第2話「何事も無かったように」
月曜日の朝、涼子はいつもより十五分早く支店に着いた。
理由は自分でもわかっていた。
神谷より先にオフィスに入り、いつも通りの自分を、いつも通りの姿で待ち構えていたかったのだ。
デスクにつき、パソコンを立ち上げ、メールを確認する。いつもの朝のルーティン。
だが、指先が微妙に落ち着かない。
頭の中では、土曜の朝の記憶が何度も再生されていた。
神谷の体温。
掠れた自分の声。
そして、「なかったことにする」と告げたときの、あの硬い響き。
「おはようございます」
その声に、涼子の肩がびくりと跳ねた。顔を上げると、神谷が普段と変わらない顔でデスクの横に立っていた。
手には缶コーヒーを二つ持っている。
「……おはよう」
「これ、よかったら。いつものやつです」
差し出されたのは、涼子がいつも自販機で買う微糖のコーヒーだった。
二年間、毎朝顔を合わせてきた部下は、涼子の好みをきちんと覚えていた。
それだけのことに、涼子は不覚にも動揺した。
「ありがとう」
受け取りながら、涼子は神谷の表情をそっと窺った。
特に変わった様子はない。
少なくとも表面上は。
涼子はほっとするべきなのに、なぜかその平静さに、かすかな苛立ちを覚えた。
自分だけが、こんなにも落ち着かないでいるのが、悔しかった。
午前中は、月例の営業会議だった。
涼子は所長として、各MRの進捗を確認し、今月の目標達成に向けた戦略を確認していく。
神谷の番になっても、涼子は普段通りの口調を崩さなかった。
「神谷くん、B病院の件、先方の反応はどう?」
「先週、部長級の先生に新薬のデータをお渡ししました。感触は悪くないです。来月頭に採用検討会があるとのことなので、そこまでにフォローを固めます」
「わかった。資料は最新版に差し替えて、念のため副作用データの比較表も添付して」
「了解しました」
やり取りは、いつも通りだった。
誰も、この二人の間に何かあったとは気づかない。
だが涼子は、自分の声のトーンが、いつもよりわずかに硬いことに気づいていた。
神谷を見る目が、必要以上に短くなっていることにも。
会議が終わり、各自が持ち場に散っていく中、涼子はふと、資料をまとめる神谷の横顔を見てしまった。
真剣な表情。仕事に向き合うときの、この男の顔つきは嫌いではない。
むしろ、二年間見てきた中で、涼子が密かに評価しているポイントの一つだった。
だが今は、その横顔を見るだけで、土曜の夜の記憶が蘇ってくる。涼子は慌てて視線を逸らし、自分のデスクに戻った。
――駄目だ。これは。なかったことにすると決めたはずだ。
自分に言い聞かせるように、涼子は心の中で繰り返した。
昼休み、涼子は珍しく外に出て、近くのカフェで一人ランチを取ることにした。
オフィスにいると、どうしても神谷の気配を意識してしまう。少し距離を置きたかった。
窓際の席でサンドイッチを頬張りながら、涼子はぼんやりと外の景色を眺めていた。
師走の街は、忘年会帰りらしきスーツ姿の人々や、クリスマスの飾りつけで賑わっている。
ふと、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、神谷からのメッセージだった。
『お疲れ様です。C医院の先生から、追加資料の依頼がありました。今日中に対応した方がいいと思うので、確認お願いします』
業務連絡だった。
当たり前だ。
涼子は少しほっとしたような、それでいて拍子抜けしたような、複雑な気分になった。何を期待していたのか、自分でもわからない。
『了解。データ、共有フォルダに入れておいて』
そう返信して、スマートフォンをテーブルに置く。
涼子は、自分の中の動揺に、改めて戸惑いを覚えていた。
三十五年間生きてきて、これほど部下一人の存在に振り回されたことはなかった。
恋愛経験がないわけではない。
だが、いつも仕事を優先してきた結果、まともに誰かと向き合う暇もなく、気づけば三十五歳になっていた。
それなのに、なぜ今、こんなにも神谷のことが気になるのだろう。単なる酔った勢いの過ち、それだけのはずなのに。
その日の夕方、涼子は残業をしていた神谷に、たまたま二人きりになる場面が訪れた。
他のメンバーはすでに退社し、オフィスにはコピー機の音だけが響いている。
「神谷くん、まだ残ってたの」
「明日の商談資料、最終チェックしてました」
涼子はコーヒーを淹れに給湯室へ向かおうとして、神谷の隣を通り過ぎた。
その瞬間、腕が軽く触れた。ただそれだけのことだったのに、涼子の心臓が跳ねる。
「……所長」
「なに」
「土曜のことなんですけど」
涼子の足が止まった。心臓が早鐘を打つ。
「あの、覚えてないふりをするのは、僕にはちょっと、難しいです」
低い声で、しかしはっきりと、神谷はそう言った。涼子は振り返らずに、給湯室の方を向いたまま、しばらく動けなかった。
「……神谷くん」
「所長がそうしたいなら、表向きはそうします。でも、僕は覚えてます。全部」
その言葉に、涼子の頬が熱くなった。振り返れば、神谷の視線とぶつかってしまう。
それが怖くて、涼子は俯いたまま、やっとの思いで声を絞り出した。
「今は、その話はしないで」
「わかりました」
神谷はあっさりと引いた。だが、その声には、涼子の言葉を鵜呑みにしていないことが、はっきりと滲んでいた。
涼子は給湯室に逃げ込むように入り、扉を閉めた。一人になった瞬間、詰めていた息を大きく吐き出す。
鏡に映る自分の顔は、いつもの涼らな「涼子所長」の顔ではなく、動揺を隠しきれない、一人の女の顔をしていた。
――どうしてこんなに、心が乱れるのだろう。
涼子は、鏡の中の自分に問いかけたが、答えは返ってこなかった。
窓の外では、師走の夜が静かに更けていく。
オフィスに残された二人の距離は、まだ縮まってもいなければ、離れてもいなかった。




