第13話「揺れる心」
五月に入り、桐谷は月に一度のペースで、涼子の営業所を訪れるようになっていた。
関西エリアと東京エリアの連携強化という名目で、統括所長として、営業戦略のすり合わせを行うためだった。
「早坂さんの営業所は、本当によく回ってるな。特に、この新薬の導入戦略、他のエリアにも展開できないか、本社に提案しようと思ってる」
桐谷は、涼子が練り上げた戦略資料に目を通しながら、感心したように言った。
「桐谷さんに褒めていただけると、励みになります」
涼子も、久しぶりに仕事の話で心から盛り上がる相手を得て、素直に嬉しさを感じていた。蒼との関係では得られない、同じ土俵で切磋琢磨してきた者同士の独特の一体感があった。
「今度、この戦略について、本社でプレゼンする機会を作ろうと思う。早坂さんに、一緒に登壇してもらえないか」
「私が、ですか」
「ああ。早坂さんの実績を、もっと上に見てもらういい機会だ。所長止まりじゃなく、その先を目指してもいいんじゃないか」
桐谷の言葉には、涼子のキャリアを本気で応援する響きがあった。涼子は、久しぶりに、仕事人としての自分を、真正面から評価されているという実感を得ていた。
「ぜひ、やらせてください」
涼子は、迷わず頷いた。
***
それから、涼子と桐谷は、プレゼン資料の準備のため、頻繁に連絡を取り合うようになった。夜遅くまで、電話やメッセージでのやり取りが続くこともあった。
「早坂さん、今日もありがとう。おかげで、いい資料になりそうだ」
『こちらこそ、勉強になります』
涼子のスマートフォンには、桐谷とのやり取りの履歴が、日に日に増えていった。だが、涼子はそれを、あくまで仕事上の付き合いだと、自分に言い聞かせていた。
その一方で、蒼との時間は、以前より減っていた。互いの仕事が忙しくなったことに加え、涼子自身、桐谷とのプレゼン準備に無意識のうちに多くの時間を割くようになっていた。
「最近、忙しそうですね」
ある夜、久しぶりに会えた蒼が、涼子に尋ねた。
「桐谷さんと、本社でのプレゼンの準備をしてて。ちょっと立て込んでる」
「桐谷さんと、頻繁に連絡取ってるんですか」
蒼の声に、わずかな緊張が混じっていた。涼子は、その微妙な変化に気づかず、あっさりと答えた。
「そうね。仕事の話だから、しょっちゅう連絡取ってる。桐谷さん、本当に頼りになる人で、色々勉強させてもらってる」
涼子の言葉には、悪気はなかった。だが、その屈託のなさが、かえって蒼の不安を煽った。
「涼子さんが、そんなに嬉しそうに誰かの話をするの、久しぶりに見た気がします」
蒼の言葉に、涼子は、初めてはっとした。
「……そんな、大げさな」
「大げさじゃないです。仕事の話をしてるときの涼子さんの顔、すごく生き生きしてます。それが、悪いことだとは思いません。でも」
蒼は、言葉を選びながら、続けた。
「僕といるときより、桐谷さんの話をしてるときの方が、楽しそうに見えるのは、正直、複雑です」
その言葉に、涼子は、思わず言葉を失った。自分では気づいていなかった感情を、蒼に指摘された気がした。
「そんなつもりは、ないんだけど……」
「わかってます。涼子さんが、そんなつもりじゃないってことは。でも」
蒼の声には、これまでにない、率直な不安が滲んでいた。
「桐谷さんのこと、涼子さんから、あまり詳しく聞いたことがないんです。ただの先輩だってことは、わかってます。でも、それ以上の何かがあるんじゃないかって、正直、思うことがあります」
蒼の言葉は、涼子の胸に、鋭く突き刺さった。図星だったからだ。桐谷への、若い頃の淡い想いの記憶。そして、離婚したと聞かされたときの、自分でも説明のつかない胸のざわめき。それらを、涼子は、まだ蒼に話せていなかった。
「……蒼くん」
涼子は、慎重に言葉を選びながら、答えた。
「桐谷さんは、確かに、新人時代にお世話になった、大切な先輩。それは事実。でも、今のあなたへの気持ちと、桐谷さんへの気持ちは、全然違うものだから」
「本当に、そうですか」
蒼の問いかけには、これまでにない鋭さがあった。
「涼子さんが、桐谷さんの前でだけ見せる顔があるんじゃないかって、僕には、そう見えます」
涼子は、何も言い返せなかった。蒼の指摘は、涼子自身、うすうす気づいていながら、目を逸らしていた事実を、正確に突いていた。
「……少し、時間をちょうだい。自分の気持ちを、ちゃんと整理したい」
涼子の言葉に、蒼は、複雑な表情を浮かべながらも、静かに頷いた。
「わかりました。でも、涼子さん」
「なに」
「僕は、涼子さんに、嘘をついてほしくないんです。自分自身にも、僕にも」
その言葉を残して、蒼は帰っていった。一人残された涼子は、リビングのソファに深く座り込み、静かに考え込んだ。
――私は、桐谷さんに対して、本当に、ただの尊敬だけを、感じているのだろうか。
その問いに、涼子は、すぐには答えを出せなかった。桐谷との仕事は、確かに、涼子にとって、久しぶりに感じる、純粋な達成感と高揚感をもたらしていた。それが、桐谷という「人」に対する感情なのか、それとも、仕事上のパートナーシップに対する感情なのか、涼子自身、うまく切り分けられずにいた。
スマートフォンが鳴った。桐谷からのメッセージだった。
『今日もありがとう。早坂さんと仕事をしてると、新人時代を思い出すよ。あの頃の情熱、今も変わってないんだな』
そのメッセージに、涼子は、素直に嬉しさを感じている自分がいた。だが同時に、その嬉しさに、罪悪感にも似た、居心地の悪さも覚えていた。
涼子は、返信をしばらく打てないまま、スマートフォンの画面を見つめ続けていた。
窓の外、五月の夜風が、少しだけ湿り気を帯びて、部屋の中に流れ込んできた。
(第14話へ続く)




