第14話「急な呼び出し」
涼子との間に、初めて本格的なわだかまりが生まれてから、蒼は落ち着かない日々を送っていた。
涼子から「時間がほしい」と言われて以来、二人の間には、以前のような自然な距離感が戻っていなかった。
そんな折、蒼のスマートフォンに、白石から一本の電話が入った。夜の九時を過ぎた頃だった。
「神谷さん、すみません、こんな時間に」
白石の声には、いつもの余裕とは違う、切迫した響きがあった。
「白石先生、どうされました」
「実は、担当患者さんの容体が急変して、緊急の対応に追われていて。新薬の副作用に関する、最新のデータを、至急確認したいんです。会社の資料室に行けば、あるでしょうか」
蒼は、時刻を確認した。すでに営業所は閉まっている時間だった。だが、患者の容体に関わる話となれば、対応を後回しにするわけにはいかない。
「今から、資料室に向かいます。データが揃い次第、すぐにお送りします」
蒼は、急いで営業所に戻り、必要なデータを探し出した。副作用に関する詳細な臨床データをまとめ、白石に送付する。
『ありがとうございます、助かりました。今、対応できています』
しばらくして、そんな返信が届いた。蒼は、ひとまず安堵した。
だが、翌日、蒼は思わぬ事実を知ることになる。
「昨日の緊急対応の件、うちの薬剤部にも確認したんですが、そこまで切迫した状況ではなかったみたいですよ」
同僚のMRから、そんな話を聞かされたのだ。蒼は、違和感を覚えたが、それ以上、深く追及することはしなかった。
***
数日後、白石から改めて連絡が来た。
『先日は、本当にありがとうございました。神谷さんの迅速な対応のおかげで、患者さんも無事に落ち着きました。お礼をさせてください』
『お礼なんて、業務ですから、必要ありません』
蒼は、そう返信したが、白石は引かなかった。
『そう言わずに。今度の週末、お食事だけでも。もちろん、業務の延長として、担当エリアの先生方との関係構築という名目でも構いません』
その言い回しに、蒼は、白石の意図を、改めて感じ取った。だが、断りきる理由を、うまく見つけられずにいた。担当医師との関係を、無下に扱うわけにもいかない。
蒼は、涼子に相談しようかと考えたが、今の二人の間には、まだ微妙な距離があった。桐谷とのことで、涼子自身が悩んでいる最中に、白石のことで相談を持ちかけるのも、気が引けた。
結局、蒼は、他のメンバーも交える形での食事会を提案し、その週末、坂本を含めた三人での食事となった。
***
食事の場で、白石は終始、蒼に対して積極的だった。坂本が同席していることもあり、露骨な態度は見せなかったが、その言葉の端々に、業務の範囲を超えた親密さを匂わせるものがあった。
「神谷さんって、本当に誠実な方ですよね。こんなに患者さんのことまで真剣に考えてくれるMRさん、なかなかいません」
「担当している以上、当然のことです」
蒼は、あくまで業務的な態度を崩さなかった。だが、食事の帰り際、白石は蒼を、こっそりと呼び止めた。
「神谷さん、少しだけ」
坂本が先に店を出た後、白石は、蒼にまっすぐな視線を向けた。
「私、神谷さんのこと、本気で気になってます。今、お付き合いされている方がいるのは、なんとなく察してます。でも、正直に言わせてください」
白石の声には、これまでの余裕とは違う、真剣な響きがあった。
「私、こういう回りくどいアプローチ、あまり好きじゃないんです。だから、はっきり言います。神谷さんのこと、一人の男性として、好きです」
その率直な告白に、蒼は、一瞬、言葉を失った。
「白石先生」
「お返事は、今すぐじゃなくていいです。ただ、私の気持ちだけは、ちゃんと伝えておきたかった」
白石は、それだけ言うと、静かに微笑んで、その場を後にした。
一人残された蒼は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
***
その夜、蒼は、白石とのやり取りを涼子に伝えるべきか、迷い続けていた。だが、坂本の「隠し事は、後々、大きな溝になる」という言葉を思い出し、意を決して、涼子に電話をかけた。
「涼子さん、少し、話したいことがあって」
「……なに?」
涼子の声には、まだ、桐谷とのことで、どこかぎこちなさが残っていた。蒼は、深呼吸をしてから、白石とのやり取りを正直に伝えた。担当医師からのアプローチ、そして今夜の告白まで、すべてを包み隠さず話した。
「……そう。そんなことが、あったのね」
涼子の声には、驚きと、かすかな緊張が滲んでいた。
「白石先生には、はっきりお断りするつもりです。涼子さん以外に、気持ちが動くことはありません」
蒼の言葉に、涼子は、しばらく沈黙した後、静かに答えた。
「……ありがとう。正直に話してくれて」
「涼子さんにも、聞きたいことがあります」
蒼は、思い切って、切り出した。
「桐谷さんとのこと、涼子さんの中で、どうなってるのか。ちゃんと、聞かせてほしいです」
涼子は、電話越しに深く息を吸う気配がした。
「……蒼くんが、白石先生のこと、正直に話してくれたんだから、私もちゃんと話す」
涼子の声には、覚悟のようなものが宿っていた。
「今度、直接会って話しましょう。私も、自分の気持ちをちゃんと整理して」
「わかりました」
電話を切った後、蒼は、しばらくスマートフォンの画面を見つめ続けていた。互いに抱えていた、言えなかったことが、ようやく、少しずつ表に出始めていた。
だが、それが、二人の関係にとって、良い方向に働くのか、それとも、決定的な亀裂を生むのか、この時の蒼には、まだわからなかった。
窓の外、五月の夜空には、いつもより多くの雲が、静かに流れていた。
(第15話へ続く)




