第7話『動かせないもの』
金属が軋む音がした。
高梨美咲は、玄関から一歩後ずさった。
鍵はかけてある。
ドアチェーンも外していない。
それなのに、扉の向こうでは、何か硬いものが金属を押し曲げるような音を立てていた。
「……何をしてるんですか」
返事はなかった。
代わりに、鈍い音が響いた。
玄関の錠のあたりが大きく震える。
「……っ!」
美咲はスマートフォンを握りしめた。
「月成さん!」
『はい! 聞こえてます!』
電話の向こうから、千景の声が返ってくる。
『今、九階に上がってます! 玄関から離れてください!』
「でも、ドアが……!」
がちゃん、と何かが外れる音がした。
扉が、わずかに開く。
美咲は思わず手を伸ばし、内側から押し戻そうとした。
だが、扉は途中で止まった。
隙間から見えたチェーンの留め具が、大きく歪んでいる。
もう一度、強い力が加わった。
留め具が外れ、扉が半分ほど開いた。
「……いやっ!」
美咲は両手で扉を押した。
閉まらない。
向こう側の男は、すでに手を離している。
それなのに、扉は何かに支えられているように、その位置から動かなかった。
「……どうして」
「無理ですよ」
男が、穏やかな声で言った。
「今は動きませんから」
美咲は扉から手を離した。
男の足が、敷居へ近づく。
「……来ないで!」
『高梨さん!』
電話から千景の声が響いた。
『奥へ下がって! すぐ行きます!』
美咲は後ずさった。
男が、玄関へ足を踏み入れようとした。
◇
エレベーターの扉が開いた。
千景は、開ききるのを待たずに飛び出した。
B棟の九階は、片側に住戸が並び、その向かいが手すりになった外廊下だった。
廊下はエレベーターから奥へ、ほぼ一直線に延びている。
高梨美咲の部屋は、その途中にある。
手すりの向こうには、八メートルほど離れてA棟が建っていた。
千景は廊下の奥を見た。
高梨の玄関が、半開きになっている。
その前に、暗い作業着姿の男が立っていた。
「……何してんの!」
男が振り返った。
三十代半ばほどの、細身の男だった。
千景たちの姿を見ても、慌てた様子はない。
「……どちら様ですか」
「こっちの台詞!」
千景は走った。
男は玄関から身体を離し、こちらへ向き直る。
そして、千景が走ってくる手すり側へ一歩移動した。
進路を塞ぐつもりなのだろう。
だが、その動きは千景にとって好都合だった。
「……そこ!」
千景は右手を伸ばした。
男と自分の間に、見えない境界が生まれる。
月成の異能。
領域を定め、その内側を守る力。
男が伸ばした腕が、何もない空間で止まった。
「……っ?」
予想もしなかった抵抗に、男が足を止める。
千景はその隙に進路を変えた。
男は手すり側に寄っている。
反対の住戸側、壁沿いにはまだ通れる幅があった。
千景は領域の境界を男との間に保ったまま、壁際を駆け抜ける。
男が追って身体を向けた。
しかし、その進路も見えない境界に遮られた。
「……何だ、これは」
千景は答えなかった。
男の横を抜け、玄関前まで走る。
続いて律が、千景の作った安全な側を通り抜けた。
千景は振り返り、領域の境界を廊下の幅に沿って張り直す。
これで位置関係が変わった。
エレベーター側に男。
その奥に千景と律。
さらに奥が高梨の玄関だ。
男が部屋へ戻るには、千景の領域を越えなければならない。
「律! 高梨さんを!」
「はい!」
律が玄関へ向かう。
「高梨さん!」
「……はい!」
室内から声が返ってきた。
「竟宮です。月成さんと一緒に来ました」
「……助けてください!」
「ええ。こちらへ」
律は半開きの扉を抜け、室内へ入った。
千景は男から目を離さなかった。
「……管理会社の人じゃないよね」
「そう言われると困りますね」
「高梨さんの部屋、無理やり開けたでしょ」
「必要がありましたので」
「何の必要?」
「仕事ですよ」
男はあっさり答えた。
千景は顔をしかめる。
「……人の家に押し入るのが?」
「事情がありまして」
「聞きたくない」
男は小さく笑った。
そして、千景の前に広がる何もない空間を見つめる。
「……なるほど」
その目が、わずかに細くなった。
「あなたも、こちら側の人間ですか」
千景は答えなかった。
だが、内心では警戒を強めていた。
この男は、異能の存在を知っている。
◇
「高梨さん、大丈夫ですか」
律が尋ねる。
美咲は何度も頷いた。
だが、その手は震えていた。
「……あの人、ドアを……」
「見ました。錠も壊されていますね」
律は玄関を確認した。
錠の受け金具が歪み、チェーンの留め具も外れている。
扉そのものには、こじ開けられた痕跡が残っていた。
だが、それだけでは説明できないことがある。
扉は、半開きの位置からまったく動いていない。
通常なら、ドアクローザーの力で閉じようとするはずだった。
「……高梨さん」
「はい」
「先ほど、この扉を押しても閉まらなかったんですね?」
「……はい。全然、動かなくて」
「分かりました」
律は頷いた。
そして、玄関の外へ目を向ける。
千景が男と向き合っている。
男は領域の向こう側に立ったままで、玄関には近づけない。
扉にも触れていなかった。
律は、もう一度扉を見た。
「……千景さん」
「何?」
「扉が、普通の状態ではありません」
「……うん。高梨さんも、閉められなかったって」
「ええ。ですが、あの男はもう触れていない」
千景はちらりと扉を見た。
「……触らなくても、止められるってこと?」
「可能性はあります」
律が答えた。
「ただ、どういう条件なのかは、まだ分かりません」
そのとき。
ぎい、と小さな音がした。
扉が、ゆっくり動き始めた。
「……あれ?」
千景が振り返る。
男は相変わらず領域の向こう側にいる。
扉には触れていない。
それなのに、先ほどまで動かなかった扉が、ドアクローザーの力で閉まり始めていた。
律が室内側から扉を押さえた。
今度は普通に動く。
「……なるほど」
律が呟いた。
「何か分かった?」
「少なくとも、固定された状態がずっと続くわけではないようです」
「……時間制限?」
「その可能性が高いですね」
律は頷いた。
「正確な時間は分かりませんが、男が扉から手を離して、それほど長くは経っていません」
千景は男を見た。
男は二人の会話を聞いていた。
そして、小さく息を吐く。
「……よく見ていますね」
「ありがとうございます」
律は丁寧に答えた。
「いや、律。今はお礼言わなくていいから」
「そうですか」
いつも通りの口調だった。
千景は、少しだけ肩の力が抜けた。
男は足元に置いていた工具ケースを持ち上げた。
小さな金属製のケースだった。
片手で持てる程度の大きさだ。
「……何する気?」
千景が身構える。
男は、ケースを自分のいる側の廊下へ持ち上げた。
手すり寄りの位置。
腰ほどの高さだ。
そして、手を離した。
「……え?」
ケースは落ちなかった。
何の支えもない空中で、ぴたりと止まっている。
「……ああ」
千景は目を細めた。
「そういうこと?」
男は答えない。
工具ケースは、男と並ぶ位置に浮いていた。
男自身が住戸側を塞ぎ、ケースが手すり側を塞いでいる。
これでは、エレベーターの方へ戻ろうとしても、安全に通り抜けられない。
「……物を、動かなくする異能?」
千景が尋ねた。
「さあ、どうでしょう」
「答えなくてもいいよ。見えてるし」
男は、少しだけ笑った。
「……厄介なお嬢さんですね」
千景は顔をしかめた。
「その言い方、嫌い」
◇
律はスマートフォンを確認した。
喬本から連絡が届いていた。
『A棟九階に到着しました』
律は短く返信する。
『まだ橋は架けないでください。合図を待ってください』
B棟へ向かう前に、喬本には管理担当者と一緒にA棟へ回ってもらっていた。
通常の避難経路が使えなくなった場合に備えるためだ。
ただし、あの橋は簡単に使えるものではない。
律は廊下を見た。
エレベーター側には男がいる。
千景はその手前に境界を作り、高梨美咲を守っている。
このまま警察が到着するまで待つのが、最も単純な方法だ。
だが、律には一つ気になることがあった。
男は、千景の領域を突破しようとしていない。
何度か境界へ触れ、それ以上近づけないと分かると、あっさり手を引いた。
今はただ、こちらを見ている。
まるで、待っているようだった。
「……千景さん」
律が声を落とした。
「何?」
「領域は、どのくらい維持できますか」
「……え?」
「この状態のまま、という意味です」
千景は少し考えた。
「ずっとは無理かな。広げっぱなしにしてると疲れるし」
「そうですか」
律は頷いた。
やはり。
男は、それを待っているのかもしれない。
千景が疲れる。
領域が弱まる。
その瞬間に、高梨美咲を確保する。
それなら、今の位置を動く必要はない。
男の方が有利になるまで待てばいいのだ。
「……律?」
千景が呼びかけた。
「はい」
「もしかして、待ち伏せされてる?」
「そう考えています」
「……だよね」
千景は男を見た。
男は、こちらの話を聞いているはずだった。
それでも表情を変えない。
「……こっちが疲れるまで待つつもり?」
千景が直接尋ねた。
男は少し首を傾げた。
「無理をする必要はありませんからね」
「……性格悪いなあ」
「お互い様では?」
「違うと思うけど」
千景は言い返した。
律は、そのやり取りを聞きながら考えた。
こちらが守り続ければ、男は待てばいい。
こちらが逃げようとすれば、男は出口を塞げばいい。
男の異能は、防御や妨害に適している。
ただし。
律は、宙に浮いた工具ケースを見た。
あの男は、ケースに触れてから手を離した。
玄関の扉も、触れていたあとで動かなくなった。
どちらも、自分の手が届く場所にあった物だ。
そして、扉の固定は時間が経つと解けた。
ならば。
「……千景さん」
「何?」
「相手の異能は、遠くにある物まで自由に固定できるわけではないと思います」
「……どういうこと?」
「今のところ、男が直接触れた物しか固定されていません」
千景は、工具ケースを見た。
「……ああ」
「ですから、相手が触れられない場所まで離れれば、少なくとも今見ている方法では妨害しにくくなる」
「……なるほど」
千景は、小さく頷いた。
そこで、律が続けた。
「普通の出口は塞がれています」
「うん」
「ですが、出口は一つとは限りません」
千景は、律の視線を追った。
外廊下の手すり。
その向こうに、A棟がある。
「……ああ」
千景の口元が、少しだけ上がった。
「そっか」
◇
「高梨さん」
律は美咲へ向き直った。
「これから、別の方法で避難します」
「……別の方法?」
「ええ。少し驚くかもしれません」
美咲は、不安そうに律を見た。
「……あの人、どうするんですか」
「千景さんが防いでいます」
「でも……」
「ここに留まるより、離れた方が安全だと判断しました」
美咲は、しばらく律を見つめていた。
そして、ゆっくり頷く。
「……分かりました」
律はスマートフォンを操作した。
『橋をお願いします。B棟側の接続点は、高梨さんの玄関より廊下の奥側にしてください』
送信。
すぐに返信が届く。
『分かりました』
律は顔を上げた。
「千景さん」
「うん」
「準備できました」
千景は頷いた。
男はエレベーター側にいる。
こちらが向かうのは、その反対側。
高梨の玄関を越え、廊下の奥側にある手すりだ。
そこなら男の前を通る必要がない。
「……高梨さん、こっち!」
千景が呼びかける。
律が美咲を玄関から連れ出した。
美咲は千景の背後を通り、廊下の奥へ移動する。
その間も、千景は男との間に境界を張り続けていた。
男は三人の動きを見た。
「……そちらには、出口はありませんよ」
千景は振り返らずに答えた。
「そうだね」
「……分かっていて行くんですか」
「うん」
男は、少しだけ眉を寄せた。
千景は、律と美咲が手すりへ近づいたことを確認する。
そして、男を見た。
「……ねえ」
「何でしょう」
「物を動かなくするって、便利だよね」
「それほどでもありませんよ」
「でもさ」
千景は小さく笑った。
「動かないものだけじゃ、追いかけられないでしょ」
男は、わずかに目を細めた。
千景は答えを待たなかった。
「律!」
「はい!」
律がスマートフォンを操作した。
◇
A棟九階の点検テラス。
喬本直人は、B棟を見つめていた。
八メートル先の外廊下。
そこに、千景と律、高梨美咲の姿がある。
さらに離れた位置には、暗い作業着の男がいた。
喬本は唇を噛んだ。
佐伯が死んでも、終わらなかった。
別の人間が、高梨美咲を連れ去ろうとしている。
自分が佐伯を殺したところで、組織そのものは何も変わっていなかったのだ。
「……喬本さん」
隣にいる管理会社の担当者が声をかけた。
月成家の事情を知る、数少ない関係者の一人だった。
「準備は?」
「……できています」
喬本は答えた。
手が震えている。
怖いのだ。
この力で、もう一度橋を架けることが。
三日前。
同じように橋を架けた。
そして、自分の意思で消した。
佐伯俊一が、橋の途中にいるときに。
喬本は目を閉じた。
あのときのことは、消えない。
どんな事情があったとしても。
だが、今は違う。
向こう側には、助けを待っている人がいる。
スマートフォンが震えた。
律からの連絡だった。
『今です』
喬本は、ゆっくり両手を伸ばした。
A棟の点検テラスから、B棟へ。
何もない空間に、一本の道が現れた。
◇
「……え?」
美咲が声を漏らした。
目の前に、道が伸びていた。
空中に。
何の支えもなく。
向かいの建物から、こちらへ向かって。
「……嘘」
美咲は手すりを掴んだ。
「何、これ……」
律が答えた。
「渡るための橋です」
「……橋?」
「ええ」
美咲は律を見た。
「……でも、こんなの……!」
「怖いと思います」
律は頷いた。
「僕も、できれば使いたくありません」
美咲の顔が引きつった。
「……そんな……」
「ですが、ここから離れるには、これが最も確実な方法だと考えています」
律は橋を見た。
細い。
手すりもない。
幅は、人が一列になって歩く程度。
だが、A棟とB棟の間を確かにつないでいる。
「……千景さん」
律が呼びかける。
「うん」
「三人で渡ることはできますか」
千景は、橋を見た。
「……喬本さんが支えられるのって、大人二人くらいだよね」
「そう聞いています」
「だったら、そのまま三人で乗るのは危ない」
「ええ」
律は頷いた。
「ただ、千景さんなら橋にかかる荷重を変えられますね」
「……うん」
千景は答えた。
そして、少し考えてから首を傾げる。
「……でもさ」
「はい?」
「別に、重力を弱くする必要はないんじゃない?」
律が千景を見る。
「……というと?」
「向きを変えればいいでしょ」
千景は橋を指さした。
「今は真下に引っ張られてるから、その分だけ橋に重さがかかるんだよね」
「……ええ」
「だったら、重力を斜めにすればいい」
千景は、A棟へ向かって手を伸ばした。
「例えば、あっちに向けるとか」
律は、少しだけ目を見開いた。
そして、橋を見た。
「……なるほど」
すぐに意味を理解した。
重力の向きを真下から傾ければ、橋を押す下向きの力が減る。
同時に、A棟へ向かって引っ張る力が生まれる。
橋への負担軽減と移動の補助。
二つを同時に行える。
「……それなら、三人でも渡れそうですね」
「でしょ?」
千景は笑った。
だが、律はすぐに続けた。
「ただし、向きを大きく変えれば、横方向へ強く加速します」
「うん」
「そのままでは、向こう側へ勢いよくぶつかることになりますね」
「分かってるよ」
千景は肩をすくめた。
「途中で逆向きにすればいいんでしょ。加速した分、ちゃんと減速する」
律は、少しだけ千景を見た。
「……普段から、そういう使い方を?」
「するよ。走るときとか」
「そうでしたか」
「ただ、三人まとめてやるのは初めてだけどね」
千景は、改めて橋を見た。
重力の向きを変えること自体は難しくない。
前に向ければ加速する。
逆に向ければ減速する。
横へ向ければ、身体は横へ引かれる。
普段から使っている操作だった。
だが、今回は自分一人ではない。
異能を持たない律と、何が起きているのかも分からない美咲がいる。
しかも、場所は地上九階。
加速と減速のタイミングを誤れば、取り返しがつかない。
「……ちょっと慎重にいこうか」
千景が言った。
律は頷いた。
「ええ。お願いします」
千景は、橋へ意識を向けた。
月成の領域。
その内側では、重力の強さだけでなく、働く方向そのものを変えられる。
千景は領域を細く伸ばした。
B棟の手すりから、橋の上へ。
さらに、向こう側のA棟まで。
橋を包むように、境界を作る。
手すりのない両側には、転落を防ぐための見えない壁を設けた。
そして、その内側に働く重力の向きを、少しずつ傾けていく。
真下から、A棟の方向へ。
橋を押す力が軽くなる。
代わりに、身体を前へ引く力が生まれる。
千景は、すぐにその向きを戻した。
まだ誰も橋には乗っていない。
今は、制御できる範囲を確認しただけだ。
「……よし」
小さく呟く。
「これなら、いける」
ただし、一つ問題が残っていた。
古賀を防いでいる境界だ。
橋の重力を操作しながら、廊下の防御も維持しなければならない。
千景は、男の方を見た。
男は、橋をじっと見つめている。
「……なるほど」
ゆっくりと呟いた。
「佐伯さんが話していた橋というのは、これですか」
その言葉に、喬本が顔を上げた。
「……佐伯さんを?」
男は喬本を見た。
「あなたが、橋を架ける人なんですね」
喬本は答えなかった。
男は小さく息を吐く。
「……困りましたね」
「こっちは、困ってないけど」
千景が答えた。
「高梨さんを連れていかれると、仕事にならないんですよ」
「だったら、仕事失敗だね」
千景は、少し笑った。
「残念でした」
男の目が細くなった。
◇
「……律」
千景が呼びかけた。
「はい」
「先に高梨さんをお願い」
「分かりました」
律は美咲の腕を取った。
「高梨さん。まず僕が橋に乗ります」
「……はい」
「手すりを越えるときは、ゆっくりで大丈夫です」
美咲は頷いた。
律は外廊下の手すりを掴み、慎重に片足を上げた。
橋の端は、手すりの向こう側に接している。
乗るには、手すりを越えなければならない。
靴底が橋に触れた。
律は少しずつ体重を移す。
確かな抵抗があった。
「……大丈夫です」
律が言った。
「高梨さん、手を」
美咲は震える手を伸ばした。
律がそれを掴む。
美咲は手すりを握りながら片足を上げた。
九階の高さ。
手すりの向こうには、何もない。
足が止まった。
「……無理」
かすれた声が漏れた。
「……怖い……」
千景は、後ろから声をかけた。
「高梨さん」
美咲が振り返る。
「怖いよね」
千景は、まっすぐ美咲を見た。
「でも、私もすぐ後ろから行くから」
「……」
「絶対に、一人にはしない」
美咲は、何度も息を吸った。
そして、もう一度橋を見た。
「……お願いします」
律が頷く。
「ええ」
美咲は、ゆっくりと手すりを越えた。
橋の上へ足を乗せる。
身体が小さく震える。
律は手を離さなかった。
「……ここで少し待っていてください」
「……はい」
二人は橋の入口付近に留まった。
千景が続いて手すりへ近づく。
だが、その前に振り返った。
男が、こちらへ歩いてきていた。
◇
千景は領域の境界を強めた。
男の進路が、見えない壁に遮られる。
「……っ」
千景は歯を食いしばった。
先ほどより、境界を維持するのが難しい。
橋の上にも領域を伸ばしているからだ。
男は、その変化に気づいたらしい。
「……なるほど」
ゆっくりと呟く。
「同時に使うと、負担があるんですね」
「……だから?」
千景は睨み返した。
男は、境界へ掌を押し当てた。
力を込める。
境界が、わずかに揺らいだ。
「……っ!」
千景は表情を歪めた。
男は笑った。
「……やはり」
「……しつこい!」
「こちらも、手ぶらでは帰れませんので」
男は、さらに体重をかけた。
千景は領域へ意識を集中させる。
橋の入口には律と美咲がいる。
二人は、千景を待っている。
ここで境界が崩れれば、男が橋へ近づいてしまう。
しかも、何を固定できるのか、まだすべて分かっているわけではない。
千景は、唇を噛んだ。
この男を、重力で押し返すことはできるだろう。
だが、外廊下で無闇に身体を動かせば、手すりへ叩きつけたり、転落させたりする危険がある。
高梨美咲を逃がすために、ここで誰かを殺すようなことはしたくなかった。
「……千景さん!」
橋の上から律の声が聞こえた。
「そろそろ、こちらへ!」
「……分かってる!」
千景は答えた。
だが、すぐには動けない。
手すりを越えるには、足元と身体の向きに注意しなければならない。
その間、境界の制御が乱れるかもしれなかった。
男は、間違いなくそこを狙っている。
律は橋の上から廊下を見た。
千景。
男。
その後ろには、固定が解けて床に落ちた工具ケースがある。
男は、先ほどまでケースが浮いていた場所を離れ、橋の入口へ近づいていた。
律は、少し考えた。
千景が守っているのは、廊下の広い範囲だ。
だが、今必要なのは違う。
「……千景さん!」
律が声を上げた。
「境界を、橋の入口まで下げてください!」
「……え?」
「廊下全体を守る必要はありません!」
千景は、思わず律を見た。
律は続けた。
「相手を押し返さなくても、橋に入れなければいいんです!」
千景は、一瞬だけ考えた。
男を廊下の奥まで押し返そうとしているから、広い範囲を維持しなければならない。
だが、守りたいのは廊下ではない。
橋の入口だ。
そこを越えさせなければ、高梨美咲には近づけない。
「……なるほど!」
千景は、領域の形を変えた。
男の前に広げていた境界を、少しずつ手すり側へ引き寄せる。
守る範囲を小さくする。
橋の入口を囲むように、境界を絞る。
男は、一歩前へ進んだ。
千景も後退した。
だが、境界は消えない。
むしろ、狭くなった分だけ維持しやすくなっていた。
男が、わずかに眉を寄せる。
「……なるほど」
千景は、少しだけ笑った。
「……こっちも考えてるんで」
男は答えなかった。
千景は手すりを掴んだ。
片足を橋へ伸ばす。
男が、さらに近づいた。
境界が、その進路を塞ぐ。
千景は、もう片方の足を移した。
橋の上に立つ。
「……律!」
千景が叫ぶ。
「はい!」
「高梨さん、しっかり支えてて!」
「任せてください!」
三人が橋に乗った。
先頭に律。
その後ろに美咲。
最後に千景。
千景は、領域の内側へ意識を集中させた。
「……二人とも!」
声を張る。
「これから、身体が向こう側に引っ張られるから!」
美咲が振り返った。
「……え?」
「足で走ろうとしないで! 姿勢を低くして、真ん中にいて!」
律が美咲の手を握り直した。
「高梨さん、僕の手を離さないでください」
「……はい!」
千景は、橋の上に働く重力の向きを変えた。
真下から、A棟へ向かう斜め方向へ。
足元を押す力が減る。
三人が橋にかける下向きの荷重は、通常の大人二人分を下回った。
その代わり。
「……っ!」
美咲の身体が、前へ引かれた。
律が、咄嗟にその腕を支える。
千景は、すぐに重力の向きを調整した。
A棟方向への加速を弱める。
身体の動きが落ち着いたところで、また前へ引く。
加速。
減速。
向きを変えながら、三人の移動を制御する。
まるで、橋の上を滑るようだった。
千景自身も、二人に合わせて進む。
ただし、一つだけ普段と違うことがあった。
自分一人なら、もっと速く動ける。
前方へ重力を向けて一気に加速し、目的の場所に着く直前で逆向きに切り替えればいい。
だが、今回は三人だ。
しかも、美咲は異能による移動に慣れていない。
急な加速は身体のバランスを崩す。
減速のタイミングがずれれば、律と美咲が衝突するかもしれない。
だから、少しずつ。
身体の動きを確かめながら。
千景は重力の方向を細かく切り替えた。
「……っ」
額に汗が浮かぶ。
橋の重力。
転落を防ぐ両側の境界。
そして、B棟側に残した防御。
すべてを同時に維持していた。
男が、橋の入口へ近づく。
「……っ!」
千景は、背後の境界を強めた。
男の足が止まる。
「……しぶといですね」
声が聞こえた。
千景は振り返らなかった。
今、後ろを見れば、重力制御への意識が逸れる。
「……律!」
「はい!」
「前だけ見て!」
「分かっています!」
律は美咲の手を握りながら、A棟へ視線を向けた。
橋の半分を越えた。
喬本の姿が、近づいている。
◇
喬本直人は、橋の上を見つめていた。
三人が渡っている。
通常なら、自分の力だけでは支えきれない人数だ。
だが、不思議なことに、橋への負担は思っていたより小さかった。
千景が、重力の向きを変えている。
それは理解できた。
だが、目の前で起きていることは、喬本の想像を超えていた。
三人の身体が、ゆっくりとこちらへ引かれてくる。
歩いているというより、何か見えない力に導かれているようだった。
その動きが速くなりすぎると、少し減速する。
また前へ進む。
千景は、そのすべてを制御している。
「……すごいですね」
隣の管理担当者が呟いた。
喬本は、小さく頷いた。
「……ええ」
そして、橋を見た。
二年前。
自分は、この力で人を助けた。
三日前。
自分は、同じ力で人を殺した。
そして今夜。
また、人を助けようとしている。
だが、今度は一人ではない。
自分が作った橋を、千景が支えている。
律が、美咲を導いている。
三人が、それぞれの役割を果たしている。
喬本は、ゆっくり息を吐いた。
橋を作ることができる。
そして、消すこともできる。
その力をどう使うかは、自分次第だった。
「……絶対に」
小さく呟く。
「……消さない」
喬本は、橋を支える意識を強めた。
◇
B棟の外廊下で、男は橋を見つめていた。
三人は、すでに半分以上渡っている。
今から追いかければ、間に合うかもしれない。
だが、橋の入口には見えない境界がある。
しかも、向こう側には橋を作っている人間がいる。
仮に境界を突破できたとしても、空中へ踏み出すのは危険だった。
橋そのものが、いつ消えるか分からない。
男は、手すりへ近づこうとした。
見えない境界が、その進路を遮る。
「……厄介ですね」
小さく呟く。
少女は、かなり無理をしているはずだ。
橋の重力を変えながら、こちらの進路も塞いでいる。
だが、ここで待っていても意味がない。
少女の力が尽きるころには、三人とも向こう側へ渡りきっているだろう。
男は、橋の上を見た。
千景が、こちらへ背中を向けている。
その姿からは、必死に制御を続けていることが伝わってきた。
そして、ふと気づく。
あの少女は、こちらを攻撃してこなかった。
重力を変えられるなら、自分を転ばせたり、手すりへ叩きつけたりすることもできただろう。
それをしなかった。
できないのか。
それとも、しないのか。
「……甘いですね」
男は呟いた。
だが、その甘さのおかげで助かったのは、どちらなのか。
今は考えないことにした。
背後で物音がした。
エレベーターが動いている。
階数表示が、下の階から上がってきていた。
管理会社の人間かもしれない。
警察かもしれない。
どちらにしても、長居する理由はなくなっていた。
「……仕方ありませんね」
男は、小さく息を吐いた。
そして、踵を返す。
床に置いたままの工具ケースを一度見たが、拾いには戻らなかった。
男は廊下を進み、非常階段の方へ姿を消した。
◇
「……千景さん!」
律が声を上げた。
「男が退きました!」
千景は振り返りかけた。
だが、すぐに前を向く。
橋の上で急に身体を動かすのは危険だ。
「……本当!?」
「ええ!」
「……そっか!」
千景は、ようやくB棟側の境界を解いた。
それだけで、頭にかかっていた負担が少し軽くなった。
今は、橋の重力操作だけに集中すればいい。
「……あと少し!」
千景は、自分に言い聞かせるように呟いた。
A棟の点検テラスが近づいている。
先頭の律が手すりへ近づいたところで、千景は重力の向きを変えた。
進行方向とは逆。
B棟へ向かう方向に、わずかに引く。
三人の身体が減速した。
「……っ!」
美咲が身体を揺らした。
律が、その腕を支える。
「大丈夫です。もう着きます」
「……はい!」
千景は、さらに重力の向きを調整した。
横方向への力を小さくし、徐々に普段の下向きへ戻していく。
橋にかかる荷重が増える。
だが、先頭の律は、すでにA棟の手すりを掴んでいた。
管理担当者が、手を伸ばす。
「こちらへ!」
律は慎重に身体を移し、点検テラスへ降り立った。
続いて、美咲。
喬本と律が、両側からその腕を支える。
「……ゆっくりで大丈夫です」
美咲は、震える手で手すりを握った。
足を上げる。
橋から、点検テラスへ。
その足が、確かな床に触れた。
「……っ!」
美咲は、その場に座り込んだ。
管理担当者が、すぐに身体を支える。
「大丈夫ですか」
美咲は何度も頷いた。
「……はい」
それから、涙がこぼれた。
「……よかった……」
小さな声だった。
千景は、二人が橋から降りたことを確認した。
これで、橋の上に残っているのは自分だけだ。
橋への負担を、それほど気にする必要はなくなった。
「……よし」
千景は、重力の向きをA棟へ傾けた。
身体が前へ引かれる。
足元を蹴る必要はなかった。
橋の終点へ近づいた瞬間、今度は逆向きへ。
身体が減速する。
そのまま、手すりを掴んだ。
「……っと!」
軽く身体を持ち上げ、点検テラスへ移る。
靴底が床に着いた瞬間、重力を元に戻した。
「……っはあ!」
千景は、その場に膝をついた。
息が荒い。
額には汗が浮かんでいる。
「……千景さん!」
律が駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫」
千景は、息を整えながら答えた。
「ちょっと……疲れただけ」
律は、しばらく千景を見つめていた。
「……かなり無理をしましたね」
「まあね」
千景は、少しだけ笑った。
「でも、ちゃんとできたでしょ」
律は頷いた。
「ええ」
そして、穏やかに続けた。
「お疲れさまでした」
「……律もね」
千景は笑った。
喬本は、三人が無事に渡りきったことを確認した。
そして、ゆっくり両手を下ろす。
橋が、消えた。
A棟とB棟の間には、再び八メートルの空間だけが残った。
◇
喬本直人は、何もない空間を見つめていた。
二年前。
同じ力で、人を助けた。
三日前。
同じ力で、人を殺した。
そして今夜。
また、人を助けた。
それらは、全部自分がやったことだった。
どれか一つだけを選んで、なかったことにはできない。
「……喬本さん」
千景が声をかけた。
喬本は顔を上げた。
「……はい」
「ありがとう」
喬本は、目を見開いた。
「……え?」
「橋、架けてくれて」
千景は笑った。
「おかげで、高梨さんが助かった」
喬本は、しばらく何も言えなかった。
やがて、ゆっくり顔を伏せる。
「……いえ」
小さな声だった。
「……私は、そんなことを言ってもらえる人間では……」
「それとこれとは、別でしょ」
千景が言った。
喬本は顔を上げた。
「……え?」
「佐伯さんのことは、ちゃんと責任を取らなきゃいけない」
千景は、まっすぐ喬本を見た。
「それは変わらないよ」
「……はい」
「でも、今日、高梨さんを助けてくれたことまで、なかったことにはならないから」
喬本は何も答えなかった。
千景も、それ以上は言わなかった。
許したわけではない。
正しいことをしたから、罪が消えるわけでもない。
ただ、今日助けた人がいる。
その事実まで否定する必要はないと思った。
◇
しばらくして、管理会社の担当者が戻ってきた。
「警察がB棟に到着したそうです」
千景が顔を上げる。
「……あの男は?」
「まだ見つかっていません。非常階段から逃げた可能性があります」
「……そっか」
千景は小さく息を吐いた。
取り逃がした。
けれど、美咲は無事だった。
それだけでも、今夜は十分だと思いたかった。
律が担当者に尋ねる。
「玄関の破損は確認されていますか」
「はい。現場の確認を始めています。工具ケースも残されているそうです」
「そうですか」
律は頷いた。
少なくとも、あの男が部屋に侵入しようとした痕跡は残っている。
壊れた錠。
破損したチェーン。
置き去りにされた工具ケース。
異能の存在を知らなくても、警察が捜査できるものはある。
ただ、高梨美咲がどうやってA棟へ避難したのか。
その説明は、簡単ではなかった。
月成家の担当者とも相談する必要がある。
律は、美咲の方を見た。
彼女は点検テラスの隅に座り、管理担当者から渡された水を少しずつ飲んでいる。
まだ、落ち着いているとは言い難い。
今すぐ何もかも説明するのは難しいだろう。
「……千景さん」
律が呼びかけた。
「何?」
「高梨さんには、見たものを無理に否定させない方がいいでしょうね」
「……うん」
「説明の仕方は、月成家の方々と相談しましょう」
「そうだね」
千景は頷いた。
異能の存在を、普通の警察官にそのまま説明するわけにはいかない。
だが、だからといって、美咲に嘘をつかせたいわけでもなかった。
何より、今は彼女の安全を優先しなければならない。
「……律」
「はい」
「高梨さん、しばらくあの部屋には戻れないよね」
「そうでしょうね。少なくとも、今夜は避けた方がいいと思います」
「……だよね」
千景は、B棟を見た。
九階の外廊下。
先ほどまで、あそこに男がいた。
今は、もう姿がない。
だが、逃げたということは、また現れる可能性があるということでもある。
「……あいつ、何者だったんだろ」
千景が呟いた。
律は少し考えた。
「分かっているのは、触れた物の位置を固定するらしい異能を使ったこと。そして、高梨さんを連れ去ろうとしていたことです」
「……うん」
「佐伯氏のことも知っていました」
「そうだね」
「ただ、組織の中でどんな役割を持っているのかは分かりません」
千景は、ゆっくり頷いた。
異能者。
それも、欠字に由来すると思われる力を使っていた。
だが、名字は聞いていない。
どの家系に属するのかも分からない。
「……厄介だなあ」
千景は、思わず呟いた。
「そうですね」
律は答えた。
「ですが、一つ分かったこともあります」
「……何?」
「千景さんの異能についてです」
千景は目を丸くした。
「……私の?」
「ええ」
律は、先ほど橋が架かっていた場所を見た。
「重力の向きを変えることで、橋への負担を減らしながら三人を移動させられましたね」
「……ああ」
「かなり細かい制御をしていたようですが」
「……めちゃくちゃ疲れた」
千景は、素直に頷いた。
律は、少しだけ笑った。
「それでも、できた」
「……まあね」
「今までとは違う使い方だったのでは?」
千景は、少し考えた。
確かにそうだった。
重力の向きを変える。
前に加速する。
逆向きにして止まる。
それ自体は、普段からできる。
だが、自分以外の人間を二人まとめて動かしながら、別の場所に防御領域を残すことは、あまりしてこなかった。
「……そう言われると、そうかも」
千景が答える。
「でも、あれを毎回やれって言われたら嫌だな」
「僕も、毎回九階から橋を渡りたいとは思いません」
「……だよね!」
千景は笑った。
少しだけ、いつもの調子が戻ってきた。
◇
B棟の九階から、人が落ちた。
三日前のことだった。
そして今夜。
同じ高さに架けられた橋を、三人が渡りきった。
同じ力だった。
人を救うために生まれたはずの力。
それが、人を殺すことにも使われた。
だが、力そのものが変わったわけではない。
変わったのは、その使い方だった。
千景は、何もない空間を見つめていた。
月成。
欠けた文字を受け継いだ、自分の名字。
その完成形から生まれた力。
守ることもできる。
速く走ることもできる。
使い方によっては、誰かを傷つけることもできるのだろう。
「……律」
「はい」
「名前ってさ」
千景は、少し考えた。
「どこまで、その人のことを決めるんだろうね」
律はすぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「……少なくとも、行動のすべてまでは決めないと思います」
千景は、律を見た。
「……どうして?」
「同じ橋で、人を殺すことも、助けることもできたからです」
千景は、ゆっくり頷いた。
「……そっか」
夜の風が、二人の間を通り抜けた。
橋は、もうない。
ただ、そこを人が渡ったという事実だけが残っている。
千景は小さく息を吐いた。
まだ、終わっていない。
佐伯俊一の死。
喬本直人の罪。
高梨美咲を狙った組織。
そして、逃げた異能者。
分からないことは、まだいくつも残っている。
それでも、今夜。
少なくとも、高梨美咲を連れ去らせずに済んだ。
千景は、もう一度橋のあった場所を見た。
向こう側には、何もない。
八メートルの空間だけが、静かに広がっていた。
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