第18話「桐谷の真意」
第18話 桐谷の真意
約束の週末を待つ間、涼子は、桐谷から、思いがけない呼び出しを受けた。
「早坂さん、大事な話がある。本社で、直接話したい」
いつもとは違う、改まった口調だった。涼子は、少し身構えながら、指定された本社の会議室へと向かった。
会議室には、桐谷の他に、本社の人事担当役員も同席していた。涼子は、緊張した面持ちで、席についた。
「早坂所長、単刀直入に、お話しします」
人事担当役員が、静かに切り出した。
「実は、来期から、東日本エリア全体を統括する、新しいポジションの新設が検討されています。桐谷くんの関西エリアでの実績、そして、早坂さんの営業所での戦略実行力を踏まえて、候補者として、お二人のお名前が挙がっています」
涼子は、予想外の話に、言葉を失った。
「桐谷くんから、早坂さんを、強く推薦する声があったんです。ただの推薦ではなく、実力を、正当に評価した上での、判断だと聞いています」
涼子は、思わず、桐谷の顔を見た。桐谷は、静かな表情で、涼子の視線を受け止めていた。
「早坂さん」
会議が終わり、二人きりになったところで、桐谷は、改めて口を開いた。
「今回のポジションの件、実は、少し前から、動いていたんだ。俺が、本社に、早坂さんの実績を、繰り返し伝えてきた」
「……そうだったんですね」
「実は、正直に言うと」
桐谷は、少し言葉を選びながら、続けた。
「早坂さんへの、個人的な気持ちを、伝えたのは、事実だ。それは、嘘じゃない。でも、それとは別に、俺は、早坂さんの実力を、本気で評価してた。だからこそ、この推薦は、個人的な感情とは、切り離してやったつもりだ」
涼子は、その言葉に、複雑な感情を抱いた。桐谷が、涼子への好意と、仕事上の評価とを、明確に切り分けていたという事実に、驚きと、同時に、ある種の安堵を覚えていた。
「実を言うと、早坂さんに告白したこと、少し後悔してたんだ。あれは、フェアじゃなかった。統括所長という立場を使って、早坂さんに、余計なプレッシャーをかけてしまった」
桐谷は、静かに、頭を下げた。
「本当に、すまなかった。早坂さんが、大切な人がいると、はっきり言ってくれたのに、それでも諦めきれなかった自分が、恥ずかしい」
涼子は、桐谷の謝罪に、静かに頷いた。
「桐谷さんの気持ちは、ちゃんと受け止めました。でも、今、私が選びたい未来は、桐谷さんと一緒のものじゃありません」
「わかってる」
桐谷は、静かに、そう答えた。
「今回の推薦は、俺の個人的な感情とは、関係ない。純粋に、早坂さんの実力を、正当に評価した結果だ。それだけは、信じてほしい」
涼子は、その言葉に、深く頷いた。
***
会議室を出た後、涼子は、複雑な気持ちを抱えながら、営業所へと戻った。
新しいポジションの話は、涼子にとって、大きなチャンスだった。だが、同時に、そのポジションを受ければ、これまで築き上げてきた営業所での日常、そして、蒼との関係にも、大きな変化が訪れることになる。
エリア統括のポジションは、東日本全体を管轄する立場であり、現在の営業所を離れ、本社に拠点を移すことになる。蒼とは、物理的な距離が、大きく開いてしまうことになる。
その夜、涼子は、蒼に、桐谷から聞かされた話を、正直に伝えた。
「新しいポジションの話が、あるの。桐谷さんが、私を推薦してくれてた。個人的な感情とは、関係なく、純粋に、実力を評価しての推薦だって」
蒼は、しばらく、黙って話を聞いていた。
「……それは、すごいことじゃないですか。涼子さんの、これまでの努力が、ちゃんと評価されたってことです」
蒼の声には、涼子を心から祝福する響きがあった。だが、その奥に、隠しきれない不安も、滲んでいた。
「でも、そのポジションを受けたら、涼子さんは、本社に異動になるんですよね。僕たちの関係は、どうなるんでしょうか」
蒼の問いかけに、涼子は、まだ、明確な答えを持っていなかった。
「正直、まだ、決めかねてる。すごく魅力的な話だけど、あなたとの関係を、どうするべきか、まだ、答えが出せない」
涼子の言葉には、正直な迷いが滲んでいた。蒼は、それを、静かに受け止めた。
「涼子さんの、キャリアにとって、大事な機会だと思います。僕のことを理由に、諦めてほしくはないです」
「でも、あなたと離れることは、私にとっても、簡単なことじゃない」
涼子は、まっすぐに、蒼を見つめた。
「桐谷さんとのことも、白石先生とのことも、ちゃんと乗り越えてきたつもりだった。でも、今回のことは、これまでとは、また違う種類の試練な気がする」
蒼は、静かに、頷いた。
「来週末、約束通り、ちゃんと話し合いましょう。桐谷さんのことも、白石先生のことも、そして、このポジションのことも、全部含めて」
「そうね」
涼子は、静かに頷いた。二人の間には、これまでの疑心暗鬼とは違う、新しい種類の課題が、横たわり始めていた。
***
その頃、桐谷は、一人、本社のオフィスで、涼子とのやり取りを、静かに振り返っていた。
「……これで、良かったんだろうな」
桐谷は、小さく呟いた。涼子への個人的な想いは、確かに、まだ完全には消えていなかった。だが、涼子が選んだ未来を、正しく評価し、後押しすることこそが、自分にできる、唯一誠実な形なのだと、桐谷は、自分自身に言い聞かせていた。
「早坂さんには、これからも、正当に評価される場所で、活躍してほしい。それが、俺の、今の、本当の気持ちだ」
窓の外、六月の雨が、静かに、本社ビルの窓を打っていた。
涼子と蒼にとって、この夏は、これまでとは違う、大きな決断を迫られる季節になろうとしていた。
(第19話へ続く)




