第25話「もう一つの誘い」
第25話 もう一つの誘い
結婚式まで、あと一ヶ月半に迫ったある日、桐谷から、涼子に、改まった相談があった。
「早坂さん、実は、大きな話がある」
本社の会議室に呼ばれた涼子は、桐谷の口から、思いがけない話を聞かされた。
「来年から、関西エリアの統括所長のポジションが、空くことになった。俺が、さらに上のポジションへ、異動することになったんだ」
「桐谷さんが、ですか」
「ああ。それで、後任として、早坂さんに、関西エリアの統括を、任せられないかという話が、上層部から出ている」
その話は、涼子にとって、これまでのキャリアの延長線上にある、大きなチャンスだった。だが同時に、結婚式を目前に控えたこの時期に、それは、思いがけない、複雑な選択を、涼子に突きつけるものでもあった。
「関西への異動となると、蒼さんとは、また、離れて暮らすことになりますね」
涼子は、慎重に、状況を整理しながら答えた。
「その通りだ。だからこそ、簡単な話じゃないと、俺も、わかってる。ただ、早坂さんの実力を考えると、このポジションは、ぜひ、早坂さんに、任せたいと思っている」
桐谷の言葉には、以前のような個人的な感情は、もう、感じられなかった。純粋に、涼子の実力を評価しての打診だった。
「少し、考える時間を、いただけますか」
「もちろんだ。すぐに、返事が欲しいわけじゃない」
***
その夜、涼子は、蒼に、桐谷から受けた打診について、正直に伝えた。
「関西エリアの統括、ですか」
蒼は、しばらく、言葉を選ぶように、黙り込んでいた。
「僕たち、結婚式まで、あと一ヶ月半なのに」
「わかってる。だから、簡単には決められない話だと思ってる」
涼子は、静かに、自分の中の迷いを、正直に伝えた。
「正直、すごく、魅力的な話。これまでのキャリアの、さらに先を目指せる機会だと思う。でも、あなたとの新生活を、始めたばかりのタイミングで、また、離れて暮らすことになる」
蒼は、しばらく考えた後、静かに言った。
「涼子さん、僕は、前にも、同じようなことを、言った気がします」
「うん」
「涼子さんのキャリアを、僕を理由に、諦めてほしくない。もし、涼子さんが、関西でのポジションを、本気で望むなら、僕は、また、涼子さんと一緒に、新しい場所へ、飛び込む覚悟があります」
蒼の言葉には、以前の東日本エリア統括の話のときと同じ、確かな覚悟が込められていた。だが、涼子は、今回は、少し違う答えを、返した。
「ありがとう。でも、今回は、違う選択をしたいと思ってる」
「違う選択、ですか」
「私、今回のポジションは、お断りしようと思う」
涼子の言葉に、蒼は、驚いたように、涼子を見た。
「涼子さんの、キャリアにとって、大きなチャンスなんじゃないですか」
「そうかもしれない。でも、これまで、私は、ずっと、キャリアを最優先に、生きてきた。それが、悪いことだったとは思わない。でも、これから、あなたと、新しい家庭を、築いていく上で、少し、立ち止まって考えたいこともある」
涼子は、これまでの自分自身を、静かに振り返りながら、続けた。
「東日本エリアの統括という、今のポジションでも、私は、十分に、やりがいを感じてる。無理に、さらに上を目指すことだけが、私にとっての幸せじゃないって、最近、少しずつ、思うようになったの」
その言葉には、これまでの涼子には見られなかった、新しい価値観の芽生えが、確かに、感じられた。
「それに」
涼子は、少し、微笑みながら、続けた。
「あなたと、これから、家族を築いていきたいって、本気で、思ってる。そのためにも、今は、二人で、同じ場所で、一緒に、生活の基盤を、しっかり固めていきたい」
蒼は、その言葉に、深く、胸を打たれたような表情を見せた。
「涼子さん」
「これは、あなたのためだけの決断じゃない。私自身が、本当に、そうしたいと思っての選択」
涼子の言葉には、迷いのない、確かな意志が込められていた。
***
翌日、涼子は、桐谷に、正式に、今回のポジションを辞退する旨を伝えた。
「そうか。早坂さんが、そう決めたなら、それを尊重するよ」
桐谷は、少し残念そうな表情を見せながらも、静かに、涼子の決断を受け止めた。
「ただ、これだけは、伝えておきたい。早坂さんの実力は、今後も、必ず、正当に評価されるべきだと、俺は、思っている。今回、断ったからといって、次の機会が、なくなるわけじゃない」
「ありがとうございます、桐谷さん」
涼子は、深く、頭を下げた。
会議室を出た後、涼子は、窓の外に広がる、初夏の澄んだ空を見上げた。これまでの自分なら、絶対に選ばなかったであろう決断。だが、涼子は、その選択に、確かな納得感を、感じていた。
――キャリアだけが、私の価値じゃない。これから、蒼さんと、新しい人生を、築いていくんだから。
その夜、涼子は、蒼に、桐谷とのやり取りの結果を、静かに報告した。
「これで、心置きなく、結婚式の準備に、集中できる」
涼子の言葉に、蒼は、優しく、微笑んだ。
「涼子さんが、そう決めてくれて、嬉しいです。でも、これからも、涼子さんのキャリアを、僕は、全力で、応援し続けます」
「ありがとう」
窓の外、初夏の夜風が、静かに、二人を包み込んでいた。結婚式まで、残り一ヶ月半。涼子と蒼は、これから始まる新しい生活に向けて、確かな一歩を、踏み出し始めていた。
(第26話へ続く)




