第17話「決定的な夜」
涼子との間に生まれた溝は、六月に入っても、埋まらないままだった。互いに、連絡を取る回数が減り、以前のような自然な会話も、次第に少なくなっていった。
そんな中、蒼は、白石から、緊急の呼び出しを受けた。
「神谷さん、すみません、また急なお願いで。担当の患者さんのことで、どうしても、直接ご相談したいことがあって」
夜八時を過ぎた頃だった。蒼は、以前の一件を思い出し、少し警戒したが、患者に関わる話を無下にはできなかった。
「病院に伺えばいいですか」
「いえ、今日は、当直で、少し離れられなくて。すみませんが、近くのカフェまで、来ていただけませんか」
指定されたのは、病院近くの、人通りの少ないカフェだった。蒼が到着すると、白石は、すでに席についていた。だが、その表情には、緊急の相談があるような、切迫した様子は見られなかった。
「白石先生、患者さんの件、どういったご相談でしょうか」
蒼が、単刀直入に切り出すと、白石は、静かに微笑んだ。
「ごめんなさい。本当は、患者さんの件は、口実です」
「……え」
「神谷さんと、どうしても、二人でゆっくり話したかったんです。こうでもしないと、会ってもらえないと思って」
蒼は、白石の言葉に、強い戸惑いを覚えた。
「白石先生、こういうやり方は、良くないと思います」
「わかってます。でも、私、諦めが悪いんです」
白石は、まっすぐに、蒼を見つめた。
「神谷さんと、今、お付き合いされている方との関係、うまくいってないんじゃないですか。最近の神谷さん、様子が違います」
その指摘に、蒼は、思わず言葉を詰まらせた。図星だったからだ。
「……関係ありません」
「本当に、そうですか」
白石は、テーブルの上に置かれた蒼の手に、そっと自分の手を重ねた。
「私、神谷さんのこと、本気なんです。うまくいってないなら、なおさら、諦める理由がなくなります」
蒼は、慌てて手を引いた。
「白石先生、はっきり言います。僕には、大切な人がいます。今、うまくいってないのは、事実かもしれません。でも、それでも、僕の気持ちは、変わりません」
蒼の言葉には、これまでにない、はっきりとした拒絶が込められていた。
「その人が、僕にとって、どれだけ大切な人か。それは、うまくいってるかどうかとは、関係ありません」
白石は、しばらく、蒼の顔を見つめていた。その表情には、驚きと、それ以上の、諦めきれない感情が滲んでいた。
「……そこまで、はっきり言われると、さすがに、私も、身の引き際を考えないといけませんね」
白石は、少し寂しそうに笑った。
「今日のことは、忘れてください。担当医師として、これからも、よろしくお願いします」
その場は、それで収まったかに見えた。だが、蒼がカフェを出た直後、思わぬ人物と、鉢合わせすることになった。
「……神谷?」
そこにいたのは、たまたま近くを通りかかった、営業所の同僚だった。カフェの窓越しに、白石が蒼の手に触れる瞬間を、目撃してしまっていた。
「今の、白石先生と、何かあったのか」
「違う、誤解だ」
蒼は、必死に説明しようとしたが、その同僚の表情には、すでに疑念が浮かんでいた。
***
その夜のうちに、話は、あっという間に営業所内に広まった。誇張された噂は、翌朝には、涼子の耳にも届いていた。
「所長、神谷が、白石先生と、カフェで、手を握り合ってたって噂が」
坂本が、困惑した表情で、涼子に伝えた。
涼子は、その瞬間、頭が真っ白になった。桐谷との一件で、すでにすれ違いが生まれていた中での、この知らせだった。
涼子は、すぐに蒼に連絡を取った。
「今すぐ、話したいことがある」
その日の夜、二人は、涼子のマンションで、久しぶりに、向き合うことになった。
「白石先生と、カフェで会ってたって、本当?」
涼子の声には、抑えきれない緊張があった。
「本当です。でも、手を握られたのは、僕からじゃありません。白石先生が、勝手に手を重ねてきただけです。僕は、すぐに手を引いて、はっきり断りました」
蒼は、事の経緯を、正直に、詳しく説明した。患者の件を口実にした呼び出し、白石の告白、そして、蒼がはっきりと拒絶したこと。すべてを、包み隠さず話した。
涼子は、その説明を、静かに聞いていた。だが、話を聞き終えた後も、涼子の心には、まだ、消えきらない不安が残っていた。
「……信じたい。信じてる。でも」
涼子は、絞り出すように、続けた。
「最近、私たち、なんだか、ちゃんと向き合えてない気がする。桐谷さんのことも、白石先生のことも、周りから聞こえてくる話の方が、先に耳に入ってくる」
蒼も、その言葉に、深く頷いた。
「僕も、同じことを、感じてます。涼子さんのことを、信じたい気持ちと、不安な気持ちが、ずっとせめぎ合ってます」
二人は、しばらく、黙り込んだ。互いに、相手を疑いたくないという気持ちと、拭いきれない不安との間で、揺れ動いていた。
「涼子さん」
蒼が、静かに口を開いた。
「僕たち、一度、ちゃんと、立ち止まった方がいいかもしれません」
その言葉に、涼子は、はっとした。
「……それは、どういう意味?」
「別れよう、とかじゃないです。ただ、桐谷さんのことも、白石先生のことも、周りの目や、噂に振り回されすぎてる気がします。一度、二人だけの時間をちゃんと作って、これからのことを、じっくり話し合う必要があると思うんです」
蒼の言葉には、これまでの不安を乗り越えようとする、誠実な想いが込められていた。涼子は、その言葉に、少しだけ、心が軽くなるのを感じた。
「……そうね。そうしましょう」
二人は、来週末、どこか静かな場所で、改めて、これからのことを話し合う約束をした。
だが、涼子の心の中には、まだ、拭いきれない不安の種が、小さく残り続けていた。
――このすれ違いを、ちゃんと乗り越えられるだろうか。
窓の外、六月の夜空には、雨の気配を含んだ、重い雲が広がっていた。




