第8話『渡りきれなかった橋』
橋が消えた。
A棟とB棟の間には、何もない空間が広がっている。
つい先ほどまで、そこを三人の人間が渡っていた。
月成千景は、点検テラスの床に座り込んだまま、その場所を見つめていた。
「……もう一回やれって言われても、嫌だな」
「僕も同感です」
隣に立つ竟宮律が答えた。
「特に、手すりを越えるところは二度と経験したくありませんね」
「律、あのとき結構平気そうだったじゃん」
「平気そうにしていただけですよ」
「……そうなの?」
「ええ。怖がっても足場が広くなるわけではありませんから」
千景は、思わず笑った。
「……そういうとこ、律らしいよね」
少し離れた場所では、高梨美咲が管理会社の担当者に付き添われていた。
まだ顔色は悪い。
水を飲もうとしても、手が震えている。
千景は、その様子を見て笑みを収めた。
「……高梨さん、大丈夫かな」
「今すぐ落ち着くのは難しいでしょう」
「……だよね」
「少なくとも、今夜あの部屋へ戻るのは避けるべきですね」
千景は頷いた。
玄関の錠は壊されている。
あの男も逃げたままだ。
何より、美咲自身があの部屋で再び安心して眠れるとは思えなかった。
「……安全な場所、用意してもらえるかな」
「管理担当者が手配を進めています。警察とも相談するそうです」
「そっか」
千景は小さく息を吐いた。
助けられた。
けれど、それで全部終わったわけではない。
そんな当たり前のことが、今になって重く感じられた。
◇
警察がA棟に到着したのは、それから間もなくのことだった。
B棟では、すでに高梨美咲の部屋の確認が始まっている。
破損した錠。
外れたドアチェーン。
廊下に残された工具ケース。
どれも、男が無理やり住居へ侵入しようとしたことを示すものだった。
千景と律は、管理会社の担当者とともに事情を説明した。
不審者が高梨美咲の部屋を訪ねたこと。
管理会社の人間だと偽っていたこと。
拒否されると、玄関をこじ開けたこと。
そして、高梨美咲を連れ去ろうとしていたこと。
その部分は、隠す必要がなかった。
問題は、その先だった。
「高梨さんはこちらの建物に避難されたんですね」
警察官が尋ねた。
「はい」
管理担当者が答えた。
「ただ、避難の経緯については、少々説明が難しい事情がありまして」
「どういうことですか?」
当然の質問だった。
千景は律を見た。
律も、すぐには答えなかった。
B棟からA棟へ。
八メートルの空間を渡った。
そこに通路はない。
普通なら、説明のつかない移動だった。
だからといって、事実と違う避難経路を作り上げるわけにはいかない。
「高梨さんは、今かなり動揺しています」
律が口を開いた。
「まずはご本人の安全と、医療的な確認を優先していただけませんか。詳しい経緯については、関係者と確認したうえでお話ししたいと思います」
警察官は、律を見た。
「君たちも現場にいたんだよね?」
「はい」
「それなら、後で詳しく聞かせてもらうことになると思うよ」
「承知しています」
律は答えた。
千景は黙っていた。
今のやり取りで、問題が片づいたわけではない。
後で説明を求められる。
それは当然だった。
異能が秘密だからといって、警察の捜査までなかったことにはできない。
月成家の大人たちに相談する必要がある。
だが、そのこととは別に、千景には気になっている人物がいた。
喬本直人だ。
◇
喬本は、点検テラスから離れた場所に座っていた。
スマートフォンを両手で握りしめている。
千景が近づくと、ゆっくり顔を上げた。
「……月成さん」
「ご家族は?」
喬本は頷いた。
「……妻と娘は、移動できたそうです」
「……よかった」
千景は、素直にそう言った。
月成家の担当者が、喬本の妻子についても安全な場所への移動を手配していた。
ただ、それで今後ずっと安心できるとは限らない。
佐伯は死んだ。
それでも、別の男が高梨美咲を連れ去りに来た。
組織が喬本の家族を諦めたとは、まだ誰にも言えなかった。
「……娘が」
喬本が口を開いた。
「どうして急に出かけるのか、妻に聞いたそうです」
千景は黙って聞いていた。
「夜なのに、どこへ行くのって」
「……うん」
「妻は、ちょっと旅行みたいなものだと答えたそうです」
喬本は、力なく笑った。
「……そんなわけ、ないのに」
千景は何も言えなかった。
喬本は、スマートフォンの画面を見つめている。
娘から届いた短いメッセージ。
『パパはいつ来るの?』
その下には、まだ返信がなかった。
「……何て返すか、決められなくて」
喬本が呟いた。
「すぐ行くとは、言えません」
千景は、喬本の隣に立った。
「……喬本さん」
「はい」
「これから、どうするつもり?」
喬本は、ゆっくり顔を上げた。
その表情は、ひどく疲れていた。
「……警察に話します」
千景は、少しだけ目を見開いた。
「……佐伯さんのこと?」
「はい」
喬本は頷いた。
「私が殺しました」
言葉に迷いはなかった。
「佐伯さんを、あの場所から落としたのは私です」
千景は、しばらく黙っていた。
「……でも」
喬本が続けた。
「どう説明すればいいのか、分からないんです」
千景は、喬本を見た。
「あの橋のことを?」
「……はい」
喬本は頷いた。
「普通の人に、信じてもらえるとは思えません」
それは、そうだろう。
人間が空中に橋を架ける。
そこを歩いていた男が、橋の消滅によって転落した。
現物は残っていない。
決定的な映像もない。
喬本が自分の行為を説明したところで、それがどのように扱われるのか分からなかった。
千景が答えられずにいると、律が近づいてきた。
「喬本さん」
「……竟宮さん」
「月成家の担当者に、法律の専門家にも同席してもらうようお願いしました」
喬本は目を伏せた。
「……ありがとうございます」
「ただし」
律は、静かに続けた。
「それで責任を免れられるという意味ではありません」
「……はい」
「今回の件について、どこまで証明できるのか。司法上、どう扱われるのか。それは僕たちだけでは判断できません」
喬本は頷いた。
「……分かっています」
「異能の存在をどう扱うかという問題も残ります。ですから、今ここで何もかも決めるべきではありません」
律は、一度言葉を切った。
「ですが、責任を負おうとするなら、事実を隠したままで済むとは限りません」
喬本は、ゆっくり顔を上げた。
「……はい」
「その点は、分かっておいてください」
喬本は、しばらく律を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……そうですね」
その声は、どこか落ち着いていた。
「私は、佐伯さんを殺したんですから」
喬本は、スマートフォンを見た。
娘からのメッセージは、まだ画面に残っている。
「……どうしても」
小さく呟いた。
「……あのとき、ほかに方法はなかったのかと考えてしまうんです」
千景は、その言葉を聞いていた。
喬本は顔を上げない。
「あの男を、止めたかったんです」
「……うん」
「家族を守りたかった」
「……うん」
「でも、だからといって……」
言葉が止まった。
千景は、ゆっくり口を開いた。
「……喬本さん」
「はい」
「私は、佐伯さんがしたことを許せるとは思わない」
喬本は顔を上げた。
「高梨さんを連れ去ろうとしてたし、ほかにもひどいことをしてたんでしょ」
「……はい」
「それに、喬本さんの家族まで脅してた」
千景は、少しだけ言葉を探した。
「だから、喬本さんが怖かったのも、許せなかったのも、分かる気がする」
喬本は黙っていた。
「でもさ」
千景は続けた。
「佐伯さんを殺したら、全部終わると思った?」
喬本の表情が変わった。
「……」
「今日、別の人が来たよね」
「……はい」
「佐伯さんが死んでも、高梨さんを連れ去ろうとする人はいた」
千景は、まっすぐ喬本を見た。
「だから、喬本さんがしたことは、やっぱりちゃんと考えなきゃいけないと思う」
喬本は、長い間黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……その通りです」
千景は、それ以上何も言わなかった。
慰める言葉なら、いくらでも考えられる。
家族のためだった。
追い詰められていた。
佐伯は悪い人間だった。
けれど、どれを並べても、喬本が自分の意思で橋を消した事実は変わらない。
千景は、そのことから目を逸らしたくなかった。
◇
翌朝。
千景は、いつもより少し遅れて教室へ入った。
「おはよー」
「あ、千景。おはよう」
友人が顔を上げる。
「昨日、帰るの遅かった?」
「……まあ、ちょっと」
「顔、疲れてるよ?」
「そう?」
「うん。寝不足っぽい」
千景は自分の頬を触った。
確かに、あまり眠れていない。
家へ帰ったのは、かなり遅い時間だった。
風呂に入って、布団に入った。
それでも、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、九階の高さが思い出された。
足元にあった細い橋。
遥か下の地面。
震える美咲の手。
そして、橋を架けていた喬本の顔。
「……千景?」
「ん?」
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
千景は笑った。
「ちょっと親戚の用事があってさ」
「また?」
「また」
友人は、呆れたように肩をすくめた。
「最近ほんと忙しいね」
「そうなんだよねえ」
「じゃあ、今日は暇?」
「……今日は」
千景は少し考えた。
律からは、まだ連絡が来ていない。
喬本の件は、大人たちが対応を進めている。
高梨美咲も、安全な場所へ移ったと聞いている。
少なくとも、今すぐ千景が動かなければならないことはなかった。
「……うん。今日は大丈夫だと思う」
「じゃあクレープ!」
友人が、嬉しそうに言った。
「この前行けなかったじゃん!」
「あー、そうだった」
「今日こそ行こうよ」
千景は笑った。
「いいよ」
「やった!」
友人が満足そうに頷いた。
その姿を見ながら、千景は少しだけ安心した。
いつもの教室。
いつもの友人。
放課後にクレープを食べに行く約束。
数時間前まで、九階の高さで人を救おうとしていたことなど、ここにいる誰も知らない。
それでも、千景にとっては、どちらも自分の日常だった。
◇
放課後。
千景は、約束通り友人と駅前の店へ行った。
新しくできたクレープ屋は、平日でもそれなりに混んでいた。
「何にする?」
「んー……」
千景はメニューを見た。
チョコバナナ。
いちご。
カスタード。
期間限定のものもある。
「……いちごかな」
「千景、いつもそれじゃない?」
「好きなんだからしょうがないじゃん」
「たまには冒険しなよ」
「クレープで冒険する必要ある?」
「あるでしょ!」
友人は真剣だった。
千景は笑った。
結局、いつも通りのいちごを注文した。
店の外へ出て、二人で歩く。
友人が学校の話をしている。
次の小テスト。
担任の口癖。
クラスの誰かが、また忘れ物をしたこと。
千景は相槌を打ちながら、クレープを食べた。
甘かった。
当たり前のことなのに、妙においしく感じられた。
スマートフォンが震えたのは、食べ終わる少し前だった。
画面を見る。
律からのメッセージだった。
『高梨さんの安全について、当面の対応が決まったそうです』
千景は、足を止めた。
『喬本さんのご家族についても、引き続き保護の手配が進んでいます』
続けて、もう一通。
『佐伯氏の件については、喬本さんが専門家の同席を求め、警察へ事情を説明する意向です』
千景は、しばらく画面を見つめていた。
「……千景?」
友人が声をかける。
「あ、ごめん」
「何かあった?」
「……ううん」
千景は首を振った。
「ちょっと、親戚から」
「また親戚?」
「……うん」
友人は、少しだけ眉を寄せた。
「大変そうだね」
千景は苦笑した。
「……まあね」
それから、律へ短く返信した。
『連絡ありがとう。あとで話せる?』
すぐに返事が届いた。
『ええ。ご都合のよい時間で構いません』
千景は、少し考えた。
『夕方、いつものところで』
『承知しました』
画面を閉じる。
「……ごめん。ちょっと夕方から用事できちゃった」
友人は、呆れたように笑った。
「また?」
「……また」
「ほんと忙しいね」
「……ごめんって」
「いいよ。クレープ食べられたし」
友人は、自分のクレープを掲げた。
千景も笑った。
こんな普通の時間を、大事にしたかった。
昨日のことがあったからこそ、余計に。
◇
夕方。
千景が向かったのは、駅前のファミリーレストランだった。
店内には、仕事帰りの会社員や学生の姿がある。
窓際の席に、律が座っていた。
机の上にはノートパソコンがある。
相変わらず、準備がいい。
「お疲れさま、律」
「お疲れさまです、千景さん」
「早いね」
「少し早めに着いただけですよ」
「……それ、毎回言ってない?」
「そうでしょうか」
「言ってるよ」
千景は向かいの席に座った。
律はパソコンを閉じた。
「昨日は、よく眠れましたか」
「……あんまり」
「そうでしょうね」
「律は?」
「僕も、少し考え事をしていました」
「……へえ」
千景は、メニューを開きながら尋ねた。
「何考えてたの?」
「今回の事件についてです」
「……そっか」
千景は、メニューを閉じた。
「じゃあ、まずそっち聞こうかな」
律は頷いた。
「分かりました」
運ばれてきた水を一口飲み、律は話し始めた。
「高梨さんについては、当面の滞在先が確保されたそうです」
「うん」
「警察にも、脅迫と住居侵入の被害について、改めて相談することになっています」
「……よかった」
「ただし、あの男はまだ見つかっていません」
千景は頷いた。
「……だよね」
「管理会社に残された工具ケースなどは、警察が確認しています。ただ、そこから身元が特定できるかは分かりません」
「……そっか」
律は、少しだけ言葉を切った。
「喬本さんについても、まだこれからです」
「……うん」
「佐伯氏との仕事上の関係や、脅迫されていた事情は、本人が知っている範囲で資料を整理しています」
「証拠、あるの?」
「メッセージや取引に関する記録が一部残っているようです。ただ、どこまで事実を裏づけられるかは確認中です」
千景は、小さく頷いた。
佐伯俊一。
表向きは設備や不動産関係の仲介業者。
裏では、亡くなった女性の遺体を運ばせ、それを商品として扱う組織に関わっていた男。
だが、佐伯が死んだことで、その取引が終わったわけではない。
「……ねえ、律」
「はい」
「結局、あの組織って何だったんだろ」
律は少し考えた。
「現時点で分かっているのは、ごく一部でしょうね」
「……だよね」
「佐伯氏は仲介をしていたようですが、顧客が誰なのか、加工を行っていたのが誰なのか、その全体像は分かっていません」
「……うん」
「高梨さんを連れ去ろうとした男も、その一員と考えるのが自然ですが、立場までは不明です」
千景は、窓の外を見た。
夕方の駅前。
人が行き交っている。
誰も、そんなものが存在するとは思っていないだろう。
自分だって、今回の事件がなければ知らなかった。
「……気持ち悪いね」
千景が呟いた。
「ええ」
律は、静かに頷いた。
「昨日、律が言ってたこと、ちょっと分かったかも」
「何でしょう」
「欲しがる人がいるから、こんなものまで商売になるって話」
律は少しだけ考えた。
「……ええ」
「分かったっていうか、納得はしてないけど」
「それでいいと思います」
「……ほんと、最悪」
「そうですね」
律は頷いた。
千景は、窓の外をもう一度見た。
普通の街。
普通の人たち。
そのどこかに、人間を商品として扱う人間がいる。
考えるだけで、嫌な気分になった。
◇
「……でもさ」
千景が口を開いた。
「佐伯さんのことは、分かったんだよね」
律は頷いた。
「僕たちが調べた範囲では、ほぼ確定したと言っていいでしょう」
「喬本さんが、橋を消した」
「ええ」
「佐伯さんが渡ってる途中で」
「本人も認めています」
千景は、テーブルの上に置いた手を見つめた。
「……じゃあ、事件は解決したってことでいいのかな」
律は、少し考えた。
「何をもって解決とするかによりますね」
「……また難しいこと言う」
「すみません」
「謝らなくていいけど」
律は、小さく笑った。
そして、続けた。
「佐伯俊一がなぜ転落したのか。その理由は分かりました」
「うん」
「喬本直人が何をしたのかも、分かりました」
「……うん」
「ですが、それを司法上どう証明し、どう扱うのかは、まだ決まっていません」
千景は頷いた。
「それに、佐伯氏が関わっていた犯罪組織は残っています」
「……そうだね」
「高梨さんを狙った男も逃亡しました」
「……うん」
「ですから、すべてが解決したわけではありません」
千景は、小さく息を吐いた。
「……なるほどね」
今回の事件で、分かったことは確かにある。
誰が、どうやって佐伯を殺したのか。
なぜ、佐伯は殺されたのか。
その背後で、何が行われていたのか。
だが、分からないことも残っている。
喬本が今後どうなるのか。
高梨美咲は、いつ元の生活へ戻れるのか。
犯罪組織は、どこまで広がっているのか。
逃げた男は、また誰かを狙うのか。
「……なんかさ」
千景が言った。
「すっきりしないね」
「そうですね」
律は頷いた。
「ですが、現実の事件というのは、必ずしも一つの結論ですべてが終わるものではないのでしょう」
「……律って、そういうの平気なの?」
「平気、というわけではありません」
「……そうなの?」
「ええ」
律は、少しだけ視線を落とした。
「分からないまま残ることは、気になります」
千景は、律を見た。
「……へえ」
「ですが、分からないものを、分かったことにはできませんから」
千景は、しばらく律を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「……律らしいね」
「そうでしょうか」
「うん」
千景は頷いた。
「めんどくさいけど、嫌いじゃない」
「それは、褒め言葉でしょうか」
「褒めてるよ」
「そうですか」
律は、小さく笑った。
◇
注文した飲み物が運ばれてきた。
千景はストローをくわえ、少しだけ飲んだ。
冷たい。
頭の中に残っていた事件のことが、少しずつ遠ざかっていく気がした。
「……そういえばさ」
千景が口を開いた。
「律って、今回どうだった?」
「……どう、とは?」
「いや、調査とか。こういうの、慣れてるのかなって」
律は少し考えた。
「知識として知っていることはありましたが、実際に事件へ関わるのは別ですね」
「……そうなんだ」
「ええ。予想していなかったことも多くありました」
「例えば?」
「千景さんが、あそこまで無茶をするとは思っていませんでした」
「……え?」
千景は目を丸くした。
「いや、無茶って」
「九階の橋を渡ったことです」
「……律も渡ったじゃん」
「ええ。僕も無茶をしました」
律は、あっさり認めた。
千景は、思わず笑った。
「……そこ認めるんだ」
「事実ですので」
律は続けた。
「ただ、千景さんがいなければ、あの方法は成立しなかったでしょう」
「……そうかな」
「ええ」
「橋は喬本さんが架けたんだよ?」
「それでも、三人を安全に渡らせることは難しかったはずです」
律は、千景を見た。
「重力の向きを利用するという発想も、千景さんのものでした」
千景は、少しだけ照れたように笑った。
「……まあ、私の力だしね」
「そうですね」
「律だって、いろいろ考えてくれたじゃん」
「僕は、できることをしただけですよ」
「それ、私も同じだけど」
律は、少しだけ目を見開いた。
千景は笑った。
「私には異能がある。律には、考える頭がある」
「……」
「だから、二人でやったんでしょ」
律は、しばらく千景を見ていた。
そして、小さく頷いた。
「……そうですね」
千景はストローをくわえた。
少しだけ考えてから、もう一度口を開く。
「……ねえ、律」
「はい」
「また、こういうことがあったらさ」
律は、千景を見た。
「……一緒にやる?」
千景は、少しだけ笑った。
「もちろん、毎回あんな危ないことするのは嫌だけど」
「そうですね」
「でも、困ってる人がいて、私たちにできることがあるなら」
千景は、まっすぐ律を見た。
「また、一緒に考えてくれない?」
律は、すぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
夕方の街。
行き交う人々。
その中には、異能というものを知らずに生きている人が大勢いる。
今回の事件も、普通の社会では説明できないことがいくつもあった。
それを調べるには、知識だけでは足りない。
異能が使えるだけでも、足りない。
律は、ゆっくり千景へ向き直った。
「……ええ」
穏やかな声だった。
「僕でよければ」
千景は笑った。
「じゃあ、決まり!」
「ただし」
律が続けた。
「無茶をするときは、事前に相談してください」
「……えー」
「できれば、九階から橋を渡る前に」
「……分かったって」
「本当ですか?」
「たぶん」
「……千景さん」
「はいはい、ちゃんと相談します!」
律は、小さく息を吐いた。
千景は、その反応を見て笑った。
欠けた名字を持つ二人。
異能を発現させた少女と、まだ異能を持たない少年。
同じ家系でもなければ、考え方も違う。
けれど、だからこそ。
一人では気づけなかったことに、二人なら気づけるのかもしれない。
◇
同じころ。
都内の、とある建物の地下室。
白い照明に照らされた部屋で、男が一人、端末を操作していた。
画面には、短い報告が表示されている。
『対象確保失敗』
『現場に複数の異能者が介入』
『佐伯俊一の協力者と思われる架橋能力者を確認』
男は、しばらく画面を見つめていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……失敗、か」
机の向こうには、別の人物が立っていた。
「どうします?」
尋ねられた男は、少し考えた。
「高梨美咲の件は、いったん止めろ」
「……よろしいんですか」
「警察が動いている。今、同じ相手にこだわる理由はない」
「……分かりました」
男は、別の画面を開いた。
そこには、いくつもの名前が並んでいた。
年齢。
性別。
生活環境。
そして、いくつかの数字。
「……次の候補は?」
男が尋ねた。
向かいの人物が答える。
「すでに、いくつか選定されています」
「そうか」
男は頷いた。
「では、そちらを進めろ」
「承知しました」
短いやり取りだった。
そこに、高梨美咲が連れ去られかけたことへの怒りも、失敗したことへの焦りもない。
ただ、予定していた取引の一つが成立しなかった。
それだけのことだった。
画面の隅には、別の報告も表示されている。
『現場担当者、帰還済み』
『異能に関する情報の公的機関への拡散は未確認』
男は、その項目を一瞥した。
「……それにしても」
小さく呟く。
「月成か」
向かいの人物が、顔を上げた。
「ご存じで?」
「五家の一つだ」
男は答えた。
「余計な連中に見つかったな」
少しだけ考えてから、画面を閉じる。
「しばらく、あの辺りには近づくな」
「……承知しました」
男は椅子に背を預けた。
取引の予定は、まだ残っている。
高梨美咲が助かったところで、それがなくなるわけではない。
佐伯俊一が死んだところで、組織が止まるわけでもない。
男は、新しく届いた連絡へ目を向けた。
『次回納品について、確認をお願いします』
その文章を見ても、表情は変わらなかった。
◇
ファミリーレストランの窓の外では、街灯が灯り始めていた。
千景は、飲み終わったグラスをテーブルに置いた。
「……そろそろ帰ろっか」
「そうですね」
律が頷いた。
二人は会計を済ませ、店の外へ出た。
夜の空気は、少し冷たかった。
「……ねえ、律」
「はい」
「喬本さんの橋ってさ」
千景は、少し考えた。
「結局、何だったんだろうね」
律は首を傾げた。
「……どういう意味でしょう」
「いや、橋を架ける力だったでしょ」
「ええ」
「人を助けることもできたし、殺すこともできた」
千景は、ゆっくり歩きながら続けた。
「でも、喬本さん自身は、どっちも同じ人なんだよね」
「そうですね」
「……不思議だなって」
律は、少し考えた。
「名前が、その人のすべてを決めるわけではないのでしょうね」
「……うん」
「喬本さんは橋を架ける力を持った。ですが、その力をどう使うかまでは、名字が決めてくれるわけではない」
千景は頷いた。
「……そうだね」
「そして、一度選んだことも、なかったことにはできません」
千景は、夜空を見上げた。
月が出ていた。
雲の隙間から、白い光が覗いている。
「……ねえ、律」
「はい」
「欠けた字ってさ」
千景は、少しだけ笑った。
「完成したら、それで終わりなのかな」
律は、すぐには答えなかった。
「……どうでしょう」
「……分かんない?」
「ええ」
律は、静かに頷いた。
「少なくとも、異能が発現したからといって、人間として完成するわけではありませんから」
千景は、その言葉を聞いて笑った。
「……だよね」
喬本直人は、橋を架ける力を持っていた。
それでも、迷った。
間違えた。
人を殺した。
そして、また人を助けた。
どれか一つだけが、喬本直人なのではない。
「……だったらさ」
千景が言った。
「これからも、いろいろあるんだろうね」
「そうでしょうね」
「……面倒だなあ」
「ええ」
律は、小さく笑った。
「ですが、退屈はしないかもしれません」
千景は、思わず律を見た。
「……律、そういうこと言うんだ」
「たまには」
「……へえ」
千景は笑った。
二人は、駅へ向かって歩き始めた。
その背後で、街の明かりが一つ、また一つと灯っていく。
知らない場所で、知らない誰かが暮らしている。
その中には、欠字の姓を持つ人間もいるだろう。
異能を発現させた者も。
まだ何の力も持たない者も。
そして、その力を何に使うか、迷っている者も。
千景は、自分の手を見た。
月成。
欠けた文字を持つ、正式な名字。
それは、自分が選んだものではない。
だが、その名前でどう生きるかは、自分で決められる。
「……律!」
千景が、少し先を歩く律を呼んだ。
「はい?」
「次は、もうちょっと平和な事件がいいね!」
律は振り返った。
そして、穏やかに答える。
「……そう願いたいですね」
千景は笑った。
夜の街を、二人は並んで歩いていく。
渡りきれなかった橋は、もうどこにもない。
けれど、あの橋を架けた人間の選択も、そこから落ちた人間の死も、消えたわけではなかった。
そして、橋を渡りきった人々の生活も、これから先へ続いていく。
お読みいただきありがとうございます。
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