第16話「疑心暗鬼」
第16話 疑心暗鬼
桐谷との一件を、涼子は蒼に、包み隠さず伝えた。桐谷から告白されたこと、そして、はっきりと拒絶したこと。すべてを正直に話した上で、涼子は、蒼にこう告げた。
「もう、桐谷さんとは、必要以上に、二人きりでは会わないようにする」
蒼は、その言葉に、一度は安堵した。だが、統括所長という立場上、桐谷と涼子が、完全に接点を断つことは、現実的に難しかった。
六月に入り、桐谷は、これまで以上に頻繁に、涼子の営業所を訪れるようになっていた。表向きは、あくまで業務上の連携強化。だが、蒼の目には、桐谷の視線が、以前にも増して、涼子に向けられているように映った。
「早坂所長、次のプレゼン資料、少し手直しした方がいいところがあるから、今夜、時間もらえないか」
営業所を訪れた桐谷が、そう涼子に声をかけているのを、蒼は、偶然、廊下で耳にしてしまった。
「今夜ですか。少し、遅くなりますが……」
涼子が、少し困った様子で答えているのを見て、蒼の胸に、鋭い痛みが走った。
その夜、涼子が桐谷と、営業所に残って、資料の手直しをしているという話を、蒼は、坂本から聞かされた。
「所長、桐谷さんと、遅くまで仕事してるらしいぞ」
坂本の言葉に、蒼は、平静を装いながらも、心の中では、激しく動揺していた。
――涼子さんは、必要以上に会わないって、言ってたのに。
蒼は、そう思いながらも、涼子を信じようと、自分に言い聞かせた。だが、その日以来、涼子と桐谷が、二人きりで顔を合わせる機会は、蒼の想像以上に多くなっていった。
***
一方、蒼自身も、白石からのアプローチに、頭を悩ませ続けていた。はっきりと断ったはずの白石は、それでも諦める様子を見せず、業務上の連絡にかこつけて、頻繁に蒼に接触してきた。
「神谷さん、この前は、突然のお話、驚かせてしまってすみません。でも、担当医師としての関係は、これまで通り、よろしくお願いしますね」
白石は、そう言いながらも、その視線には、まだ諦めきれない想いが滲んでいた。
ある日、蒼が中央総合病院を訪れた際、白石は、蒼を、人目のない廊下の隅に呼び止めた。
「神谷さん、最近、お疲れのようですね。何か、悩み事でも?」
「いえ、特には」
「もしよかったら、話くらい、聞きますよ。同僚でもないし、気楽に話せる相手として、悪くないと思いますけど」
白石の言葉には、蒼の心の隙間に、静かに入り込もうとする巧妙さがあった。蒼は、その誘いを、丁寧に、しかしはっきりと断った。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、大丈夫です」
だが、その様子を、たまたま通りかかった涼子の営業所の別のMRが、目撃していた。
「神谷さんと白石先生、随分、親しげに話してましたよ」
その話は、営業所内で、瞬く間に噂として広まっていった。噂話が好きな田村の耳にも入り、話は、実際よりも大袈裟に、脚色されて伝わっていった。
***
その噂は、やがて、涼子の耳にも届いた。
「所長、余計なお世話かもしれないですけど」
坂本が、涼子に、遠慮がちに切り出した。
「神谷と、中央総合病院の白石先生のこと、ちょっと噂になってます。かなり親密な様子だったって」
涼子は、一瞬、動揺したが、努めて冷静に答えた。
「蒼くんから、白石先生のことは、聞いてる。仕事の関係で、必要な対応をしてるだけのはずよ」
そう言いながらも、涼子の心には、小さな棘が刺さっていた。蒼が、白石とのことを、すべて正直に話してくれたのは事実だ。だが、その後も、二人の間で、何かやり取りが続いているのではないか。そんな疑念が、涼子の心の中に、静かに広がり始めていた。
同じように、蒼もまた、涼子と桐谷の関係について、拭いきれない不安を抱え続けていた。互いに、相手を信じたい気持ちと、拭いきれない疑念とが、心の中でせめぎ合っていた。
***
その週末、涼子と蒼は、久しぶりに、二人だけの時間を過ごすことになった。だが、以前のような、自然な穏やかさは、その場には、なかった。
「最近、桐谷さんと、よく一緒にいるみたいですね」
蒼が、努めて平静を装いながら、切り出した。
「仕事だから、仕方ないの。プレゼンの準備で、どうしても、時間を取られてしまって」
「白石先生とのこと、噂になってるの、知ってますか」
涼子も、思い切って、切り出した。
「知ってます。でも、僕は、白石先生とは、何もありません。はっきり、お断りしてます」
「わかってる。あなたを、疑ってるわけじゃないの。ただ」
涼子は、言葉を選びながら、続けた。
「噂になるほど、頻繁に、接触が続いてるのが、少し気になっただけ」
「それを言うなら、涼子さんだって、桐谷さんと、頻繁に二人きりで会ってるじゃないですか」
蒼の声に、抑えきれない苛立ちが滲んだ。涼子は、その言葉に、思わず反論した。
「それは、統括所長という立場上、避けられないことなの。私が、望んでそうしてるわけじゃない」
「僕だって、担当医師との関係を、簡単には切れません。同じことです」
二人の言葉は、次第に、平行線をたどり始めていた。互いに、相手を責めているわけではないと、頭ではわかっている。だが、積み重なった不安と疑念が、言葉の端々に、棘となって表れていた。
沈黙が落ちた。二人とも、これ以上、言葉を続けることができなかった。
「……今日は、もう、帰るね」
涼子が、静かにそう言った。蒼は、それを引き止める言葉を、見つけられなかった。
「わかりました」
涼子が去った後、蒼は、一人、部屋に取り残された。窓の外、六月の湿った夜風が、重苦しい沈黙を、さらに際立たせていた。
――このままだと、本当に、駄目になるかもしれない。
蒼は、そんな不安を抱えながら、暗い部屋の中で、ただ、じっと座り続けていた。
同じ頃、涼子もまた、一人、夜道を歩きながら、蒼との間に生まれてしまった、初めての本格的なすれ違いに、胸を痛めていた。
――私たち、あんなに乗り越えてきたはずなのに。
答えの出ない不安を抱えたまま、二人の間には、これまでにない、深い溝が生まれ始めていた。
(第17話へ続く)




