第20話「処方箋の先に」
第20話 処方箋の先に
九月、涼子は正式に、東日本エリア統括所長として、本社に着任した。同じ時期、蒼も、涼子の管轄する新しいエリアの一つ、横浜支店へと異動し、新たな担当医師との関係構築に、一から取り組み始めていた。
上司と部下という関係は、もう、そこにはなかった。涼子は、統括所長として、複数の営業所全体を見渡す立場になり、蒼は、一人のMRとして、横浜支店の所長の下で、新しい実績を積み上げていく日々を送っていた。
「新しい担当エリア、どう?」
週末、二人が久しぶりに顔を合わせたとき、涼子が尋ねた。
「大変ですけど、楽しいです。一からの人間関係作りは、正直、骨が折れますけど」
蒼は、少し疲れた様子を見せながらも、充実した表情で答えた。
「あなたなら、大丈夫。丁寧に、誠実に向き合えば、必ず、信頼関係は築ける。それは、私が、一番よく知ってる」
涼子の言葉には、上司としてではなく、対等なパートナーとしての、確かな信頼が込められていた。
***
離れて暮らすようになった二人にとって、平日は、以前よりも顔を合わせる回数が減った。だが、週末には、必ず時間を作り、互いの近況を報告し合う習慣が、自然と生まれていた。
「今週、桐谷さんから、関西エリアの新しい戦略提案が届いてた。すごく、練り込まれた内容で、感心した」
涼子が、仕事の話をする様子は、以前と変わらず、生き生きとしていた。だが、そこには、以前のような、蒼を不安にさせる要素は、もう、なかった。
「涼子さんが、そうやって、楽しそうに仕事の話をしてくれるの、僕は、好きです」
蒼の言葉に、涼子は、驚いたように、目を見開いた。
「前に、あなた、桐谷さんの話をする私を見て、複雑だって、言ってたのに」
「あの頃は、僕自身の中に、涼子さんへの想いに、自信が持てない部分があったんだと思います。今は、違います。涼子さんが、誰と、どんな風に仕事の話をしていても、僕たちの関係は、揺るがないって、ちゃんと信じられてます」
蒼の言葉には、これまでの試練を通して培われた、確かな成熟が滲んでいた。
***
十月のある週末、蒼は、涼子を、横浜の海沿いのレストランに招いた。窓の外には、夕暮れに染まる海が、静かに広がっていた。
「今日は、改まって、どうしたの」
涼子が、少し不思議そうに尋ねると、蒼は、緊張した面持ちで、小さな箱を取り出した。
「涼子さん」
蒼は、深く息を吸ってから、続けた。
「忘年会の夜から、もうすぐ一年になります。あの夜から、僕たちは、本当に、色々な試練を、乗り越えてきました」
「そうね。振り返ると、随分、遠くまで来た気がする」
「桐谷さんのことも、白石先生のことも、離れて暮らす今の状況も、全部、二人で、乗り越えてきました。それは、涼子さんが、僕を、対等なパートナーとして、信じてくれたからだと思います」
蒼は、箱を開け、中の指輪を、涼子に差し出した。
「涼子さん。これからも、ずっと、一緒に、人生を歩いていきたいです。結婚を、前提に、お付き合いしていただけませんか」
涼子は、その言葉に、しばらく、言葉を失っていた。目には、じわりと、涙が浮かんでいた。
「……ずるいわね、こういうところで、いつも、私の予想を超えてくる」
涼子は、涙を拭いながら、静かに、しかし、確かな声で答えた。
「はい。喜んで」
その言葉に、蒼の表情が、大きく緩んだ。二人の間に、これまでのどの瞬間よりも、深く、確かな幸せが、静かに広がっていった。
***
窓の外、夕暮れの海が、次第に、夜の帳に包まれていく。テーブルの上のキャンドルの灯りが、二人の顔を、柔らかく照らしていた。
「忘年会の夜、あんな失敗から、まさか、ここまで来るなんて、思わなかった」
涼子が、少し照れくさそうに、笑いながら言った。
「僕にとっては、失敗じゃなくて、始まりでした」
蒼も、静かに、微笑んだ。
「処方箋のない病気なんて、ないんです。ただ、効くまで、諦めずに、飲み続けるだけ」
蒼の言葉に、涼子は、思わず、声を上げて笑った。
「それ、私が、あなたに教えたことよ」
「涼子さんから、教わったことです」
二人は、顔を見合わせて、笑い合った。
窓の外、横浜の夜景が、静かに、二人を祝福するように、輝いていた。
上司と部下という、簡単には越えられないはずだった一線から始まった、この恋は、様々な試練を経て、今、確かな未来へと、実を結ぼうとしていた。
涼子と蒼、二人の物語は、これから先も、まだまだ、続いていく。




