第12話「誘い」
中央総合病院への定期訪問が、蒼の担当業務の中で、少しずつ様子を変え始めていた。
「神谷さん、今日の説明会資料、とてもわかりやすかったです」
白石美咲は、蒼が新薬の説明を終えるたびに、そう言って、丁寧に感想を伝えてくるようになった。他の医師への対応とは、明らかに違う熱心さだった。
「ありがとうございます。何か、ご不明な点があれば、いつでもご連絡ください」
蒼は、あくまで業務的な態度を崩さないよう、努めていた。だが、白石の視線には、単なる業務上の関心以上のものが、次第に色濃く滲むようになっていた。
「神谷さんは、いつも丁寧ですね。他のMRさんとは、少し違う印象があります」
「そう言っていただけると、光栄です」
「今度、この新薬について、もう少し詳しく勉強会をしていただけませんか。個人的にも、興味があって」
白石の申し出は、業務の範囲内のものだった。断る理由もなく、蒼は快く引き受けた。
***
勉強会は、病院の会議室で、就業後の時間に行われた。二人きりの空間で、蒼は白石に、新薬の作用機序や、臨床データについて、丁寧に説明を続けた。
「神谷さんの説明、本当にわかりやすいです。他の会社のMRさんとは、全然違います」
「そうですか。ありがとうございます」
説明が一通り終わると、白石は資料を閉じ、蒼にまっすぐな視線を向けた。
「神谷さんって、今、お付き合いされている方、いらっしゃるんですか」
唐突な質問に、蒼は一瞬、答えに詰まった。
「……プライベートなことは、あまりお話ししないようにしているので」
「あら、ごめんなさい。でも、素敵な方だから、気になってしまって」
白石は、悪びれる様子もなく、軽やかに笑った。だが、その笑顔の奥に、蒼は、ただの世間話ではない何かを感じ取っていた。
「実は私、この街に来て、まだ友人も少なくて。神谷さんとは、仕事の話以外でも、色々お話ししたいなって思ってるんです」
その言葉は明らかに、業務の範囲を超えていた。蒼は、慎重に距離を取ろうとした。
「白石先生、僕は、担当のMRとしての立場がありますので……」
「わかってます。ただの、個人的な興味です。プレッシャーに感じないでくださいね」
白石はそう言って、それ以上深追いはしなかった。だが、蒼の中にはかすかな戸惑いと、警戒心が芽生えていた。
***
その週末、蒼は涼子と、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごしていた。涼子のマンションで、二人で夕食を作りながら、他愛のない会話を交わす。
「最近、中央総合病院の白石先生の対応で、時間が取られてるみたい」
涼子が、何気なく尋ねた。営業所内の業務報告で、蒼が同じ病院に頻繁に足を運んでいることに、気づいていたようだった。
「新任の先生で、勉強熱心な方なんです。新薬について、色々質問されることが多くて」
蒼は、あえて詳しくは話さなかった。白石の個人的なアプローチについて、涼子にどう伝えるべきか、まだ判断がつかなかった。変に警戒させたくない、という気持ちと、隠し事をしたくない、という気持ちが、蒼の中でせめぎ合っていた。
「勉強熱心なのは、いいことね。担当医師との関係も、大事な仕事の一つだから」
涼子は、特に疑う様子もなく、そう言った。だが、涼子自身、桐谷とのことで、蒼に話していないことがあった。互いに、少しずつ、言えないことを抱え始めていることに、二人ともまだ気づいていなかった。
***
翌週、白石からのアプローチは、さらに積極的になった。
「神谷さん、今度、学会で東京に行くんです。よかったら、その時、食事でもご一緒しませんか。業務の延長線上ということで」
メッセージには、そう書かれていた。蒼は、返信に迷った。担当医師としての関係を維持する上で、無下に断ることも難しい。だが、白石の意図が単なる業務上のものでないことはもはや明らかだった。
蒼は、しばらく考えた末、返信した。
『ご予定が合えば、業務の一環として、他のメンバーも交えた形でご一緒させていただければと思います』
やんわりと、しかし、はっきりと一線を引いた返信だった。しばらくして、白石から返信が来た。
『神谷さんらしいお返事ですね。それでも構いません。楽しみにしています』
その返信には、諦めた様子は見られなかった。むしろ、蒼の誠実な対応を、面白がっているようにも感じられた。
蒼は、スマートフォンの画面を見つめながら、小さくため息をついた。
――厄介なことに、なりそうだ。
だが、それを涼子にどう伝えるべきか、蒼はまだ答えを出せずにいた。
***
その夜、蒼は営業所の帰り、坂本と二人きりになる機会があった。
「神谷、最近、白石先生の対応で大変そうだな」
坂本の言葉に、蒼は苦笑した。
「気づいてましたか」
「まあな。あの先生、勉強熱心なのは本当だが、それだけじゃないってのは周りも薄々気づいてるよ」
坂本は、少し声を落として続けた。
「お前、所長のこと、大事にしてるんだろう。だったら、はっきりさせるところは、はっきりさせておいた方がいいぞ。曖昧な態度は、相手にも所長にも失礼になる」
坂本の言葉は、蒼の胸に、重く響いた。
「……わかってます」
「所長にも、ちゃんと話しておけよ。隠し事は、後々、大きな溝になるからな」
坂本のその言葉を、蒼は、深く胸に刻んだ。
その夜、蒼は涼子に、白石とのやり取りについて、正直に打ち明けることを決意した。だが、電話をかけた涼子の声は、どこか上の空で、いつもと少し違って聞こえた。
「涼子さん、大丈夫ですか。なんだか、様子が」
「……ごめん、大丈夫。ちょっと、考え事してただけ」
涼子の声の奥に、桐谷とのやり取りの記憶が、まだ静かに揺れていることを、蒼は知る由もなかった。
二人は、互いに、まだ言えないことを抱えたまま、それぞれの夜を過ごしていた。
(第13話へ続く)




