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欠字異聞  作者: わかめ
渡りきれなかった橋

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8/8

第8話『渡りきれなかった橋』

 橋が消えた。


 A棟とB棟の間には、何もない空間が広がっている。


 つい先ほどまで、そこを三人の人間が渡っていた。


 月成千景は、点検テラスの床に座り込んだまま、その場所を見つめていた。


「……もう一回やれって言われても、嫌だな」


「僕も同感です」


 隣に立つ竟宮律が答えた。


「特に、手すりを越えるところは二度と経験したくありませんね」


「律、あのとき結構平気そうだったじゃん」


「平気そうにしていただけですよ」


「……そうなの?」


「ええ。怖がっても足場が広くなるわけではありませんから」


 千景は、思わず笑った。


「……そういうとこ、律らしいよね」


 少し離れた場所では、高梨美咲が管理会社の担当者に付き添われていた。


 まだ顔色は悪い。


 水を飲もうとしても、手が震えている。


 千景は、その様子を見て笑みを収めた。


「……高梨さん、大丈夫かな」


「今すぐ落ち着くのは難しいでしょう」


「……だよね」


「少なくとも、今夜あの部屋へ戻るのは避けるべきですね」


 千景は頷いた。


 玄関の錠は壊されている。


 あの男も逃げたままだ。


 何より、美咲自身があの部屋で再び安心して眠れるとは思えなかった。


「……安全な場所、用意してもらえるかな」


「管理担当者が手配を進めています。警察とも相談するそうです」


「そっか」


 千景は小さく息を吐いた。


 助けられた。


 けれど、それで全部終わったわけではない。


 そんな当たり前のことが、今になって重く感じられた。


     ◇


 警察がA棟に到着したのは、それから間もなくのことだった。


 B棟では、すでに高梨美咲の部屋の確認が始まっている。


 破損した錠。


 外れたドアチェーン。


 廊下に残された工具ケース。


 どれも、男が無理やり住居へ侵入しようとしたことを示すものだった。


 千景と律は、管理会社の担当者とともに事情を説明した。


 不審者が高梨美咲の部屋を訪ねたこと。


 管理会社の人間だと偽っていたこと。


 拒否されると、玄関をこじ開けたこと。


 そして、高梨美咲を連れ去ろうとしていたこと。


 その部分は、隠す必要がなかった。


 問題は、その先だった。


「高梨さんはこちらの建物に避難されたんですね」


 警察官が尋ねた。


「はい」


 管理担当者が答えた。


「ただ、避難の経緯については、少々説明が難しい事情がありまして」


「どういうことですか?」


 当然の質問だった。


 千景は律を見た。


 律も、すぐには答えなかった。


 B棟からA棟へ。


 八メートルの空間を渡った。


 そこに通路はない。


 普通なら、説明のつかない移動だった。


 だからといって、事実と違う避難経路を作り上げるわけにはいかない。


「高梨さんは、今かなり動揺しています」


 律が口を開いた。


「まずはご本人の安全と、医療的な確認を優先していただけませんか。詳しい経緯については、関係者と確認したうえでお話ししたいと思います」


 警察官は、律を見た。


「君たちも現場にいたんだよね?」


「はい」


「それなら、後で詳しく聞かせてもらうことになると思うよ」


「承知しています」


 律は答えた。


 千景は黙っていた。


 今のやり取りで、問題が片づいたわけではない。


 後で説明を求められる。


 それは当然だった。


 異能が秘密だからといって、警察の捜査までなかったことにはできない。


 月成家の大人たちに相談する必要がある。


 だが、そのこととは別に、千景には気になっている人物がいた。


 喬本直人だ。


     ◇


 喬本は、点検テラスから離れた場所に座っていた。


 スマートフォンを両手で握りしめている。


 千景が近づくと、ゆっくり顔を上げた。


「……月成さん」


「ご家族は?」


 喬本は頷いた。


「……妻と娘は、移動できたそうです」


「……よかった」


 千景は、素直にそう言った。


 月成家の担当者が、喬本の妻子についても安全な場所への移動を手配していた。


 ただ、それで今後ずっと安心できるとは限らない。


 佐伯は死んだ。


 それでも、別の男が高梨美咲を連れ去りに来た。


 組織が喬本の家族を諦めたとは、まだ誰にも言えなかった。


「……娘が」


 喬本が口を開いた。


「どうして急に出かけるのか、妻に聞いたそうです」


 千景は黙って聞いていた。


「夜なのに、どこへ行くのって」


「……うん」


「妻は、ちょっと旅行みたいなものだと答えたそうです」


 喬本は、力なく笑った。


「……そんなわけ、ないのに」


 千景は何も言えなかった。


 喬本は、スマートフォンの画面を見つめている。


 娘から届いた短いメッセージ。


『パパはいつ来るの?』


 その下には、まだ返信がなかった。


「……何て返すか、決められなくて」


 喬本が呟いた。


「すぐ行くとは、言えません」


 千景は、喬本の隣に立った。


「……喬本さん」


「はい」


「これから、どうするつもり?」


 喬本は、ゆっくり顔を上げた。


 その表情は、ひどく疲れていた。


「……警察に話します」


 千景は、少しだけ目を見開いた。


「……佐伯さんのこと?」


「はい」


 喬本は頷いた。


「私が殺しました」


 言葉に迷いはなかった。


「佐伯さんを、あの場所から落としたのは私です」


 千景は、しばらく黙っていた。


「……でも」


 喬本が続けた。


「どう説明すればいいのか、分からないんです」


 千景は、喬本を見た。


「あの橋のことを?」


「……はい」


 喬本は頷いた。


「普通の人に、信じてもらえるとは思えません」


 それは、そうだろう。


 人間が空中に橋を架ける。


 そこを歩いていた男が、橋の消滅によって転落した。


 現物は残っていない。


 決定的な映像もない。


 喬本が自分の行為を説明したところで、それがどのように扱われるのか分からなかった。


 千景が答えられずにいると、律が近づいてきた。


「喬本さん」


「……竟宮さん」


「月成家の担当者に、法律の専門家にも同席してもらうようお願いしました」


 喬本は目を伏せた。


「……ありがとうございます」


「ただし」


 律は、静かに続けた。


「それで責任を免れられるという意味ではありません」


「……はい」


「今回の件について、どこまで証明できるのか。司法上、どう扱われるのか。それは僕たちだけでは判断できません」


 喬本は頷いた。


「……分かっています」


「異能の存在をどう扱うかという問題も残ります。ですから、今ここで何もかも決めるべきではありません」


 律は、一度言葉を切った。


「ですが、責任を負おうとするなら、事実を隠したままで済むとは限りません」


 喬本は、ゆっくり顔を上げた。


「……はい」


「その点は、分かっておいてください」


 喬本は、しばらく律を見つめていた。


 そして、小さく頷いた。


「……そうですね」


 その声は、どこか落ち着いていた。


「私は、佐伯さんを殺したんですから」


 喬本は、スマートフォンを見た。


 娘からのメッセージは、まだ画面に残っている。


「……どうしても」


 小さく呟いた。


「……あのとき、ほかに方法はなかったのかと考えてしまうんです」


 千景は、その言葉を聞いていた。


 喬本は顔を上げない。


「あの男を、止めたかったんです」


「……うん」


「家族を守りたかった」


「……うん」


「でも、だからといって……」


 言葉が止まった。


 千景は、ゆっくり口を開いた。


「……喬本さん」


「はい」


「私は、佐伯さんがしたことを許せるとは思わない」


 喬本は顔を上げた。


「高梨さんを連れ去ろうとしてたし、ほかにもひどいことをしてたんでしょ」


「……はい」


「それに、喬本さんの家族まで脅してた」


 千景は、少しだけ言葉を探した。


「だから、喬本さんが怖かったのも、許せなかったのも、分かる気がする」


 喬本は黙っていた。


「でもさ」


 千景は続けた。


「佐伯さんを殺したら、全部終わると思った?」


 喬本の表情が変わった。


「……」


「今日、別の人が来たよね」


「……はい」


「佐伯さんが死んでも、高梨さんを連れ去ろうとする人はいた」


 千景は、まっすぐ喬本を見た。


「だから、喬本さんがしたことは、やっぱりちゃんと考えなきゃいけないと思う」


 喬本は、長い間黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……その通りです」


 千景は、それ以上何も言わなかった。


 慰める言葉なら、いくらでも考えられる。


 家族のためだった。


 追い詰められていた。


 佐伯は悪い人間だった。


 けれど、どれを並べても、喬本が自分の意思で橋を消した事実は変わらない。


 千景は、そのことから目を逸らしたくなかった。


     ◇


 翌朝。


 千景は、いつもより少し遅れて教室へ入った。


「おはよー」


「あ、千景。おはよう」


 友人が顔を上げる。


「昨日、帰るの遅かった?」


「……まあ、ちょっと」


「顔、疲れてるよ?」


「そう?」


「うん。寝不足っぽい」


 千景は自分の頬を触った。


 確かに、あまり眠れていない。


 家へ帰ったのは、かなり遅い時間だった。


 風呂に入って、布団に入った。


 それでも、なかなか眠れなかった。


 目を閉じると、九階の高さが思い出された。


 足元にあった細い橋。


 遥か下の地面。


 震える美咲の手。


 そして、橋を架けていた喬本の顔。


「……千景?」


「ん?」


「大丈夫?」


「大丈夫、大丈夫」


 千景は笑った。


「ちょっと親戚の用事があってさ」


「また?」


「また」


 友人は、呆れたように肩をすくめた。


「最近ほんと忙しいね」


「そうなんだよねえ」


「じゃあ、今日は暇?」


「……今日は」


 千景は少し考えた。


 律からは、まだ連絡が来ていない。


 喬本の件は、大人たちが対応を進めている。


 高梨美咲も、安全な場所へ移ったと聞いている。


 少なくとも、今すぐ千景が動かなければならないことはなかった。


「……うん。今日は大丈夫だと思う」


「じゃあクレープ!」


 友人が、嬉しそうに言った。


「この前行けなかったじゃん!」


「あー、そうだった」


「今日こそ行こうよ」


 千景は笑った。


「いいよ」


「やった!」


 友人が満足そうに頷いた。


 その姿を見ながら、千景は少しだけ安心した。


 いつもの教室。


 いつもの友人。


 放課後にクレープを食べに行く約束。


 数時間前まで、九階の高さで人を救おうとしていたことなど、ここにいる誰も知らない。


 それでも、千景にとっては、どちらも自分の日常だった。


     ◇


 放課後。


 千景は、約束通り友人と駅前の店へ行った。


 新しくできたクレープ屋は、平日でもそれなりに混んでいた。


「何にする?」


「んー……」


 千景はメニューを見た。


 チョコバナナ。


 いちご。


 カスタード。


 期間限定のものもある。


「……いちごかな」


「千景、いつもそれじゃない?」


「好きなんだからしょうがないじゃん」


「たまには冒険しなよ」


「クレープで冒険する必要ある?」


「あるでしょ!」


 友人は真剣だった。


 千景は笑った。


 結局、いつも通りのいちごを注文した。


 店の外へ出て、二人で歩く。


 友人が学校の話をしている。


 次の小テスト。


 担任の口癖。


 クラスの誰かが、また忘れ物をしたこと。


 千景は相槌を打ちながら、クレープを食べた。


 甘かった。


 当たり前のことなのに、妙においしく感じられた。


 スマートフォンが震えたのは、食べ終わる少し前だった。


 画面を見る。


 律からのメッセージだった。


『高梨さんの安全について、当面の対応が決まったそうです』


 千景は、足を止めた。


『喬本さんのご家族についても、引き続き保護の手配が進んでいます』


 続けて、もう一通。


『佐伯氏の件については、喬本さんが専門家の同席を求め、警察へ事情を説明する意向です』


 千景は、しばらく画面を見つめていた。


「……千景?」


 友人が声をかける。


「あ、ごめん」


「何かあった?」


「……ううん」


 千景は首を振った。


「ちょっと、親戚から」


「また親戚?」


「……うん」


 友人は、少しだけ眉を寄せた。


「大変そうだね」


 千景は苦笑した。


「……まあね」


 それから、律へ短く返信した。


『連絡ありがとう。あとで話せる?』


 すぐに返事が届いた。


『ええ。ご都合のよい時間で構いません』


 千景は、少し考えた。


『夕方、いつものところで』


『承知しました』


 画面を閉じる。


「……ごめん。ちょっと夕方から用事できちゃった」


 友人は、呆れたように笑った。


「また?」


「……また」


「ほんと忙しいね」


「……ごめんって」


「いいよ。クレープ食べられたし」


 友人は、自分のクレープを掲げた。


 千景も笑った。


 こんな普通の時間を、大事にしたかった。


 昨日のことがあったからこそ、余計に。


     ◇


 夕方。


 千景が向かったのは、駅前のファミリーレストランだった。


 店内には、仕事帰りの会社員や学生の姿がある。


 窓際の席に、律が座っていた。


 机の上にはノートパソコンがある。


 相変わらず、準備がいい。


「お疲れさま、律」


「お疲れさまです、千景さん」


「早いね」


「少し早めに着いただけですよ」


「……それ、毎回言ってない?」


「そうでしょうか」


「言ってるよ」


 千景は向かいの席に座った。


 律はパソコンを閉じた。


「昨日は、よく眠れましたか」


「……あんまり」


「そうでしょうね」


「律は?」


「僕も、少し考え事をしていました」


「……へえ」


 千景は、メニューを開きながら尋ねた。


「何考えてたの?」


「今回の事件についてです」


「……そっか」


 千景は、メニューを閉じた。


「じゃあ、まずそっち聞こうかな」


 律は頷いた。


「分かりました」


 運ばれてきた水を一口飲み、律は話し始めた。


「高梨さんについては、当面の滞在先が確保されたそうです」


「うん」


「警察にも、脅迫と住居侵入の被害について、改めて相談することになっています」


「……よかった」


「ただし、あの男はまだ見つかっていません」


 千景は頷いた。


「……だよね」


「管理会社に残された工具ケースなどは、警察が確認しています。ただ、そこから身元が特定できるかは分かりません」


「……そっか」


 律は、少しだけ言葉を切った。


「喬本さんについても、まだこれからです」


「……うん」


「佐伯氏との仕事上の関係や、脅迫されていた事情は、本人が知っている範囲で資料を整理しています」


「証拠、あるの?」


「メッセージや取引に関する記録が一部残っているようです。ただ、どこまで事実を裏づけられるかは確認中です」


 千景は、小さく頷いた。


 佐伯俊一。


 表向きは設備や不動産関係の仲介業者。


 裏では、亡くなった女性の遺体を運ばせ、それを商品として扱う組織に関わっていた男。


 だが、佐伯が死んだことで、その取引が終わったわけではない。


「……ねえ、律」


「はい」


「結局、あの組織って何だったんだろ」


 律は少し考えた。


「現時点で分かっているのは、ごく一部でしょうね」


「……だよね」


「佐伯氏は仲介をしていたようですが、顧客が誰なのか、加工を行っていたのが誰なのか、その全体像は分かっていません」


「……うん」


「高梨さんを連れ去ろうとした男も、その一員と考えるのが自然ですが、立場までは不明です」


 千景は、窓の外を見た。


 夕方の駅前。


 人が行き交っている。


 誰も、そんなものが存在するとは思っていないだろう。


 自分だって、今回の事件がなければ知らなかった。


「……気持ち悪いね」


 千景が呟いた。


「ええ」


 律は、静かに頷いた。


「昨日、律が言ってたこと、ちょっと分かったかも」


「何でしょう」


「欲しがる人がいるから、こんなものまで商売になるって話」


 律は少しだけ考えた。


「……ええ」


「分かったっていうか、納得はしてないけど」


「それでいいと思います」


「……ほんと、最悪」


「そうですね」


 律は頷いた。


 千景は、窓の外をもう一度見た。


 普通の街。


 普通の人たち。


 そのどこかに、人間を商品として扱う人間がいる。


 考えるだけで、嫌な気分になった。


     ◇


「……でもさ」


 千景が口を開いた。


「佐伯さんのことは、分かったんだよね」


 律は頷いた。


「僕たちが調べた範囲では、ほぼ確定したと言っていいでしょう」


「喬本さんが、橋を消した」


「ええ」


「佐伯さんが渡ってる途中で」


「本人も認めています」


 千景は、テーブルの上に置いた手を見つめた。


「……じゃあ、事件は解決したってことでいいのかな」


 律は、少し考えた。


「何をもって解決とするかによりますね」


「……また難しいこと言う」


「すみません」


「謝らなくていいけど」


 律は、小さく笑った。


 そして、続けた。


「佐伯俊一がなぜ転落したのか。その理由は分かりました」


「うん」


「喬本直人が何をしたのかも、分かりました」


「……うん」


「ですが、それを司法上どう証明し、どう扱うのかは、まだ決まっていません」


 千景は頷いた。


「それに、佐伯氏が関わっていた犯罪組織は残っています」


「……そうだね」


「高梨さんを狙った男も逃亡しました」


「……うん」


「ですから、すべてが解決したわけではありません」


 千景は、小さく息を吐いた。


「……なるほどね」


 今回の事件で、分かったことは確かにある。


 誰が、どうやって佐伯を殺したのか。


 なぜ、佐伯は殺されたのか。


 その背後で、何が行われていたのか。


 だが、分からないことも残っている。


 喬本が今後どうなるのか。


 高梨美咲は、いつ元の生活へ戻れるのか。


 犯罪組織は、どこまで広がっているのか。


 逃げた男は、また誰かを狙うのか。


「……なんかさ」


 千景が言った。


「すっきりしないね」


「そうですね」


 律は頷いた。


「ですが、現実の事件というのは、必ずしも一つの結論ですべてが終わるものではないのでしょう」


「……律って、そういうの平気なの?」


「平気、というわけではありません」


「……そうなの?」


「ええ」


 律は、少しだけ視線を落とした。


「分からないまま残ることは、気になります」


 千景は、律を見た。


「……へえ」


「ですが、分からないものを、分かったことにはできませんから」


 千景は、しばらく律を見つめていた。


 そして、小さく笑った。


「……律らしいね」


「そうでしょうか」


「うん」


 千景は頷いた。


「めんどくさいけど、嫌いじゃない」


「それは、褒め言葉でしょうか」


「褒めてるよ」


「そうですか」


 律は、小さく笑った。


     ◇


 注文した飲み物が運ばれてきた。


 千景はストローをくわえ、少しだけ飲んだ。


 冷たい。


 頭の中に残っていた事件のことが、少しずつ遠ざかっていく気がした。


「……そういえばさ」


 千景が口を開いた。


「律って、今回どうだった?」


「……どう、とは?」


「いや、調査とか。こういうの、慣れてるのかなって」


 律は少し考えた。


「知識として知っていることはありましたが、実際に事件へ関わるのは別ですね」


「……そうなんだ」


「ええ。予想していなかったことも多くありました」


「例えば?」


「千景さんが、あそこまで無茶をするとは思っていませんでした」


「……え?」


 千景は目を丸くした。


「いや、無茶って」


「九階の橋を渡ったことです」


「……律も渡ったじゃん」


「ええ。僕も無茶をしました」


 律は、あっさり認めた。


 千景は、思わず笑った。


「……そこ認めるんだ」


「事実ですので」


 律は続けた。


「ただ、千景さんがいなければ、あの方法は成立しなかったでしょう」


「……そうかな」


「ええ」


「橋は喬本さんが架けたんだよ?」


「それでも、三人を安全に渡らせることは難しかったはずです」


 律は、千景を見た。


「重力の向きを利用するという発想も、千景さんのものでした」


 千景は、少しだけ照れたように笑った。


「……まあ、私の力だしね」


「そうですね」


「律だって、いろいろ考えてくれたじゃん」


「僕は、できることをしただけですよ」


「それ、私も同じだけど」


 律は、少しだけ目を見開いた。


 千景は笑った。


「私には異能がある。律には、考える頭がある」


「……」


「だから、二人でやったんでしょ」


 律は、しばらく千景を見ていた。


 そして、小さく頷いた。


「……そうですね」


 千景はストローをくわえた。


 少しだけ考えてから、もう一度口を開く。


「……ねえ、律」


「はい」


「また、こういうことがあったらさ」


 律は、千景を見た。


「……一緒にやる?」


 千景は、少しだけ笑った。


「もちろん、毎回あんな危ないことするのは嫌だけど」


「そうですね」


「でも、困ってる人がいて、私たちにできることがあるなら」


 千景は、まっすぐ律を見た。


「また、一緒に考えてくれない?」


 律は、すぐには答えなかった。


 窓の外へ視線を向ける。


 夕方の街。


 行き交う人々。


 その中には、異能というものを知らずに生きている人が大勢いる。


 今回の事件も、普通の社会では説明できないことがいくつもあった。


 それを調べるには、知識だけでは足りない。


 異能が使えるだけでも、足りない。


 律は、ゆっくり千景へ向き直った。


「……ええ」


 穏やかな声だった。


「僕でよければ」


 千景は笑った。


「じゃあ、決まり!」


「ただし」


 律が続けた。


「無茶をするときは、事前に相談してください」


「……えー」


「できれば、九階から橋を渡る前に」


「……分かったって」


「本当ですか?」


「たぶん」


「……千景さん」


「はいはい、ちゃんと相談します!」


 律は、小さく息を吐いた。


 千景は、その反応を見て笑った。


 欠けた名字を持つ二人。


 異能を発現させた少女と、まだ異能を持たない少年。


 同じ家系でもなければ、考え方も違う。


 けれど、だからこそ。


 一人では気づけなかったことに、二人なら気づけるのかもしれない。


     ◇


 同じころ。


 都内の、とある建物の地下室。


 白い照明に照らされた部屋で、男が一人、端末を操作していた。


 画面には、短い報告が表示されている。


『対象確保失敗』


『現場に複数の異能者が介入』


『佐伯俊一の協力者と思われる架橋能力者を確認』


 男は、しばらく画面を見つめていた。


 そして、ゆっくりと息を吐く。


「……失敗、か」


 机の向こうには、別の人物が立っていた。


「どうします?」


 尋ねられた男は、少し考えた。


「高梨美咲の件は、いったん止めろ」


「……よろしいんですか」


「警察が動いている。今、同じ相手にこだわる理由はない」


「……分かりました」


 男は、別の画面を開いた。


 そこには、いくつもの名前が並んでいた。


 年齢。


 性別。


 生活環境。


 そして、いくつかの数字。


「……次の候補は?」


 男が尋ねた。


 向かいの人物が答える。


「すでに、いくつか選定されています」


「そうか」


 男は頷いた。


「では、そちらを進めろ」


「承知しました」


 短いやり取りだった。


 そこに、高梨美咲が連れ去られかけたことへの怒りも、失敗したことへの焦りもない。


 ただ、予定していた取引の一つが成立しなかった。


 それだけのことだった。


 画面の隅には、別の報告も表示されている。


『現場担当者、帰還済み』


『異能に関する情報の公的機関への拡散は未確認』


 男は、その項目を一瞥した。


「……それにしても」


 小さく呟く。


「月成か」


 向かいの人物が、顔を上げた。


「ご存じで?」


「五家の一つだ」


 男は答えた。


「余計な連中に見つかったな」


 少しだけ考えてから、画面を閉じる。


「しばらく、あの辺りには近づくな」


「……承知しました」


 男は椅子に背を預けた。


 取引の予定は、まだ残っている。


 高梨美咲が助かったところで、それがなくなるわけではない。


 佐伯俊一が死んだところで、組織が止まるわけでもない。


 男は、新しく届いた連絡へ目を向けた。


『次回納品について、確認をお願いします』


 その文章を見ても、表情は変わらなかった。


     ◇


 ファミリーレストランの窓の外では、街灯が灯り始めていた。


 千景は、飲み終わったグラスをテーブルに置いた。


「……そろそろ帰ろっか」


「そうですね」


 律が頷いた。


 二人は会計を済ませ、店の外へ出た。


 夜の空気は、少し冷たかった。


「……ねえ、律」


「はい」


「喬本さんの橋ってさ」


 千景は、少し考えた。


「結局、何だったんだろうね」


 律は首を傾げた。


「……どういう意味でしょう」


「いや、橋を架ける力だったでしょ」


「ええ」


「人を助けることもできたし、殺すこともできた」


 千景は、ゆっくり歩きながら続けた。


「でも、喬本さん自身は、どっちも同じ人なんだよね」


「そうですね」


「……不思議だなって」


 律は、少し考えた。


「名前が、その人のすべてを決めるわけではないのでしょうね」


「……うん」


「喬本さんは橋を架ける力を持った。ですが、その力をどう使うかまでは、名字が決めてくれるわけではない」


 千景は頷いた。


「……そうだね」


「そして、一度選んだことも、なかったことにはできません」


 千景は、夜空を見上げた。


 月が出ていた。


 雲の隙間から、白い光が覗いている。


「……ねえ、律」


「はい」


「欠けた字ってさ」


 千景は、少しだけ笑った。


「完成したら、それで終わりなのかな」


 律は、すぐには答えなかった。


「……どうでしょう」


「……分かんない?」


「ええ」


 律は、静かに頷いた。


「少なくとも、異能が発現したからといって、人間として完成するわけではありませんから」


 千景は、その言葉を聞いて笑った。


「……だよね」


 喬本直人は、橋を架ける力を持っていた。


 それでも、迷った。


 間違えた。


 人を殺した。


 そして、また人を助けた。


 どれか一つだけが、喬本直人なのではない。


「……だったらさ」


 千景が言った。


「これからも、いろいろあるんだろうね」


「そうでしょうね」


「……面倒だなあ」


「ええ」


 律は、小さく笑った。


「ですが、退屈はしないかもしれません」


 千景は、思わず律を見た。


「……律、そういうこと言うんだ」


「たまには」


「……へえ」


 千景は笑った。


 二人は、駅へ向かって歩き始めた。


 その背後で、街の明かりが一つ、また一つと灯っていく。


 知らない場所で、知らない誰かが暮らしている。


 その中には、欠字の姓を持つ人間もいるだろう。


 異能を発現させた者も。


 まだ何の力も持たない者も。


 そして、その力を何に使うか、迷っている者も。


 千景は、自分の手を見た。


 月成。


 欠けた文字を持つ、正式な名字。


 それは、自分が選んだものではない。


 だが、その名前でどう生きるかは、自分で決められる。


「……律!」


 千景が、少し先を歩く律を呼んだ。


「はい?」


「次は、もうちょっと平和な事件がいいね!」


 律は振り返った。


 そして、穏やかに答える。


「……そう願いたいですね」


 千景は笑った。


 夜の街を、二人は並んで歩いていく。


 渡りきれなかった橋は、もうどこにもない。


 けれど、あの橋を架けた人間の選択も、そこから落ちた人間の死も、消えたわけではなかった。


 そして、橋を渡りきった人々の生活も、これから先へ続いていく。

お読みいただきありがとうございます。


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