第30話 誓いの日
第30話 誓いの日
四月の第二土曜日、都内のホテルの控室で、涼子はウェディングドレス姿で鏡の前に立っていた。窓の外には、澄み渡った春の空が広がっている。
「涼子さん、準備はできてますか」
扉の向こうから、蒼の声が聞こえた。涼子は深く息を吸い、ドアを開けた。
タキシード姿の蒼が、涼子の姿を見て、しばらく言葉を失っていた。
「そんなに見つめないで」
「すみません。あまりに綺麗で、言葉が出てきませんでした」
蒼の素直な言葉に、涼子は思わず頬を赤らめた。三十代も半ばを過ぎて、こんな風に照れる自分がいることに、涼子自身、驚きを隠せなかった。
「あなたも素敵よ。いつもの営業スーツとは、大違い」
「涼子さんの前でだけは、格好つけたいので」
蒼の軽口に、涼子は小さく笑った。緊張していた肩から、少しだけ力が抜けていく。
***
式場のチャペルには、これまでの二人の歩みを見守ってきた人々が、静かに集まっていた。営業所の同僚たち、両家の家族、そして、桐谷の姿もあった。
バージンロードの前で、涼子の父が、そっと涼子に腕を差し出した。
「行こうか」
「うん」
オルガンの音色が響き始めると、涼子は父の腕を取り、ゆっくりと歩き出した。祭壇の前で待つ蒼の姿が、少しずつ近づいてくる。その表情には、これまで見たどの顔よりも、まっすぐな想いが浮かんでいた。
父は、祭壇の手前で涼子の手を蒼に託した。
「娘を、よろしく頼む」
「必ず、幸せにします」
短いやり取りの中に、これまでの二人の物語のすべてが、詰まっているようだった。
式の途中、誓いの言葉を交わす場面で、蒼は用意していた言葉に加えて、静かにこう続けた。
「涼子さんと出会ってから、僕は本当にたくさんのことを学びました。仕事への向き合い方、誠実であることの大切さ、そして、誰かを想うということの意味を。これからも、対等なパートナーとして、涼子さんの隣にいたいです」
涼子は、その言葉に、涙をこらえきれなかった。
「私も」
涼子は、震える声で続けた。
「あなたに出会って、初めて、仕事だけじゃない幸せを、知ることができた。これからも、二人で、一緒に、乗り越えていきましょう」
誓いのキスを交わす瞬間、会場からは、大きな拍手が沸き起こった。坂本は、涙を隠しもせずに拍手を送っていた。
***
披露宴の会場に移ると、宴は和やかに進んでいった。乾杯の挨拶を任された桐谷は、グラスを手に、静かにマイクの前に立った。
「早坂さん、いや、もう神谷さんですね。神谷涼子さんと、蒼くん、本日は、おめでとうございます」
桐谷は、少し言葉を選びながら、続けた。
「私は、涼子さんとは、十年以上前からの付き合いになります。新人時代の涼子さんは、誰よりも真面目で、誰よりも努力家でした。その姿勢は、統括所長になった今も、少しも変わっていません」
会場が、静かに桐谷の言葉に耳を傾けていた。
「そして、蒼くん。君は、涼子さんの隣で、いつも対等であろうと努力してきた人だと、私は思っています。上司と部下という立場から始まった二人の関係が、ここまでの絆に育つまでには、簡単には語り尽くせないほどの努力があったことでしょう」
桐谷は、グラスを高く掲げた。
「お二人の、これからの人生に、幸多からんことを。乾杯」
会場中に、乾杯の声が響き渡った。
宴の中盤、坂本が予告していた余興が始まった。営業所のメンバーたちが、涼子と蒼の出会いから今日までを、寸劇仕立てで再現するという、心のこもった、しかし少々恥ずかしい内容だった。
「忘年会の夜、所長が泥酔して、神谷に絡む場面から、再現します」
坂本の司会に、涼子は思わず顔を赤らめた。
「坂本さん、そこまで詳しく再現しなくても」
「所長、これも、営業所の仲間からの、愛のある贈り物ですから」
会場は、笑いに包まれた。涼子も、途中からは、恥ずかしさよりも、これまでの日々への懐かしさで、胸がいっぱいになっていった。
披露宴の終盤、涼子は両親のもとへ挨拶に向かった。
「お母さん、お父さん、今まで、ありがとう」
母は、目を潤ませながら、涼子の手を握った。
「幸せになりなさいね」
「うん」
涼子は、深く頷いた。仕事一筋で生きてきたこれまでの人生の先に、こんな温かい未来が待っているとは、忘年会のあの夜には、想像もしていなかった。
蒼の両親のもとへも、二人は並んで挨拶に向かった。蒼の父は、静かに、しかし確かな笑顔で、涼子の手を握った。
「涼子さん、これからも、蒼のことを、よろしく頼みます」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
かつての硬い表情は、もう、そこにはなかった。
***
すべての宴が終わり、ゲストを見送った後、涼子と蒼は、二人だけになったホテルの一室に足を踏み入れた。窓の外には、都心の夜景が、静かに広がっている。
「やっと、終わりましたね」
蒼が、ネクタイを緩めながら、ソファに深く腰掛けた。
「本当に。でも、いい一日だった」
涼子も、ドレスの重みから解放され、隣に腰を下ろした。長い一日の疲れが、心地よい満足感となって、体中に広がっていた。
「涼子さん」
蒼が、静かに、涼子の手を取った。
「これから、二人で、どんな未来を作っていきましょうか」
涼子は少し考えてから、微笑んで答えた。
「まずは、二人の時間を、大切にしたい。それから、いつか、家族が増えたらいいな、とも思ってる」
「僕も、同じ気持ちです」
二人は、手を重ね合わせ、夜景を見つめ続けた。
しばらくして、蒼は、涼子の頬に、そっと触れた。
「今日の涼子さん、一日中、綺麗でした。でも今、一番綺麗な気がします」
「お世辞、上手になったわね」
涼子は、そう軽口を返しながらも、蒼の指先の感触に、鼓動が速くなっていくのを感じていた。
窓辺の灯りを落とすと、部屋の中は、都心の夜景の淡い光だけが差し込む、静かな空間に変わった。蒼は、涼子の肩に、そっと手を回した。
「緊張してますか」
「……少し」
涼子は、正直に答えた。これまで、数えきれないほどの修羅場を、涼子は乗り越えてきた。だが、こんな風に、飾らない自分をさらけ出すことには、いつまでも、慣れることがなかった。
「涼子さんが、緊張してるところ、なんだか、新鮮です」
蒼は、優しく笑いながら、涼子の額に、そっと唇を寄せた。その温もりに、涼子は、ゆっくりと、肩の力が抜けていくのを感じた。
「所長として、いつも、隙のない自分でいなきゃって、思ってきた。でも、あなたの前でだけは、そうじゃなくていいんだって、いつからか、思えるようになった」
涼子は、蒼の胸に、そっと頬を寄せながら、静かに呟いた。
「今夜は、誰にも見せたことのない、素直な自分を、あなたにだけ、見せたい」
その言葉に、蒼は、涼子の体をそっと抱き寄せた。
「僕も、涼子さんのそういう部分を誰よりも大切にしたいです」
二人の唇が、静かに重なった。忘年会の夜に交わした、酔いに任せた不確かな熱とは違う、確かな意志を伴った口づけだった。
蒼の指先が、涼子のうなじに触れ、まとめ髪をそっとほどいていく。柔らかく流れ落ちた髪が、涼子の肩を覆った。
「綺麗です」
囁くような声に、涼子は目を閉じ、蒼の胸に、体を委ねた。
ドレスの背中のホックを、蒼の指が、ゆっくりと外していく。その一つ一つの動作に、これまでの二人の歩みが、重なっているようだった。忘年会の夜の過ち、幾度もの疑心暗鬼、家族との対話、そして、今日という日。すべての先に、この夜があった。
涼子は、これまで、誰の前でも見せたことのない、無防備な自分を、蒼の前に、そっと開いていった。統括所長としての鎧も、これまで築き上げてきたすべての強さも、この部屋の中では、必要なかった。
「蒼くん」
涼子は、掠れた声で、その名を呼んだ。
「涼子さん」
蒼もまた、静かに、涼子の名を呼び返した。
淡い月明かりと、街の灯りだけが差し込む部屋の中、二人の輪郭が、ゆっくりと溶け合っていく。触れ合う肌の温もり、互いの鼓動、そして、途切れ途切れに漏れる吐息。言葉よりも雄弁に、二人の想いを伝え合う時間だった。
涼子は、これまでの人生で、これほどまでに、自分を飾らずにいられたことは、一度もなかったと、ぼんやりとした意識の中で感じていた。仕事での成功も、周囲からの評価も、この瞬間には、何の意味も持たなかった。ただ、蒼という一人の男に、これ以上ないほど、正直な自分をさらけ出せていることだけが、涼子にとって、確かな幸福だった。
「涼子さん、愛してます」
蒼の声が、耳元で、静かに響いた。
「私も」
涼子は、そう答えるだけで、精一杯だった。
夜は、静かに更けていった。窓の外の夜景は、変わらず、二人を見守り続けていた。長く曲がりくねった道のりの果てに、涼子と蒼は、これまでのどの瞬間よりも深く、互いを、そして、自分自身の心を、確かめ合っていた。
***
翌朝、涼子が目を覚ますと、隣には、穏やかな寝息を立てる蒼の姿があった。忘年会の夜、初めて目覚めたときの、あの動揺と混乱は、もう、どこにもなかった。あるのは、ただ、静かな安らぎだけだった。
「おはよう」
涼子が小さく声をかけると、蒼は、ゆっくりと目を開けた。
「おはようございます、涼子さん」
蒼は、寝ぼけ眼のまま、涼子の頬に、そっと触れた。
「昨日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
涼子は、微笑みながら、蒼の胸に、そっと頭を預けた。窓の外には、澄み渡った、新しい朝の光が差し込んでいた。
忘年会の夜の過ちから始まった恋は、様々な試練を経て、今、確かな絆となって結ばれていた。
だが二人の物語は、まだ、これで終わりではなかった。新しい命を迎えるまでの道のりには、二人がまだ知らない、新たな試練が待ち受けていた。
(第4章「小さな命への祈り」へ続く)




