第31話 授からない日々
第31話 授からない日々
結婚から半年が経った秋、涼子と蒼の新生活は、穏やかに軌道に乗り始めていた。
統括所長としての仕事は相変わらず忙しかったが、家に帰れば、蒼が待っているという安心感が、涼子の日々を支えていた。
「そろそろ、子どものこと、真剣に考えてみようか」
ある夜、食卓を囲みながら、蒼がそう切り出した。涼子は、少し驚きながらも、心のどこかで、ずっと考えていたことだと気づいた。
「私、もう三十七だから。あまり悠長にはしていられないかもしれない」
「焦る必要はないと思うけど、二人で頑張ってみよう」
その日から、二人は、特別な検査などせず、自然な形で、子どもを授かることを望みながら過ごすようになった。
***
最初の数ヶ月は、涼子も、それほど気負っていなかった。だが、月日が経つにつれて、涼子の心には、少しずつ、焦りの色が滲むようになっていった。
「今月も、駄目だった」
そう呟く涼子の声には、これまで、仕事では感じたことのない種類のもどかしさが、含まれていた。統括所長として、誰よりも結果を出し続けてきた涼子にとって、努力しても結果が出ないという経験は、久しぶりのことだった。
「涼子、無理しないで」
蒼はそう声をかけながらも、内心では、自分にできることの少なさに、もどかしさを感じていた。仕事であれば、二人で戦略を立て、努力を積み重ねることで、結果を導き出すことができた。だが、こればかりは、二人の意志だけでは、どうにもならない領域だった。
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冬が近づいた頃、涼子は、同期で、以前から親しくしていた医薬品開発部の女性社員、美園から、思いがけない誘いを受けた。
「涼子、今度、不妊治療専門のクリニック、一緒に行ってみない? 私も少し前から通ってて」
美園自身も、三十代後半で、不妊治療を経験していた。涼子は、その誘いに、最初は戸惑いながらも、次第に前向きな気持ちになっていった。
「一度、ちゃんと検査を受けてみようと思う」
その夜、涼子は蒼にそう伝えた。
「僕も、一緒に行くよ」
蒼の言葉に、涼子は、少し安堵した。一人で抱え込まなくてもいいという感覚は、これまでの二人の関係の中で、何度も涼子を支えてきたものだった。
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週末、二人は、都内の不妊治療専門クリニックを訪れた。待合室には、涼子と同世代か、それより若い夫婦の姿も、多く見られた。
問診では、これまでの月経周期や体調について、細かく質問された。医師は、涼子の年齢について、あくまで事務的な口調で、しかし率直に説明した。
「三十七歳という年齢ですと、卵子の質の面で、若い方に比べて、妊娠しづらくなる傾向があります。まずは基本的な検査から始めて、状況を確認していきましょう」
その言葉は、涼子にとって、これまで意識してこなかった現実を、はっきりと突きつけるものだった。仕事では、年齢を理由に何かを諦めたことは、一度もなかった。だが、体の問題においては、時間という要素が、これまでとは違う重みを持って、涼子にのしかかってきた。
蒼は、涼子の隣で、その説明を静かに聞いていた。
「二人で、できることから始めていこう」
診察室を出た後、蒼はそう言って、涼子の手を、そっと握った。涼子は、その温もりに、少しだけ気持ちが落ち着くのを感じた。
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それから数ヶ月、二人は、基礎的な検査と、タイミング法での妊活を続けた。涼子の体には、大きな異常は見つからなかった。蒼の精液検査の結果も、良好だった。
「原因不明の不妊、っていうのも、意外と多いみたいです」
医師の説明を聞きながら、涼子は複雑な気持ちを抱えていた。原因がわかれば、対処のしようもある。だが、原因がわからないという状況は、涼子にとって、これまで経験したことのない種類のもどかしさだった。
それでも、二人は、諦めなかった。
「涼子、僕たち、これまでも色々な試練を乗り越えてきました。これも、二人で、じっくり向き合っていきましょう」
蒼の言葉に、涼子は、静かに頷いた。
「そうね。焦らず、でも、諦めずに」
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年が明けて、二人は、タイミング法から一歩進んで、人工授精にも挑戦することにした。だが、それも、なかなか結果には結びつかなかった。
涼子は、周期ごとに繰り返される期待と落胆に、少しずつ、心が疲弊していくのを感じていた。仕事では、決して弱音を吐かない涼子だったが、家に帰り、一人になると、涙が止まらなくなる夜もあった。
「涼子」
そんな涼子の様子に気づいた蒼は、ある夜、静かに涼子を抱きしめた。
「無理して、明るく振る舞わなくていいです。辛いときは、辛いって、僕に、ちゃんと言ってください」
蒼の言葉に、涼子は、これまで抑え込んでいた感情を、静かに吐き出した。
「怖いの。年齢的に、もう、時間が、あまり残されてないんじゃないかって。それに、私の体に、何か、根本的な問題があるんじゃないかって」
涼子の不安は、この頃、まだ、はっきりとした形を持っていなかった。だが、その予感は、この後、二人が向き合うことになる、新たな試練の、静かな前触れだった。
「大丈夫。何があっても、二人で、乗り越えていきましょう」
蒼は、涼子を、優しく抱きしめ続けた。窓の外、初春の澄んだ夜空が、静かに、二人を見守っていた。
(第32話へ続く)




