉に、涼子の頬が熱くなった。振り返れば、神谷の視線とぶつかってしまう。


それが怖くて、涼子は俯いたまま、やっとの思いで声を絞り出した。


「今は、その話はしないで」


「わかりました」


神谷はあっさりと引いた。だが、その声には、涼子の言葉を鵜呑みにしていないことが、はっきりと滲んでいた。


涼子は給湯室に逃げ込むように入り、扉を閉めた。一人になった瞬間、詰めていた息を大きく吐き出す。


鏡に映る自分の顔は、いつもの涼らな「涼子所長」の顔ではなく、動揺を隠しきれない、一人の女の顔をしていた。


――どうしてこんなに、心が乱れるのだろう。


涼子は、鏡の中の自分に問いかけたが、答えは返ってこなかった。


窓の外では、師走の夜が静かに更けていく。


オフィスに残された二人の距離は、まだ縮まってもいなければ、離れてもいなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ