第15話「12年前の想い」
第15話 12年前の想い
約束通り、涼子と蒼は、週末、涼子のマンションで向き合っていた。テーブルの上には、二人分のコーヒーが置かれているが、どちらもまだ手をつけていなかった。
「話すね」
涼子は、深く息を吸ってから、静かに切り出した。
「12年前、新人だった頃の話」
***
当時、涼子は入社二年目、まだ営業の右も左もわからない若手MRだった。同期の中でも、女性は涼子一人。先輩や医師からの風当たりも強く、毎日、泣きそうになりながら仕事をこなしていた。
そんな涼子を、根気強く指導してくれたのが、当時、係長だった桐谷だった。
「早坂、今日の商談、どうだった」
「うまくいきませんでした。先生に、頭ごなしに否定されて」
「そうか。でも、諦めるな。お前の丁寧な仕事ぶりは、俺が一番よく知ってる。今日駄目でも、次がある」
桐谷の言葉は、いつも涼子を支えてくれた。深夜まで一緒に資料を作り込んでくれたことも、何度もあった。厳しい業界の中で、涼子にとって、桐谷は唯一、心から信頼できる存在だった。
その信頼は、いつしか、恋心へと変わっていった。だが、桐谷は当時すでに結婚しており、涼子は、その想いを、誰にも打ち明けることなく、静かに胸の内に封じ込めた。
「桐谷さんが異動になったとき、正直、すごく寂しかった。でも、それを表に出すことは、絶対にできなかった」
涼子は、当時の記憶を、静かに語った。
「それから十二年、その想いは、遠い過去の記憶として、すっかり色褪せてたはずだった。でも」
涼子は、一度、言葉を切った。
「桐谷さんが、離婚したって聞いたとき。それに、私のことを、まだ印象に残ってるって言われたとき。忘れてたはずの気持ちが、また少しだけ、疼いたの」
蒼は、静かに涼子の話に耳を傾けていた。表情には、驚きよりも、真剣な理解の色が浮かんでいた。
「でも、それは、蒼くんへの気持ちとは、全然違うものなの」
涼子は、まっすぐに蒼を見つめた。
「桐谷さんへの気持ちは、多分、あの頃の自分自身への懐かしさに近いものだと思う。がむしゃらに頑張ってた、若い頃の自分。そのときの、誰かに認めてもらいたかった気持ち。桐谷さんは、その象徴みたいな存在なの」
「涼子さん」
「でも、あなたへの気持ちは、違う。今の私を、そのまま受け止めてくれる。強がってる部分も、弱い部分も、全部含めて、私自身を見てくれてる。それは、桐谷さんとの関係にはなかったもの」
涼子の言葉には、これまでの迷いを振り切るような、確かな強さが宿っていた。
「桐谷さんとの仕事は、確かに楽しい。認めてもらえてる実感があるから。でも、それは、恋愛感情とは、別のもの。ちゃんと、そう言い切れる」
蒼は、しばらく黙って、涼子の言葉を受け止めていた。やがて、静かに口を開いた。
「話してくれて、ありがとうございます」
「不安にさせて、ごめんなさい」
「いえ」
蒼は、首を横に振った。
「涼子さんが、ちゃんと自分の気持ちに向き合って、正直に話してくれた。それだけで、僕は十分です」
二人の間に、これまでの緊張が、少しずつ解けていく空気が流れた。
***
だが、その安堵も、束の間だった。
翌週、桐谷から、涼子に、思いがけない申し出があった。
「早坂さん、プレゼンの後、少し話がしたい。二人きりで」
本社でのプレゼンを無事に終えた後、桐谷は涼子を、静かな個室のある店に誘った。仕事の打ち上げという名目だったが、その場の空気は、明らかに、業務の延長とは違うものだった。
「今日のプレゼン、素晴らしかった。上層部の反応も、かなり良かったよ」
「桐谷さんのサポートのおかげです」
「いや、早坂さんの実力だ。本当に、誇らしいよ」
桐谷は、グラスを傾けながら、静かに涼子を見つめた。
「早坂さん。前から、聞きたかったことがあるんだ」
「なんでしょう」
「新人の頃、俺のことを、どう思ってた?」
その問いに、涼子は、思わず息を呑んだ。
「……どういう、意味でしょうか」
「勘違いだったら、悪いんだが」
桐谷は、少し言葉を選びながら、続けた。
「早坂さんが、俺に対して、単なる先輩以上の感情を、持ってくれてたんじゃないかって。当時から、なんとなく、感じてたんだ」
涼子の心臓が、大きく跳ねた。十二年間、誰にも打ち明けたことのなかった秘密を、今、桐谷自身が言い当てていた。
「……気のせいでは、ないと思います」
涼子は、正直に答えた。もう、ごまかす必要はないと感じた。
「あの頃の私は、桐谷さんに、憧れ以上の気持ちを、持っていました。でも、桐谷さんには、奥さんがいらっしゃったから、その気持ちは、絶対に表には出せませんでした」
「……そうか」
桐谷は、静かに頷いた。その表情には、どこか安堵と、それ以上の何かが、入り混じっているように見えた。
「実は、俺も」
桐谷は、少し声を落として、続けた。
「早坂さんに対して、当時から、部下以上の感情を、持ってたんだ。ただ、立場上、絶対に表には出せなかった。それに、今も、正直に言うと」
桐谷は、まっすぐに涼子を見つめた。
「今も、早坂さんに対する気持ちは、消えてないんだ」
その言葉に、涼子は、大きく動揺した。
「桐谷さん、私には、大切な人がいます。前にも、お伝えしたはずです」
「わかってる。無理に、どうこうしようというつもりはない。ただ、俺の正直な気持ちだけは、伝えておきたかったんだ」
桐谷は、静かに、しかし、決して軽くはない重みを持って、そう告げた。
涼子は、その言葉に、はっきりと拒絶の意思を示さなければならないと感じた。
「桐谷さん、私は、蒼くんを選びました。桐谷さんへの気持ちは、あくまで、過去のものです。これからも、仕事のパートナーとして、尊敬していますが、それ以上の関係を、望むことはできません」
涼子の声には、確かな強さが宿っていた。桐谷は、しばらく涼子の顔を見つめた後、静かに頷いた。
「……わかった。早坂さんの気持ち、しっかり受け止めるよ」
だが、その言葉とは裏腹に、桐谷の目には、まだ何かが、消えずにくすぶっているように、涼子には見えた。
店を出た後、涼子は、重い気持ちを抱えたまま、一人、夜道を歩いた。
――これで、はっきりさせられたはず。でも、桐谷さんは、本当に、諦めてくれるだろうか。
答えの出ない不安を抱えながら、涼子は、蒼への想いを、改めて強く心に刻んでいた。
(第16話へ続く)




