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欠字異聞  作者: わかめ
渡りきれなかった橋

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5/8

第5話『運ばれたもの』

 月曜日。


 月成千景は、教室の自分の席で大きく伸びをした。


「……眠い」


「朝から何言ってんの」


 前の席に座っていた友人が、呆れたように振り返る。


「だって眠いんだもん」


「昨日、何してたの?」


「いろいろ」


「いろいろって?」


「親戚の用事に付き合ってた」


「あー、また?」


 千景は曖昧に笑った。


「まあねえ」


 月成家は、外から見れば少し古い家柄の一族だ。


 親戚同士の付き合いが多いことも、家の事情で急に呼び出されることがあるのも、学校の友人たちはある程度知っている。


 もちろん、異能の存在までは知らない。


「大変だね、千景んちも」


「ほんとにね。おかげで宿題やる時間なくなるし」


「いや、それは普段からやってない千景が悪いでしょ」


「ひどい」


「で、終わったの?」


「終わらせた。昨日の夜に」


「えらいじゃん」


「もっと褒めて」


「普通のことだから」


「……世知辛いなあ」


 千景は机に突っ伏した。


 制服の袖が、机の端で少しずれる。


 窓の外では、校庭に朝の日差しが差し込んでいた。


 廊下からは、登校してきた生徒たちの声が聞こえる。


 いつもの月曜日。


 いつもの教室。


 週末に九階からの転落事件を調べていたことなど、ここにいる誰も知らない。


 千景は、机の横に掛けた鞄を見た。


 中には教科書とノート、それからスマートフォンが入っている。


 昨日の夜、律から送られてきたメッセージには、まだ返事をしていなかった。


『佐伯氏の取引関係について、明日確認できることになりました。放課後、お時間はありますか』


 まったく。


 あの男は、こちらが高校生だということを忘れているんじゃないだろうか。


 もっとも、律だって高校生なのだが。


「千景?」


「んー?」


「今日、放課後暇?」


 友人が尋ねた。


「駅前に新しくできたクレープ屋、行かない?」


「あー……」


 千景は少し考えた。


 放課後。


 律と調査の続きをするなら、帰りは遅くなるだろう。


「ごめん。今日もちょっと用事あるかも」


「えー。また親戚?」


「たぶん」


「最近忙しいね」


「そうなんだよねえ」


 千景は苦笑した。


「今度、埋め合わせするから」


「約束ね」


「はいはい」


 友人が前を向く。


 ちょうどそのとき、予鈴が鳴った。


 千景は鞄から教科書を取り出す。


 教師が教室に入ってきて、朝のホームルームが始まった。


 いつもと変わらない光景だった。


 それでも、千景の頭の片隅には、一人の男の顔が残っていた。


 喬本直人。


 二年前、人を救ったかもしれない男。


 そして三日前の夜、佐伯俊一が転落する直前まで一緒にいた男。


 あの人は、何を隠しているのだろう。


 何を、あれほど恐れているのだろう。


 千景は教科書を開いた。


 その答えは、たぶんここには書いていない。


     ◇


 放課後。


 千景が向かったのは、月成家の関連会社が入るオフィスビルだった。


 休日に訪れた本家の屋敷とは違い、こちらはごく普通の現代的な建物だ。


 一階には受付があり、社員証を首から下げた人たちが行き来している。


 千景は制服のまま受付に声をかけた。


「あの、月成です。約束してると思うんですけど」


 受付の女性は、すぐに頷いた。


「お待ちしておりました。会議室へご案内します」


「ありがとうございます」


 案内された部屋には、すでに律がいた。


 机の上にはノートパソコンと数枚の資料。


 相変わらず、準備がいい。


「お疲れさま、律」


「お疲れさまです、千景さん」


「早いね」


「少し早めに着いただけですよ」


「学校、もう終わったんだ?」


「ええ」


 律は千景の制服を見た。


「千景さんは、学校から直接ですか」


「うん。着替えるの面倒だったし」


「そうでしたか」


 千景は向かいの椅子に座った。


「で、何か分かった?」


「佐伯氏と喬本氏の仕事上の関係について、確認できる資料がいくつかあります」


「お、いいね」


「ただし、今回見られるのは、あくまでこちらの会社が保有する記録だけです」


「分かってるって」


 千景は笑った。


「警察じゃないんだから、何でも調べられるわけじゃないんでしょ」


「ええ。その通りです」


「律に何回も言われたから、さすがに覚えた」


「それならよかったです」


「……ちょっと嬉しそうなの腹立つなあ」


 律が小さく笑ったところで、会議室の扉が開いた。


 入ってきたのは、会社の管理部門に勤める男性だった。


 四十代ほどの、落ち着いた雰囲気の人物である。


「お待たせしました」


「いえ。お時間をいただき、ありがとうございます」


 律が立ち上がる。


 千景も慌てて続いた。


「よろしくお願いします」


 男性は二人を見て、軽く頭を下げた。


「お二人の件は、本家から伺っています。ただ、こちらにも出せる情報と出せない情報がありますので、その点はご了承ください」


「承知しています」


 律が答えた。


 男性は資料を机の上に置いた。


「では、佐伯俊一さんとの取引についてご説明します」


     ◇


 佐伯俊一は、特定の会社に所属して働く社員ではなかった。


 設備工事や不動産管理、資材の手配など、複数の業者の間に入って仕事を調整する立場だったという。


「いわゆる仲介業者、ですか?」


 律が尋ねた。


「そうですね。本人が工事をするわけではありません。必要な業者を紹介したり、作業の調整をしたりする仕事です」


「喬本さんの会社とも?」


「はい。佐伯さんが関係した案件に、喬本さんの勤務先が入っているものもあります」


 千景は資料を覗き込んだ。


「……普通の仕事だね」


「ええ」


 男性は頷いた。


「少なくとも、当社が正式に発注した仕事については、特に不自然なものはありませんでした」


 建物の空調設備の更新。


 共用部分の修繕。


 設備点検の手配。


 記録には、どれも一般的な業務が並んでいる。


「佐伯さんって、結構いろんな仕事してたんですね」


「そうですね。業者とのつながりが広い方でした」


「じゃあ、喬本さんと一緒にいたのも、別に変じゃない?」


「仕事上の知り合いだったこと自体は、不自然ではありません」


 律が答えた。


「ただし、問題は金曜日の夜に何をしていたかですね」


「そうだね」


 律は資料の一箇所を指さした。


「こちらを確認させてください」


 そこには、少し前の日付で記された問い合わせの履歴があった。


 内容は、建物内の設備管理区画を、夜間に一時利用できるかという相談だった。


「これは佐伯さんから?」


「はい。資材の仮置きに使えないかという問い合わせでした」


「認めたんですか?」


「いいえ。正式な工事に伴うものではありませんでしたので、お断りしています」


 千景は首を傾げた。


「資材を置くだけなら、倉庫とか借りればよくない?」


「そうですね」


 律が答えた。


「ただ、どういう事情だったのかは分かりません」


「何を置きたかったんだろ」


「そこまでは、こちらも聞いていません」


 男性が説明する。


「設備用の資材だという話でしたが、具体的な品目や数量は示されませんでした」


 千景は資料をもう一度見た。


「……何か、変だね」


「ええ」


 律が頷く。


「正式な工事の予定がないのに、夜間の管理区画を使おうとしている」


「しかも、何を置くのかもはっきりしてない」


「そうですね」


 男性は少し困ったように言った。


「ただ、問い合わせがあっただけですから、それ自体が何か問題のある行為だったとは言えません」


「それはそうですね」


 律は頷いた。


 千景も資料から顔を上げた。


 確かに、変わった問い合わせではある。


 だが、それだけで犯罪の証拠になるわけではない。


 千景は少し考えた。


「……ねえ、律」


「はい」


「佐伯さんが、喬本さんに個人的に仕事を頼んでたとしたら?」


「個人的に、ですか」


「うん。この会社を通さずに」


 律は少し考えた。


「その場合、こちらの記録には残らないでしょうね」


「だよね」


「ただし、勤務先の許可を得ていたかどうかも含めて、確認が必要です」


 千景は頷いた。


「じゃあ、喬本さんの会社にも聞いてみる?」


「それがよさそうですね」


 律は管理部門の男性へ向き直った。


「喬本氏の勤務先に、金曜日の作業が会社からの指示だったのか確認していただくことはできますか」


「それでしたら、すでに照会しています」


 男性が答えた。


「金曜日の件ですよね。喬本さんが佐伯さんと建物に入った日の」


「はい」


「会社としては、あの日の夜にA棟での作業は指示していなかったそうです」


 千景は顔を上げた。


「じゃあ、喬本さんは仕事じゃなかった?」


「少なくとも、勤務先が指示した仕事ではなかったということです」


 律が静かに答えた。


「佐伯さんから、直接頼まれた可能性がありますね」


 千景は腕を組んだ。


「……でもさ」


「はい」


「そこまでして、何をしたかったんだろうね」


 律は資料を見つめた。


「それが、今一番知りたいことですね」


     ◇


 会議室を出た後、千景と律は一階の休憩スペースに移動した。


 夕方のオフィスビルには、仕事を終えた人たちが少しずつ増え始めていた。


 千景は自動販売機で買った紅茶を飲みながら、机に肘をつく。


「……結局、佐伯さんから直接頼まれてたかどうかを確認しないと進まないか」


「そうですね」


「じゃあ、どうする?」


「喬本さん本人に聞くのが、一番早いでしょう」


「……また?」


 千景は顔をしかめた。


「さすがに、嫌がられない?」


「その可能性はあります」


「だよねえ」


 ここ数日で、すでに何度も喬本に話を聞いている。


 しかも喬本は、こちらの質問に対して明らかに警戒していた。


 何かを隠しているのは間違いないと思う。


 だが、相手が話したくないというものを、無理に聞き出すことはできない。


「……ねえ、律」


「はい」


「喬本さんって、私たちが何を知ってると思ってるんだろうね」


 律は少し考えた。


「少なくとも、二年前の事故について調べたことは伝わっています」


「うん」


「橋のようなものが存在した可能性も、こちらから示しました」


「うん」


「ですから、異能について疑われていることは理解しているでしょう」


「だよね」


 千景は紅茶の缶を眺めた。


「……でも、あの人、そこまで聞かれても黙ってるんだよね」


「ええ」


「隠す理由があるってことかな」


「そう考えるのが自然でしょうね」


 律は少し間を置いた。


「ただし、異能の存在を知られたくないという理由だけかもしれません」


「……ああ」


 千景は頷いた。


 異能は、この世界の誰もが知っているものではない。


 普通に暮らしている人間が、突然、自分に説明のつかない力があると気づいたら。


 それを他人に話したくないと思っても、不思議ではない。


「喬本さん、欠字について知らないみたいだったもんね」


「少なくとも、そう説明していましたね」


「異能のことは自覚してるのかな」


「仮に二年前の通路を作ったのが本人なら、何かしら認識している可能性は高いでしょう」


「そっか」


 千景は小さく息を吐いた。


「……じゃあ、怖いだろうね」


 律が顔を上げた。


「何がですか」


「自分の力を知ってる人間が、突然現れたら」


「……なるほど」


 律は頷いた。


「確かに、その可能性はあります」


「それなのに、何回も質問してるんだもんなあ」


 千景は少し困ったように笑った。


「私たち、結構嫌な奴かも」


「調査の必要性と、相手に与える負担は別の問題ですね」


「そうだけどさ」


「ただ、無理に面会を求め続けるのは、よい方法とは思いません」


「うん」


 律はスマートフォンを取り出した。


「一度だけ連絡してみます。お話しいただけることがあれば、こちらは聞く用意があると」


「来てくれるかな」


「分かりません」


「……だよね」


 千景は苦笑した。


 律は短い文章を作り、A棟の管理担当者を通して喬本へ伝えてもらうよう依頼した。


 あとは、本人の返事を待つしかない。


     ◇


 返事が来たのは、それから三十分ほど後だった。


「……え、会ってくれるの?」


 千景は思わず声を上げた。


「ええ。ただ、場所を指定されています」


「どこ?」


「駅の近くの喫茶店です」


「あれ。また喫茶店?」


「人目のある場所の方が安心なのでしょう」


「なるほどね」


 千景は立ち上がった。


「じゃ、行こっか」


 律はスマートフォンをしまう。


「千景さん」


「ん?」


「今日は、こちらから異能について問い詰めるのは避けましょう」


「分かってるよ」


「佐伯氏との仕事の関係を確認することが目的です」


「うん」


 千景は頷いた。


 ただ、少し気になることがあった。


 昨日までは、あれほど質問を嫌がっていた喬本が、今日はすぐに面会を了承した。


 単に気が変わったのだろうか。


 それとも。


 喬本の側にも、今までとは違う理由ができたのだろうか。


     ◇


 喬本は、店の奥の席に座っていた。


 仕事帰りなのか、少しくたびれた作業着姿だった。


 テーブルの上には、水の入ったグラスだけが置かれている。


「……何度もすみません」


 律が頭を下げた。


「いえ」


 喬本は短く答えた。


 その顔には、やはり疲労の色が濃い。


「今日は、お仕事のことで少し確認したくて」


 千景が言うと、喬本は顔を上げた。


「……佐伯さんとのことですよね」


「はい」


 喬本はしばらく黙っていた。


 それから、昨日までとは違う声で言った。


「……その前に、俺から話しておきたいことがあります」


 千景は律を見る。


 律もわずかに表情を変えた。


「分かりました」


 律が答える。


「聞かせてください」


 喬本は、テーブルの上のグラスへ視線を落とした。


「佐伯さんから、会社を通さずに仕事を頼まれたことがあります」


 千景は黙って続きを待った。


「……運搬です」


「運搬?」


「荷物を、指定された場所へ運ぶ仕事です」


「設備の資材ですか?」


 喬本は答えなかった。


 千景は少し考えてから尋ねた。


「喬本さんの、橋を使って?」


 喬本の指が止まった。


 律は千景を見たが、何も言わなかった。


 喬本は、ゆっくりと顔を上げた。


「……その話は、しないでください」


 低い声だった。


 千景は口を閉じた。


「……ごめんなさい」


 喬本は首を振った。


「いえ。ただ……」


 そこで言葉を切る。


 しばらく、沈黙が続いた。


 やがて喬本は、小さな声で言った。


「普通の荷物だと思っていたんです」


 千景は顔を上げた。


「最初は」


 喬本は続けた。


「夜中に、荷物を運ぶだけだって。人に知られたくない事情があるから、普通の搬入口は使えないんだって」


 律が静かに尋ねる。


「それを、佐伯さんから依頼されたんですね」


「……はい」


「何を運んでいたかは、確認されなかった?」


「封をした箱でした。中身を見る必要はないと言われて……」


 喬本はグラスを握った。


「報酬も、普通よりずっと高かったんです」


 千景は黙って聞いていた。


「最初は、断ろうと思いました。でも……」


「でも?」


「金が必要だったんです」


 喬本は俯いた。


「家のことで、少し出費が重なっていて」


 それ以上、家庭の事情は話さなかった。


 千景も聞かなかった。


「……何回くらい、運んだんですか?」


「何度か」


「何度か?」


「……正確には、覚えていません」


 律が口を開いた。


「では、途中で中身に気づいたことはありますか」


 喬本の顔が、明らかに強張った。


 千景は、その変化を見逃さなかった。


「……喬本さん?」


「……」


「何を運んでたんですか?」


 喬本は、すぐには答えなかった。


 長い沈黙が落ちた。


 店内では、食器の触れ合う音が聞こえている。


 誰かが笑っている。


 隣の席では、仕事帰りらしい会社員たちが世間話をしていた。


 そんな、ごく普通の喫茶店だった。


 喬本はようやく口を開いた。


「……人です」


 千景は、一瞬意味が分からなかった。


「……人?」


「人間を、運んでいたんです」


 律の表情が変わった。


「生きている方ですか?」


 喬本は首を振った。


「……いいえ」


 千景は息を止めた。


「亡くなっている人、ですか?」


 喬本は、小さく頷いた。


     ◇


「……どうして、それが分かったんですか」


 律が尋ねた。


 喬本は、グラスに目を落としたまま答えた。


「ある日、運んでいた箱の一つが、途中で傾いたんです」


「はい」


「固定が甘かったんでしょう。中で何かがずれて……蓋が、少し開いて」


 喬本はそこで言葉を止めた。


 千景は黙っていた。


「……女の人がいました」


 喬本は、かすれた声で続けた。


「若い女の人です」


 千景の背中を、冷たいものが走った。


「……生きてなかったんですか」


「……はい」


「でも、どうしてそう思ったんですか?」


 喬本は少し顔を上げた。


「最初、寝ているのかと思いました」


「……」


「でも、違ったんです。身体がまったく動かなくて……」


 喬本は目を閉じた。


「佐伯さんに聞いたんです。これは何なんだって」


「何て?」


「……遺体だと」


 喬本は答えた。


「もう亡くなっている人だから、問題ないって」


 千景は眉を寄せた。


「……問題ない?」


「そう言われました」


「いや、そんなわけ……」


 千景は思わず声を強めかけ、口を閉じた。


 喬本を責めても仕方がない。


 少なくとも、今は。


 律が続きを尋ねる。


「遺体を運ぶ正規の仕事ではなかったんですね」


「……はい」


「佐伯さんは、何のために運んでいたと?」


 喬本は首を振った。


「最初は、教えてくれませんでした」


「最初は?」


「……後で、少しだけ聞きました」


 喬本は声を落とした。


「売るんだそうです」


 千景は、耳を疑った。


「……売る?」


「はい」


「何を?」


 喬本は答えなかった。


 いや。


 答えなくても、分かってしまった。


「……その、女の人を?」


 喬本は、小さく頷いた。


 千景は、しばらく言葉を失った。


 人間を売る。


 それも、すでに亡くなっている人間を。


 そういう犯罪が存在することを、知識として知らないわけではない。


 だが、目の前の男が実際にその運搬に関わっていたと聞くと、現実感が薄れる。


「……何のために?」


 千景が尋ねた。


 喬本は、ゆっくり首を振った。


「全部は、分かりません」


「……」


「ただ、佐伯さんは……標本だと言っていました」


「標本?」


 律が聞き返した。


「……はい」


「人間の?」


 喬本は頷いた。


「……生きていたときの姿のまま、残すんだそうです」


 千景は、言葉を失った。


「それを欲しがる人がいると……」


 喬本は、それ以上続けられなかった。


 千景は、テーブルの上に置いた自分の手を見つめた。


 亡くなった女性。


 生前の姿。


 標本。


 そんなものを、商品として扱う人間がいる。


 何のために。


 なぜ。


 考えようとしても、納得できる理由など思いつかなかった。


「……喬本さん」


 律が口を開いた。


「そのような行為が、通常の遺体搬送ではないと気づいた時点で、仕事を断ろうとは思わなかったのですか」


 喬本の肩が、わずかに震えた。


「……思いました」


「では、なぜ続けたんですか」


「……」


 喬本は何も答えない。


 千景は、律へ視線を向けた。


「律」


「はい」


「ちょっと」


 律は千景を見た。


 千景は小さく首を振る。


 喬本は、今にも席を立ちそうな顔をしていた。


 それでも、律は静かに続けた。


「責めているわけではありません。ただ、重要なことです」


 喬本は顔を上げた。


「途中で違法な仕事だと分かっていた。それでも続けたということは、何らかの理由があったはずです」


 千景は黙った。


 律の質問は、確かに必要なものだった。


 ただ、その必要性と、今すぐ答えを聞くべきかどうかは別だと思った。


 喬本は、しばらく俯いていた。


 やがて、低い声で言った。


「……断ったんです」


 千景は顔を上げた。


「一度、もうやらないって」


「……はい」


「でも、駄目だった」


 喬本の手が、わずかに震えていた。


「佐伯さんが……」


 言葉が途切れる。


 千景は、喬本の顔を見つめた。


「佐伯さんが、何ですか?」


 喬本は唇を噛んだ。


「……家族のことを」


 千景の表情が変わった。


「家族?」


「……妻と、娘です」


 喬本は顔を上げなかった。


「二人に何かあったら嫌だろうって」


 千景は息を呑んだ。


 律が尋ねる。


「危害を加えると脅された、ということですか」


「……はい」


「佐伯さんから?」


「……はい」


 喬本は小さく頷いた。


「住所も、娘の学校も、知ってるって」


 千景は、思わず拳を握った。


 それなら、喬本があれほど怯えていた理由も分かる。


 単に、自分の異能を知られたくなかったわけではない。


 家族が脅されていたのだ。


「……警察には?」


 千景が尋ねた。


 喬本は首を振った。


「……言えませんでした」


「どうして?」


「佐伯さんだけじゃないんです」


 千景は顔を上げた。


「……え?」


「ほかにも、関わってる人がいるんです」


 喬本は声を落とした。


「何人いるのかも、誰なのかも分からない。でも、佐伯さん一人でやってたわけじゃない」


 律が静かに尋ねる。


「その人たちについて、何かご存じですか」


「……ほとんど何も」


「顔を見たことは?」


「何度か、受け渡しのときに……でも、名前も知らない人ばかりです」


 千景は、小さく息を吐いた。


 佐伯俊一は、犯罪の中心人物ではない。


 少なくとも、喬本が知っている範囲では、誰かから依頼を受けて運搬を手配する側だった。


 そして、その仕事は佐伯一人がいなくなれば消えるようなものではない。


「……そっか」


 千景は、小さく呟いた。


 喬本は顔を上げた。


「……すみません」


「いや、謝る相手、私じゃないですから」


 少し強い口調になったことに、自分でも気づいた。


 千景は一度息を吐いて、言い直した。


「……ごめんなさい。責めたいわけじゃなくて」


「……」


「ただ、ちゃんと考えないといけないことだと思うんです」


 喬本は黙っていた。


「その女の人たちだって、家族がいたかもしれないし」


 千景は、テーブルの上の資料を見た。


「亡くなったからって、何をしてもいいわけじゃないでしょ」


 喬本は、ゆっくり頷いた。


「……はい」


「でも、喬本さんにも守りたい人がいた」


 千景は顔を上げた。


「……難しいね」


 自分で言ってから、少し嫌になった。


 難しい、で片づけていい話ではない。


 誰かの遺体が盗まれ、商品として扱われているかもしれない。


 その一方で、喬本は家族を人質同然にされていた。


 だからといって、何をしても許されるわけではない。


 千景はまだ、その全部をどう考えればいいのか分からなかった。


     ◇


「喬本さん」


 律が静かに口を開いた。


「今のお話について、記録に残っているものはありますか」


 喬本は、少し顔を上げた。


「……記録?」


「佐伯さんからの依頼や、脅迫についてです。メッセージなどがあれば」


 喬本は迷ったようにスマートフォンを見た。


 それから、ゆっくり画面を操作した。


「……全部じゃないですけど」


「はい」


「いくつか、残っています」


 喬本はスマートフォンをテーブルの上へ置いた。


 画面には、佐伯とのメッセージのやり取りが表示されていた。


 日付は、数週間前。


『明日の件、前と同じ場所で頼む』


『時間は二十二時以降』


『受け取ったら連絡』


 そこには、ごく普通の運搬依頼のような文章が並んでいた。


 ただ、続くやり取りは違った。


『もう引き受けられません』


 喬本からの返信だった。


『中身を知っている以上、これ以上は無理です』


 しばらく後に、佐伯から返事が届いている。


『今さら何を言ってる』


『こっちも困るんだよ』


 そして。


『奥さんと娘さん、元気にしてるか?』


 千景は、画面を見つめた。


 たった一文。


 だが、それだけで十分だった。


「……最低」


 小さく呟く。


 律は画面を見ながら尋ねた。


「この後も、仕事を引き受けるよう求められたんですね」


「……はい」


「佐伯さん以外の人物から、連絡が来たことはありますか」


 喬本は頷いた。


「知らない番号から、何度か」


「内容は?」


「……仕事の確認とか」


「今も連絡は来ていますか?」


 喬本の手が止まった。


 千景は顔を上げた。


「……喬本さん?」


 喬本は、しばらくスマートフォンを見ていた。


「……それが」


 ゆっくりと別の画面を開く。


「今日も、来たんです」


 千景と律は同時に画面へ目を向けた。


 知らない番号。


 届いたのは、今日の昼過ぎだった。


『佐伯の件は聞いた』


 その下に。


『予定は変わらない』


 さらに、少し時間を空けてもう一通。


『次の指示を待て』


 千景は、しばらく何も言えなかった。


「……だから、今日会ってくれたんですか」


 喬本は小さく頷いた。


「佐伯さんがいなくなれば……終わると思ってたんです」


「でも、終わらなかった」


 千景が言う。


「……はい」


 喬本はスマートフォンを握った。


「もう、自分だけで何とかできる話じゃないと思って」


 昨日まで、喬本があれほど拒んでいた理由。


 そして、今日になって話し始めた理由。


 千景にも、ようやく分かった。


 佐伯一人を恐れていたわけではない。


 その向こう側にいる、顔も名前も分からない誰かを恐れていたのだ。


     ◇


 喬本は、今日はこれ以上話せないと言った。


 千景と律も、それ以上は引き止めなかった。


 店を出たときには、すでに外は暗くなっている。


 駅前の歩道を、二人は並んで歩いた。


「……思ってたより、ずっとひどい話だったね」


 千景が言った。


「ええ」


 律は短く答えた。


「佐伯氏が関係していたのは、単なる違法な運搬業務ではなさそうです」


「うん」


「亡くなった女性を商品として扱っていたという話が事実なら、背後には相応の規模の関係者がいる可能性があります」


「……そうだね」


 千景は顔をしかめた。


 人間標本。


 その言葉が、どうしても頭から離れなかった。


「……何でそんなもの欲しがるんだろ」


 千景が呟く。


 律は少し考えた。


「欲しがる人間がいるから、取引が成立するのでしょうね」


「いや、それは分かるけど」


「理由については、今のところ推測するしかありません」


「……そういう意味じゃなくてさ」


 千景は足を止めた。


「人間だよ?」


「ええ」


「亡くなった人を、物みたいに売り買いするんだよ?」


「そうですね」


 律は頷いた。


「千景さんは、それが理解できないんですね」


「……律は理解できるの?」


「行為の仕組みは、ある程度説明できると思います」


 千景は、思わず律を見た。


「……仕組み?」


「希少なものに価値を見いだす人間はいます。通常では手に入らないものほど、欲しがる人間が現れることもあるでしょう」


「いや、そういう話じゃ……」


「もちろん、正当化しているわけではありません」


 律は穏やかに続けた。


「ただ、行為の理由を考えることと、その行為を認めることは別ですから」


 千景は口を閉じた。


 律の言っていることは、分からなくもない。


 だが、どうにも引っかかった。


「……律ってさ」


「はい」


「そういう話してるとき、あんまり嫌そうな顔しないよね」


 律は少し不思議そうだった。


「顔に出す必要がありますか?」


「……そういうとこ」


 千景は小さくため息をついた。


「まあ、いいけど」


 律は少し考えた。


「千景さんが嫌悪感を抱いていることは、理解していますよ」


「……うん」


「ただ、僕が同じ反応をする必要はないと思っています」


「それも分かるんだけどさ」


 千景は歩き始めた。


 律も隣に並ぶ。


「……何か、ずるいなあ」


「何がですか?」


「律はそうやって、ちゃんと整理できるじゃん」


「整理しているだけですよ」


「私は、何か嫌だなって思っちゃうから」


 千景は自分の胸元に手を当てた。


「それが先に来ちゃうんだよね」


 律は、少しだけ考えた。


「それも、一つの判断材料にはなると思います」


「……そう?」


「ええ。千景さんが何に違和感を覚えたのか、そこから見つかることもありますから」


 千景は律を見た。


「……たまにはいいこと言うじゃん」


「ありがとうございます」


「もっと嬉しそうにしてよ」


「嬉しく思っていますよ」


「はいはい」


 千景は笑った。


 だが、すぐに表情を戻した。


「……で、喬本さんの家族、どうする?」


 律も足を止めた。


「そこが問題ですね」


「佐伯さんは死んだのに、まだ連絡が来てるんでしょ」


「ええ」


「だったら、喬本さんが黙ってても、もう安全じゃないよね」


「その可能性があります」


 律は頷いた。


「本家には、喬本氏が脅迫を受けていたと話していることを報告しましょう。ご本人が警察へ相談する際の支援や、ご家族の安全確保について、大人の協力が必要です」


「……うん」


 千景は、少し安心した。


 自分たちだけでできることには限界がある。


 まして、相手は人間の遺体を売買しているかもしれない集団だ。


 高校生二人が勝手に動いて、何とかできる話ではない。


 それでも。


 千景には、まだ気になることがあった。


「……ねえ、律」


「はい」


「佐伯さんさ。なんであの夜、B棟に行こうとしたんだろうね」


 律は千景を見た。


「まだ、向かおうとしていたと決まったわけではありませんが」


「分かってる。でも、もしそうだったら?」


 千景は続けた。


「今までの運搬って、亡くなった人を運ぶ仕事だったんでしょ」


「喬本さんの話では、そうですね」


「なのに、あの日はA棟の九階に行った」


「ええ」


「隣は、普通のマンションだよね」


 律は少し考えた。


「……そうですね」


「荷物を受け取る場所としては、変じゃない?」


 律は、すぐには答えなかった。


 千景は続ける。


「佐伯さん、あそこに何しに行ったんだろ」


 しばらくして、律が口を開いた。


「……そこは、改めて確認する必要がありそうですね」


「でしょ?」


 千景は小さく頷いた。


 佐伯がなぜ落ちたのか。


 どうやって落ちたのか。


 喬本の異能が関係していたのか。


 そればかりを考えてきた。


 だが、その前にある問いが、まだ残っている。


 佐伯俊一は、そもそも何をするために九階へ上がったのか。


 そして。


 なぜ、会社に断られたはずの夜間の管理区画を必要としていたのか。


 千景は駅へ向かいながら、もう一度だけその二つを頭の中で並べた。

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