第1話「忘年会の夜」
この物語は、製薬会社という少し特殊な業界を舞台にした、営業所長と部下の恋愛譚です。
「上司と部下」「年上と年下」という、恋愛小説では定番とも言える組み合わせですが、今回は特に、涼子という一人の女性が背負う「所長としての鎧」と、「一人の女性としての本音」の間で揺れる姿を丁寧に描きたいと思っています。
神谷蒼もまた、ただ流されるだけの男ではなく、彼なりの想いと覚悟を持って涼子に向き合っていきます。
全10話、それぞれ約5000字というボリュームで、週1話ペースくらいを想定した構成になっています。じれったさと甘さ、そして働く大人ならではのリアルな葛藤も交えながら、最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。
それでは、第1話「忘年会の夜」からどうぞ。
十二月の第三金曜日、東京支店の忘年会は、駅前の居酒屋の二階を貸し切って行われた。
早坂涼子は、乾杯の音頭を取り終えると同時に、いつもの仮面を少しだけ緩めた。
営業所長という肩書きは、涼子にとって鎧のようなものだ。
三十五歳、女性、しかも中途採用からの叩き上げ。
この業界で所長のポジションに就くまでに、涼子がどれだけ歯を食いしばってきたか、この場にいる誰も本当のところは知らない。
「所長、飲んでますか」
声をかけてきたのは、神谷蒼だった。
今年で五年目になるMRで、涼子の下について二年になる。愛想がいいわけではないが、どこか憎めない飄々とした空気をまとった男だ。
数字も悪くない。ただし、たまに涼子の予想を超えるところで踏み込んでくる。今もそうだった。
「飲んでるわよ。神谷くんこそ、今年は目標達成おめでとう」
「所長のご指導のおかげです」
「白々しい」
涼子は笑って、グラスのビールを一気に呷った。今年は本当に厳しい一年だった。
新薬の承認が遅れ、競合の攻勢が激しく、部下のモチベーション管理にも頭を悩ませた。
おまけに、本社からは来期の数値目標がさらに引き上げられるという噂も流れている。飲まなければやっていられない夜、というのが正直なところだった。
一次会が終わる頃には、涼子はすでにいつもの酒量を超えていた。
二次会に流れたのは、営業所のメンバーのうち半分ほど。
カラオケボックスの狭い部屋で、涼子はソファに深く沈み込みながら、部下たちの盛り上がりをぼんやり眺めていた。
「所長、大丈夫ですか。顔、真っ赤ですよ」
隣に座っていたのは、また神谷だった。気づけば周りのメンバーはずいぶん減っていて、部屋には数人しか残っていない。
「大丈夫、大丈夫。これくらい平気」
平気ではなかった。視界が揺れている。涼子は自分がかなり酔っていることに、頭のどこかでは気づいていた。だが、気づいていても止められないのが、酒の厄介なところだ。
「所長って、こういう場では素なんですね」
「素?」
「いつも所内では、隙がないから。今日みたいな顔、初めて見ました」
涼子はその言葉に、なぜか無性に苛立った。
隙がない。
それは涼子が意図的に作り上げてきたものだった。
女だから、若く見られるから、と舐められないために。だが今、目の前の部下にそう言われると、まるで自分の作り上げてきた鎧そのものを見透かされたような気がした。
「隙がないと、悪い?」
「悪くはないです。ただ、疲れませんか」
その一言で、涼子の中の何かが緩んだ。誰にも聞かれたことのない質問だった。
上司としてどうか、成果を出せるか、部下をまとめられるか。そういう問いかけには慣れていた。
だが「疲れないか」と聞かれたのは、ずいぶん久しぶりだった。
「疲れるわよ、そりゃ」
気づけば、そう零していた。
「毎日、気を張ってる。弱み見せたら終わりだと思ってる。男の人はいいわよね、そういうの気にしなくて」
「気にしてますよ、僕だって」
「神谷くんが? 何を気にするの」
「所長に、認めてもらえるかどうか」
涼子はその言葉を、酔いのせいでうまく処理できなかった。認めてもらえるかどうか。
まるで、部下としての評価以上の何かを求められているような響きがあった。
そこから先の記憶は、涼子の中で曖昧に霞んでいる。
誰かがタクシーを呼んだこと。
神谷が「送ります」と言ったこと。
マンションの前まで来て、なぜか部屋に上げてしまったこと。
覚えているのは、玄関でよろけた自分を、神谷が支えてくれた瞬間の体温だった。
「大丈夫ですか」
耳元で低い声がして、涼子は思わず神谷のシャツを掴んでいた。
石鹸と煙草が混じったような匂いが、酔った頭にやけに近く感じられる。腕の中に抱き寄せられる感覚に、涼子は抗うことができなかった。
「……もう、帰って」
そう言った声は、自分でも驚くほど頼りなく掠れていた。本気で拒む響きではなかった。
神谷は何も答えず、ただ涼子の頬に触れた指先を、そっと滑らせただけだった。
灯りを落とした部屋の中、二人の輪郭だけが曖昧に溶けていく。
涼子は目を閉じ、いつもの鎧を――所長という肩書きも、隙のない自分も――酔いに任せてどこかに脱ぎ捨てた。
残ったのは、ただ一人の女としての涼子だけだった。
その先の記憶は、切れ切れの熱と吐息の断片としてしか残っていない。
誰かの名前を呼んだ気がする。自分の声だったのか、神谷の声だったのかも、もう定かではない。
「所長」
名前を呼ばれた気がする。
あるいは呼んでいない気もする。
涼子の意識は、そこで途切れた。
翌朝、涼子が目を覚ましたのは、自分のベッドの中だった。
カーテンの隙間から差し込む光がやけに眩しくて、頭がずきずきと痛んだ。
二日酔いだ。
それも、ここ数年で一番ひどい。
けれど、頭痛よりも先に涼子を凍りつかせたのは、隣で寝息を立てている人影だった。
まさか、と思いながら、涼子はゆっくりと視線を動かした。
神谷蒼が、涼子のベッドで、涼子の隣で、眠っていた。
一瞬、時間が止まった。
次の瞬間、涼子の脳裏を、昨夜の記憶の断片が乱暴に駆け巡った。
カラオケボックス。タクシー。マンションの前。玄関。それから――。
はっきりとは思い出せない。だが、状況と、自分の体の感覚が、何が起きたのかを雄弁に物語っていた。
「……噓でしょう」
涼子は思わず声に出していた。
その声で、神谷が薄目を開ける。
「……あ」
神谷の顔にも、はっきりと困惑が浮かんだ。
二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
涼子は布団を引き寄せながら、頭の中で必死に状況を整理しようとした。
所長と部下。上司と部下。
しかも五年目の、これから伸びていく大事な戦力の一人。その相手と、酔った勢いで一線を越えてしまった。
これがもし社内に知れたら。パワーハラスメントだ、セクシャルハラスメントだと騒がれても、涼子には反論の余地がない。
上司という立場を利用したと言われても仕方のない状況だった。
「所長、あの」
「待って」
涼子は、震えそうになる声を必死に抑えながら、神谷の言葉を遮った。
「これは、なかったことにする」
「え」
「昨日のことは、お互い覚えていない。それでいい。いいわね」
涼子は、自分でも驚くほど冷たい声を出していた。そうでもしないと、心が保てそうになかった。
神谷は、しばらく涼子の顔をじっと見つめていた。
何かを言いたそうに、口を開きかけて、しかし結局、小さく頷いた。
「……わかりました」
その返事に、涼子はほっとするべきだった。
だが、なぜか胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚が残った。
神谷が身支度を整え、逃げるように部屋を出ていく後ろ姿を、涼子はベッドの中から見送った。
玄関の扉が閉まる音がして、部屋に静寂が戻る。
涼子は、天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。
なかったことにする。
そう自分で言った言葉が、耳の奥でいつまでも反響していた。
そして涼子は、ふと気づいてしまう。
――本当に、なかったことにできるのだろうか。
月曜日から、いつもと同じ顔で、神谷と顔を合わせなければならない。
所長として、上司として。
何事もなかったかのように。
涼子は重い頭を抱えながら、静かにため息をついた。
窓の外では、師走の街が、何も知らないまま騒がしく動き始めていた。




