第26話「外野の声」
第26話 外野の声
結婚式まで、一ヶ月を切った頃、涼子は、社内で、思いがけない噂が広まっていることを知った。
「所長が、部下だった人と結婚するらしいって、他のエリアでも結構、話題になってるみたいですよ」
坂本が少し困惑した様子で、涼子にそう伝えてきた。
「今更、何を言われても驚かないけど」
涼子は、努めて冷静にそう答えた。だが、噂の内容は涼子が思っていたよりも、辛辣なものを含んでいた。
「統括所長のポジションまで上り詰めたのは、部下をうまく手なずけた結果なんじゃないか」
「神谷という男は、上司に取り入ってうまく立ち回っただけだ」
そうした声が涼子や蒼の耳に直接届くことは少なかったが、風の噂として、営業所全体に、広がりつつあった。
「涼子さん、聞きましたか。僕についての噂」
蒼が、ある夜、少し沈んだ様子で、涼子に切り出した。
「うん、坂本さんから、聞いた」
「僕が、涼子さんに取り入って、キャリアを築いたって、言われてるみたいです」
蒼の声には、隠しきれない悔しさが滲んでいた。これまで担当エリアで、誠実に真面目に仕事を続けてきた蒼にとって、その噂は、これまでの努力を真っ向から否定するようなものだった。
「気にしなくていい。真実じゃないことを、いちいち気にしてたらきりがない」
涼子はそう慰めたが、蒼の表情はなかなか晴れなかった。
***
その噂は、思わぬ形で蒼の仕事にも影響を及ぼし始めた。
横浜支店の所長から、蒼に担当エリアの見直しについて相談があった。
「神谷くん、正直に言うが、一部の医師から君の評価について疑問の声が上がっている。奥さんの、いや、これから奥さんになる方の七光りなんじゃないかって」
その言葉に、蒼は強い衝撃を受けた。
「僕は、涼子さんの立場を一度も利用したことはありません」
「わかってる。だが噂というのは、実態とは関係なく独り歩きするものだ。君の実力を、正当に評価してもらうためにも、しばらくはより一層、成果で示していく必要があるかもしれない」
所長の言葉は、決して悪意あるものではなかったが、蒼にとっては、これまでの努力を、改めて証明しなければならないという、重いプレッシャーになった。
***
その夜、蒼は涼子に、支店長から言われたことを正直に伝えた。
「僕の実績まで、涼子さんとの関係のせいにされるなんて、思いませんでした」
蒼の声には、これまでにない、深い落胆が滲んでいた。
「あなたが、これまで積み上げてきたものは、誰よりも私がよく知ってる」
涼子は、まっすぐに、蒼を見つめた。
「あなたの実力は、本物。噂なんかに負けないで」
「でも、周りがそう見てくれるとは限りません」
蒼の言葉には、珍しく、弱気な響きがあった。涼子は、その様子に、これまで蒼が涼子を支え続けてくれた分、今度は自分が蒼を支える番だと強く感じた。
「蒼くん」
涼子は静かに、しかし、確かな声で言った。
「噂を消すことは、難しいかもしれない。でも、私たちが誠実に仕事を続けていけば、いつか必ず、周りの見方も変わっていくと思う」
「涼子さん」
「一緒に、証明していきましょう。私たちの関係が、決してキャリアのための打算的なものじゃないってことを」
涼子の言葉に、蒼は、少しずつ表情を和らげていった。
***
その後、涼子と蒼は、これまで以上に業務に真摯に向き合う姿勢を周囲に示していった。涼子は、統括所長として、誰よりも公平な評価基準を営業所全体に徹底させた。蒼もまた、担当エリアでの実績を着実に積み上げていった。
数ヶ月が経つ頃には、周囲の噂も次第に落ち着きを見せ始めていた。
「神谷、最近また、担当先の先生方から評判いいらしいな」
坂本が、そう伝えてきたとき、蒼は静かに安堵の表情を見せた。
「結果で示すしかないと、改めて思いました」
「まあ、お前らしいと言えば、お前らしいけどな。所長もお前も、こういう地道な努力を、絶対に怠らないところが似た者同士なんだろうな」
坂本の言葉に、蒼は思わず笑ってしまった。
その夜、涼子は蒼に、坂本とのやり取りを伝えた。
「似た者同士、か」
「そうみたいですよ」
二人は、顔を見合わせて、静かに笑った。噂という試練を二人は誠実な仕事ぶりで、少しずつ乗り越えつつあった。
結婚式まで、残りあと少し。涼子と蒼の間には、これまでの試練を乗り越えるたびに、より強固になっていく、確かな絆が育まれていた。
(第27話へ続く)




