第6話『次の標本』
月曜日の夜。
月成千景は、駅の改札へ向かう途中で足を止めた。
スマートフォンが震えたのだ。
画面には、竟宮律からのメッセージが表示されている。
『喬本さんから、追加で話したいことがあると連絡が入りました』
「……え?」
千景は眉を寄せた。
つい先ほど、喬本とは喫茶店で別れたばかりだった。
あれほど話すことを恐れていた人が、今度は自分から連絡してきた。
何かあったのだろうか。
続けて、もう一通。
『佐伯氏が亡くなった夜のことだそうです』
千景はすぐに返信した。
『今どこ?』
『先ほどの店です。喬本さんも戻ってこられるそうです』
『分かった。戻る』
千景は改札へ向かっていた足を反対方向へ向けた。
月曜日の夜だ。
明日も学校がある。
帰宅して、夕飯を食べて、風呂に入って。
普通なら、そうして一日が終わる時間だった。
けれど、今はそれどころではない。
喬本が自分から話そうとしている。
それが何を意味するのか。
千景には、まだ分からなかった。
◇
喫茶店に戻ると、律は先ほどと同じ席に座っていた。
ただし、向かいには誰もいない。
「喬本さんは?」
千景が尋ねた。
「まだです。こちらへ向かっているそうです」
「そっか」
千景は椅子に腰を下ろした。
「……何だろうね」
「分かりません」
「でも、さっきはもう話せないって言ってたよね」
「ええ」
律はスマートフォンを机に置いた。
「別れた後、喬本さんから管理担当者を通じて連絡がありました。急ぎで伝えたいことがあると」
「急ぎ?」
「そうです」
千景は腕を組んだ。
佐伯の死後も、知らない番号から連絡が続いている。
喬本はそう話していた。
そして、仕事は終わっていないとも。
「……また、何か言われたのかな」
「その可能性はありますね」
律は静かに答えた。
「ただ、今はこちらから推測しても仕方ありません」
「……まあ、そうだけど」
千景は店の入口へ視線を向けた。
数分後。
喬本直人が姿を現した。
店内を見回し、二人を見つけると、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「……すみません」
席に着くなり、喬本は頭を下げた。
「何度も、こんな……」
「大丈夫ですよ」
千景が答えた。
「それより、何かあったんですか?」
喬本は、すぐには答えなかった。
テーブルの下で、両手を握りしめている。
律が静かに口を開いた。
「急ぎのお話があると伺いました」
「……はい」
「お聞かせいただけますか」
喬本は顔を上げた。
その目は、赤くなっていた。
「……佐伯さんが、あの夜、何をしようとしていたのか」
千景は息を止めた。
喬本は続けた。
「まだ、話していないことがあります」
◇
「……今までは、亡くなった人を運んでいたんです」
喬本は、ぽつりと言った。
「はい」
律が頷く。
「先ほどのお話ですね」
「……でも、最後の依頼は違いました」
千景は顔を上げた。
「違った?」
「……はい」
喬本は唇を噛んだ。
「まだ、生きている人だったんです」
千景は、一瞬言葉を失った。
「……生きてる?」
「……はい」
「それって……」
千景は言葉を探した。
「人を、連れ去れってこと?」
喬本は小さく頷いた。
「佐伯さんから、そう言われました」
律の表情が変わった。
「具体的には、どのような依頼だったのでしょうか」
「……ある女性を、指定された場所へ連れていくようにと」
「本人の同意は?」
喬本は首を振った。
「ありません」
「では、誘拐を手伝うよう求められたということですね」
「……はい」
千景は、思わず拳を握った。
亡くなった女性の遺体を運ぶ仕事。
それだけでも、十分に異常だった。
だが、今度は生きている人間だという。
「……断ったんですよね?」
千景が尋ねた。
「……はい」
「それで、佐伯さんは?」
「いつもと同じように、家族の話をしました」
喬本の声が震えた。
「断るなら、妻と娘に何が起きても知らないと」
千景は、ゆっくり息を吐いた。
「……それで、あの日の夜に?」
喬本は頷いた。
「佐伯さんに呼び出されました。A棟に来いと」
「九階の点検テラスですね」
律が確認する。
「……はい」
「なぜ、あそこだったんですか?」
喬本は顔を伏せた。
「……隣の建物へ、行くためです」
千景と律は、顔を見合わせた。
B棟。
九階。
高梨美咲が暮らしている建物だった。
「……喬本さん」
千景は、ゆっくり尋ねた。
「連れ去る相手って、誰だったんですか?」
喬本は、しばらく黙っていた。
それから、かすれた声で答えた。
「……高梨美咲さんです」
千景の背中を、冷たいものが走った。
「……え?」
「B棟の九階に住んでいる、二十七歳の女性です」
律が、静かに顔を上げた。
「間違いありませんか」
「……はい」
「その名前は、佐伯さんから直接聞いたんですね」
「はい。部屋番号も聞いています」
千景は、喬本を見つめた。
高梨美咲。
土曜日、自分たちが話を聞きに行った女性。
窓の外から足音が聞こえたと話していた。
怖かったと、小さく笑っていた。
あの人が。
標的だった。
「……待って」
千景は喬本を見つめた。
「じゃあ、佐伯さんがあの夜、九階のテラスにいたのって……」
「……高梨さんのところへ行くためです」
「でも、隣の建物まで八メートルもあるよね。どうやって渡るつもりだったの?」
喬本は、握りしめた自分の手を見つめた。
しばらくの沈黙。
「……私に、橋を架けろと言いました」
千景は息を止めた。
予想していた答えだった。
それでも、本人の口から聞くのは初めてだった。
「……喬本さん。それって、本当にできることなんですか?」
喬本は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
◇
律は、すぐには質問しなかった。
喬本が初めて、自分から異能に関わる話を始めたからだ。
千景も黙って待った。
「……あの建物は、普通の入口からだと記録が残ると言っていました」
喬本が続ける。
「佐伯さんは、それを嫌がっていたんです」
「だから、A棟の点検テラスから?」
「……はい」
「橋を渡って、B棟の九階へ行くつもりだったんですね」
喬本は頷いた。
「管理会社の人間だと名乗って、高梨さんの部屋を訪ねるつもりだったそうです」
千景は顔をしかめた。
「……そんなの、開けちゃうかもしれないじゃん」
「ええ」
律が答えた。
「管理会社の名前を出されれば、用件を確認しようとする方はいるでしょう」
「でも、廊下に入るだけなら、普通にエレベーターで上がればいいのに」
「記録を避けることが目的だったのでしょうね」
律は少し考えた。
「ただし、橋を使えば目撃される危険もあります。佐伯氏が何を優先していたのかは、確認が必要です」
千景は頷いた。
そこは、まだ分からない。
ただ、一つだけはっきりしたことがある。
佐伯は、偶然あの場所にいたのではない。
高梨美咲を連れ去るために、九階へ上がったのだ。
「……喬本さん」
千景は尋ねた。
「高梨さんを連れ去った後、どうするつもりだったんですか?」
「……私は、運ぶだけだと言われました」
「どこへ?」
「指定された場所です。詳しい住所は、後で伝えると……」
「……それって」
千景は、喬本を見た。
「今まで運んでた女の人たちと、同じところ?」
喬本は答えなかった。
だが、顔を伏せたまま、ゆっくり頷いた。
千景は、言葉を失った。
佐伯の言っていた、人間標本。
亡くなった女性を、生前の姿のまま保存する。
それを商品として売る。
もし、高梨美咲もそのために選ばれていたのなら。
彼女は、まだ生きている。
だからこそ、これから何をされるのかが恐ろしかった。
「……何で、高梨さんだったんですか」
千景が尋ねた。
喬本は首を振った。
「分かりません」
「何か理由があったんじゃ……」
「……私は、何も聞かされていません」
千景は唇を噛んだ。
高梨美咲には、何の落ち度もない。
少なくとも、自分たちが知る限りでは。
普通に仕事をして、普通の部屋で暮らしていた女性だ。
それが、知らないところで誰かに選ばれていた。
勝手に。
商品のように。
「……最低だね」
千景は呟いた。
喬本は何も答えなかった。
◇
「喬本さん」
律が口を開いた。
「一つ、重要な確認があります」
「……はい」
「佐伯さんは亡くなりました。しかし、その後も仕事の指示が届いているんですよね」
「……はい」
「高梨さんについて、何か連絡はありましたか」
喬本は、ゆっくりスマートフォンを取り出した。
「……これです」
画面には、知らない番号から届いたメッセージが表示されていた。
『佐伯の件は聞いた』
『予定は変わらない』
先ほど聞いたものだ。
だが、その下に新しいメッセージがあった。
『お前はもう動かなくていい』
『別の人間を向かわせる』
千景は、画面を見つめた。
「……別の人間?」
「……はい」
喬本は小さく頷いた。
「私は、もう必要ないそうです」
律が尋ねる。
「このメッセージは、いつ届きましたか」
「ついさっきです」
「具体的な日時や場所は書かれていませんね」
「……はい」
千景は腕を組んだ。
「でも、予定は変わらないってことは……」
「高梨さんを狙う計画が続いている可能性があります」
律が答えた。
千景は、すぐに立ち上がった。
「じゃあ、知らせないと!」
「ええ」
律も立ち上がる。
「ただし、僕たちだけで動くべきではありません」
「分かってる!」
千景はスマートフォンを取り出した。
「本家に連絡する!」
律も頷いた。
「僕からはA棟の管理担当者に連絡します。B棟側への連絡経路を確保してもらいましょう」
「うん!」
千景は連絡先を開いた。
そのとき。
「……待ってください」
喬本が、二人を呼び止めた。
千景が振り返る。
「何ですか?」
「……私の家族は」
その声は、ひどく小さかった。
「妻と娘は、どうなるんでしょうか」
千景は、言葉に詰まった。
喬本は続けた。
「私が話したと知られたら……」
喬本の手が震えていた。
「……あの人たちは、本当に何をするか分からないんです」
千景は、スマートフォンを握り直した。
高梨美咲を守らなければならない。
それは間違いない。
だが、喬本の妻と娘も、同じように危険にさらされている。
「……喬本さん」
千景は、ゆっくり口を開いた。
「ご家族のことも、ちゃんと伝えます」
「……」
「私たちだけじゃ無理だから、大人にも警察にも協力してもらいます」
喬本は顔を上げた。
「……守って、もらえるんでしょうか」
千景は、すぐには答えなかった。
絶対に大丈夫だとは、言えない。
自分に、そんな保証はできない。
それでも。
「守れるように、動きます」
千景は答えた。
「高梨さんも、喬本さんの奥さんも娘さんも」
喬本は、しばらく千景を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……お願いします」
◇
それからの動きは、慌ただしかった。
千景が連絡した月成家の担当者は、事情を聞くと、すぐに関係先との調整を始めた。
B棟の管理会社にも連絡が入り、高梨美咲本人への確認が進められる。
喬本が示したメッセージについては、本人の同意を得たうえで、警察への相談に使えるよう保存することになった。
喬本の家族にも危険が及ぶ可能性がある。
そのことも、警察へ伝えられた。
ただ、すべてがすぐに解決するわけではない。
組織の正体は不明。
犯行の日時も不明。
高梨美咲を実際に連れ去ろうとしている人物が誰なのかも、分かっていない。
そして、千景たちが得た情報の多くは、喬本本人の証言に基づくものだった。
律は電話を終えると、千景へ向き直った。
「警察には、脅迫と誘拐のおそれがあることを伝えてもらっています」
「うん」
「B棟の管理会社にも協力をお願いしました。高梨さんには、施錠した室内から出ないよう伝えています」
「まだ部屋にいてもらうの?」
「ええ。相手が建物の外で待っている可能性もあります。今すぐ一人で移動してもらう方が危険です」
「あ……そっか」
「警察官が到着し次第、周囲の安全を確認したうえで、付き添って安全な場所へ移動してもらう予定です。それまでは管理会社側でも建物の出入口を確認してもらっています」
「……うん」
千景は頷いた。
何も知らないまま外へ出てもらうより、その方がいい。
「喬本さんの家族は?」
「そちらも、ご本人と連絡を取りながら移動の準備を進めてもらっています」
「そっか」
千景は、少し安心した。
自分たちだけでできることには限界がある。
まして、相手は人間の遺体を売買しているかもしれない集団だ。
高校生二人が勝手に動いて、何とかできる話ではない。
それでも。
千景には、まだ気になることがあった。
「……ねえ、律」
「はい」
「高梨さん、怖がってるかな」
「……そうでしょうね」
「だよね」
千景は、土曜日に訪ねた部屋を思い出した。
白い壁。
木目調の家具。
テーブルの上の雑誌。
あのとき、美咲は自分が狙われていることなど知らなかった。
ただ、変な足音を聞いただけだと思っていた。
「……ちゃんと、無事でいてほしいな」
千景が呟く。
律は静かに頷いた。
「ええ。そのために、今できることをしましょう」
◇
高梨美咲から直接話を聞けたのは、少し後のことだった。
管理会社を通して連絡したところ、本人が千景たちと話したいと希望したのだ。
電話越しの声は、土曜日に会ったときとはまるで違っていた。
『……あの、月成さんですか』
「はい。千景です」
『管理会社の人から、危ないかもしれないって聞いたんですけど……』
「……はい」
千景は、言葉を選んだ。
「高梨さんを狙っている人がいるかもしれないんです」
『……私を?』
「まだ、全部確認できたわけじゃないんですけど」
『どうして……?』
美咲の声が震えた。
『私、何もしてないですよ』
「……うん」
『誰かに恨まれるようなことも、覚えがないし……』
「そうですよね」
千景は、ゆっくり答えた。
「でも、理由が分からなくても、危ないことはあるから」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
『……土曜日の、あの音と関係あるんですか』
千景は少し迷った。
「……あるかもしれません」
『じゃあ、あのとき……』
美咲は言葉を止めた。
『あのとき、誰かが私の部屋に来ようとしてたんですか?』
千景は、すぐには答えられなかった。
美咲が聞いた足音。
窓の外から近づいてきた、奇妙な音。
それが佐伯のものだった可能性は高い。
だが、確定したわけではない。
「……その可能性があると思ってます」
『……』
「ただ、今は安全の方が大事です」
千景は続けた。
「玄関は開けないでください。管理会社の人が来たって言われても、必ず電話で確認してください」
『……はい』
「今は部屋の鍵をかけたまま待っててください。警察の人が来たら、管理会社からも確認してもらいます」
『……分かりました』
少し間が空いた。
『あの……』
「はい?」
『私、本当に大丈夫なんでしょうか』
千景は、言葉に詰まった。
大丈夫。
そう言ってあげたかった。
だが、何の保証もないまま安心させるのは、違う気がした。
「……一人にはしません」
千景は答えた。
「管理会社の人にも協力してもらってます。警察にも連絡しています」
『……はい』
「だから、今は無理に動かないでください」
美咲は、しばらく黙っていた。
やがて、小さな声で答えた。
『……分かりました。ありがとうございます』
電話が切れる。
千景は、スマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
「……千景さん」
律が呼びかける。
「ん?」
「大丈夫ですか」
「……うん」
千景は顔を上げた。
「でも、嫌だね」
「何がですか」
「ああやって怖がってる人に、何も心配いらないって言えないの」
律は少し考えた。
「確実でないことを約束しなかったのは、正しいと思いますよ」
「……そうかな」
「ええ」
千景は、小さく息を吐いた。
「……だったら、ちゃんと大丈夫にしないとね」
律は頷いた。
「そうですね」
◇
月成家から派遣された担当者と合流したのは、B棟の近くにある管理事務所だった。
時刻は、夜の九時を回っていた。
担当者は、すでに警察との連絡を始めていた。
警察官はB棟へ向かっている。
到着して周囲の安全を確認するまでは、美咲には施錠した自室で待機してもらうことになっていた。
B棟の管理会社も、出入口の監視と不審者の確認を続けている。
喬本の家族についても、本人と相談しながら安全な場所へ移動できるよう手配を進めている。
千景は、その説明を聞いて少し安心した。
「……よかった」
「まだ対応の途中です」
担当者は言った。
「警察官が到着するまでは、油断できません」
「……はい」
千景は頷いた。
喬本は、部屋の隅で黙って座っていた。
妻と娘のことが心配なのだろう。
何度もスマートフォンを確認している。
律は、B棟の見取り図を見ていた。
「高梨さんの部屋は、九階の外廊下に面しています」
「うん」
「玄関から避難する場合は、共用廊下を通ってエレベーターか階段へ向かう必要があります」
「そうだね」
「現時点では、建物内で不審者が確認されたという連絡はありません」
千景は、図面を覗き込んだ。
「警察の人が来たら、一緒に下りてもらう感じ?」
「その方向で調整しているそうです」
「そっか」
千景は頷いた。
警察官が来るまで、まだ少し時間がある。
その間にできるのは、状況を整理して待つことだけだった。
そのとき、喬本が口を開いた。
「……あの」
二人が振り返る。
「どうしました?」
千景が尋ねた。
喬本は、しばらく言葉を探していた。
「……高梨さんは」
「はい」
「まだ、あの部屋にいるんですよね」
「警察の人が来るまでは、部屋から出ないでもらってます」
喬本は目を伏せた。
「……私が、あのとき……」
言葉が途切れる。
千景は、喬本の顔を見つめた。
「……喬本さん?」
喬本は、ゆっくりと顔を上げた。
「……話さなければならないことが、あります」
律が資料から目を上げた。
「何でしょうか」
喬本は、震える声で言った。
「……佐伯さんのことです」
千景は黙った。
「……あの夜」
喬本は、自分の手を見つめた。
「私は、佐伯さんを止めたかったんです」
「……はい」
「生きている人を連れていくなんて、できなかった」
喬本の声が震えた。
「でも、断れば、妻と娘がどうなるか分からなかった」
千景は、ゆっくり頷いた。
喬本は続けた。
「……だから」
長い沈黙が落ちた。
「……橋を、架けました」
律の視線が、喬本へ向いた。
「A棟から、B棟へ?」
「……はい」
「佐伯さんは、その橋を渡ったんですね」
喬本は頷いた。
「……途中まで」
千景は息を止めた。
喬本は、顔を上げなかった。
「……佐伯さんが、橋の真ん中あたりまで来たとき」
喬本の声は、ひどく小さかった。
「……消したんです」
千景は、動けなかった。
「橋を?」
喬本は頷いた。
「……はい」
律が静かに尋ねた。
「意図的に、ですか」
喬本は目を閉じた。
「……はい」
沈黙。
管理事務所の空調の音だけが聞こえていた。
千景は、喬本を見つめていた。
二年前。
人を助けるために、存在しないはずの道を架けた男。
その男は、今度は自分の意思で橋を消した。
人が渡っている途中で。
「……喬本さん」
千景は、ゆっくり口を開いた。
「それって……」
喬本は顔を上げた。
その目から、涙がこぼれていた。
「……私が、殺しました」
誰も、すぐには答えなかった。
「佐伯さんを」
喬本は、もう一度言った。
「……私が、殺したんです」
◇
千景は、しばらく黙っていた。
何と言えばいいのか、分からなかった。
佐伯俊一は、許されないことをしていた。
亡くなった女性を商品として扱い、喬本の家族を脅し、生きている美咲を連れ去ろうとした。
喬本がそれを止めたいと思った気持ちは、分かる。
だが。
だからといって、人を殺していいわけではない。
「……どうして」
千景は、ようやく口を開いた。
「どうして、警察に相談しなかったんですか」
喬本は首を振った。
「……怖かったんです」
「家族が?」
「……はい」
「だから、佐伯さんを?」
喬本は黙っていた。
「……あの人がいなくなれば、全部終わると思ったんです」
千景は、喬本を見つめた。
「……でも、終わらなかった」
喬本は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
千景は、目を伏せた。
何も言えなかった。
目の前の男を、ただの悪人だとは思えない。
人を助けた過去がある。
守りたい家族がいる。
それでも、自分の意思で人を殺した。
その事実は、消えない。
「……千景さん」
律が静かに口を開いた。
千景は顔を上げた。
「ここからは、僕たちだけで判断するべきではありません」
「……うん」
律は喬本へ向き直った。
「喬本さん。今のお話は、月成家の担当者にも伝える必要があります」
喬本は、ゆっくり頷いた。
「……分かっています」
「それから、佐伯氏を意図的に転落させたという件についても、いずれ責任を問われることになるでしょう」
「……はい」
「ただし、異能については慎重に扱う必要があります。警察へどのような形で説明するかは、本家とも相談する必要があります」
喬本は顔を上げた。
「……では、私はどうすれば」
「まずは、ご家族と高梨さんの安全を確保することです。そのうえで、今後の対応を本家の方々と相談しましょう」
律は少し間を置いた。
「もちろん、佐伯氏の死について責任を負わなくていい、という意味ではありません」
「……分かっています」
喬本は、ゆっくり頷いた。
「……逃げるつもりは、ありません」
律も頷いた。
「分かりました」
月成家の担当者が席を立った。
本家へ状況を報告し、今後の対応を確認するためだった。
千景は、喬本の顔を見た。
「……喬本さん」
「……はい」
「私、佐伯さんがやってたこと、許せないです」
喬本は目を伏せた。
「……はい」
「でも、喬本さんが殺したことも、よかったとは思えない」
喬本の肩が震えた。
「……分かっています」
千景は少しだけ息を吐いた。
「……それでも」
喬本が顔を上げる。
「高梨さんを助けたいって思ったのは、本当なんですよね」
喬本は、何度も頷いた。
「……はい」
「だったら」
千景は、まっすぐ喬本を見た。
「今度は、ちゃんと助けましょう」
「……」
「誰かを殺すんじゃなくて」
喬本は、唇を噛んだ。
「……はい」
小さな返事だった。
だが、千景には、はっきり聞こえた。
◇
律が、管理事務所の窓からB棟を見上げていた。
「……千景さん」
「ん?」
「一つ、気になることがあります」
「何?」
「相手が異能を使える人間を送り込んでくる可能性です」
千景は顔を上げた。
「……ああ」
考えていなかったわけではない。
喬本の異能を利用して、今まで人間を運ばせていた集団だ。
異能の存在を知っている可能性は高い。
「……他にも、使える人がいるかもしれないってこと?」
「ええ」
律は頷いた。
「佐伯氏が異能を知っていたなら、その背後にいる人間も知っている可能性があります」
「……そうだね」
「もし通常の施錠や警備では対応できない能力を持っていた場合、避難経路が使えなくなるかもしれません」
千景は図面を見た。
B棟の九階。
外廊下。
エレベーター。
階段。
普通の建物なら、それらを使って逃げればいい。
だが、相手が普通ではないなら。
「……そうなったら、どうする?」
千景が尋ねた。
律は、すぐには答えなかった。
代わりに、喬本を見た。
「喬本さん」
「……はい」
「橋は、どのくらいの幅で作れますか」
喬本は、少し驚いたようだった。
「……橋、ですか」
「ええ」
律は図面を指さした。
「A棟とB棟の間に、再び橋を架けることはできますか」
喬本は、しばらく考えた。
「……できます」
千景が顔を上げた。
「本当に?」
「……はい」
「どのくらいの人数が渡れるんですか?」
喬本は、少し迷ってから答えた。
「……大人なら、二人くらいです」
「二人?」
「同時に乗せられるのは、そのくらいが限界です」
千景は腕を組んだ。
高梨美咲。
喬本。
自分と律。
もし全員が渡るなら、二人ずつ移動する必要がある。
しかも、九階の高さだ。
途中で橋が消えたら、命はない。
「……危なくない?」
千景が尋ねた。
喬本は俯いた。
「……安全だと、簡単には言えません」
千景は、小さく頷いた。
当然だ。
つい先ほど、その橋を消して人を殺したと聞いたばかりなのだから。
「……でも」
喬本は、顔を上げた。
「今度は、絶対に消しません」
千景は、その言葉を聞いていた。
信用していいのか。
それは、まだ分からない。
だが、もし本当に避難が必要になったとき。
橋という選択肢があることには意味がある。
「……律」
「はい」
「私の力も、使えるかもしれない」
律が千景を見る。
「月成の領域ですか」
「うん」
千景は頷いた。
「重さを軽くできれば、橋にかかる負担も減るでしょ」
「……なるほど」
律は少し考えた。
「理屈の上では、そうですね。ただし、実際にどこまで負荷を減らせるかは確認が必要です」
「分かってる」
千景は笑った。
「いざとなったら、って話」
「ええ」
律は頷いた。
「できれば、使わずに済むのが一番ですね」
「……ほんと、それ」
千景は窓の外を見た。
B棟の九階には、まだ明かりがついている部屋があった。
あのどこかに、高梨美咲がいる。
警察官が到着すれば、普通に建物を出られるかもしれない。
それなら、橋を架ける必要もない。
異能を使う必要もない。
誰かが傷つく必要もない。
千景は、そう願った。
◇
そのとき、管理事務所の電話が鳴った。
担当者が受話器を取る。
「はい。……ええ」
千景は、何となくそちらへ視線を向けた。
担当者の表情が変わる。
「……今、ですか?」
律も顔を上げた。
「……分かりました。すぐ確認します」
電話を切った担当者は、千景たちへ向き直った。
「高梨様から、連絡がありました」
千景は立ち上がった。
「何かあったんですか?」
「廊下に、人がいるそうです」
千景の背中に、冷たいものが走った。
「……人?」
「はい。先ほどから、部屋の前に誰かが立っているようだと」
律が尋ねた。
「管理会社の方ではないんですね」
「確認しましたが、こちらからは誰も派遣していません」
「警察は?」
「まだ到着していません」
千景は、すぐにスマートフォンを取り出した。
高梨美咲へ電話をかける。
一度。
二度。
呼び出し音が鳴る。
やがて、つながった。
『……月成さん?』
美咲の声は、ひどく小さかった。
「高梨さん、大丈夫ですか?」
『……はい。でも……』
「どうしました?」
『さっきから、廊下で足音がするんです』
千景は息を止めた。
『それで、玄関の前で止まって……』
「……はい」
『今、誰かがドアを叩いてます』
千景は、律を見た。
律は、すでに立ち上がっていた。
「高梨さん、絶対に開けないでください」
『……はい』
「今、管理会社の人と確認してます。誰も行かせてないそうです」
『……え?』
電話の向こうで、何かが鳴った。
硬い音。
玄関の扉を叩く音だった。
それから。
低い男の声が聞こえた。
『……管理会社の者です』
千景は、息を止めた。
『設備の確認で伺いました。少しだけ、開けていただけますか』
美咲の声が震える。
『……どうしよう』
「開けないで!」
千景は、思わず声を強めた。
「高梨さん、絶対に開けないで!」
『……はい!』
千景はスマートフォンを耳に当てたまま、律を見た。
「……律!」
「ええ」
律は短く頷いた。
「警察へ、すでに建物内へ不審者が入っている可能性があると追加で伝えてもらいます。僕たちも管理会社と動きましょう」
千景は頷いた。
喬本が立ち上がる。
「……私も」
千景は振り返った。
喬本は、震える手を握りしめていた。
「……行きます」
千景は、その顔を見た。
殺人を告白した男。
自分の異能で人を殺した男。
それでも、今度は誰かを助けたいと言っている。
「……分かった」
千景は短く答えた。
律が管理担当者へ指示を確認する。
警察への追加連絡。
建物の出入口の監視。
高梨美咲への待機指示。
すべてが、まだ途中だった。
千景は電話越しに呼びかけた。
「高梨さん、聞こえますか?」
『……はい』
「今、そっちに向かいます。知らない人が何を言っても、絶対に開けないでください」
『……分かりました』
千景は、管理事務所の扉へ向かった。
九階。
高梨美咲の部屋。
そこに、誰かがいる。
そして、その誰かは管理会社の人間ではない。
警察は、まだ着いていない。
千景は、歯を食いしばった。
土曜日、別れ際に言った言葉を思い出す。
もしまた変な音がしたら。
自分で確かめに行かないでほしい。
あのときは、ただの念押しのつもりだった。
まさか本当に、こんなことになるなんて。
「……間に合ってよ」
千景は、小さく呟いた。
その声は、誰にも聞こえなかった。
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