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欠字異聞  作者: わかめ
渡りきれなかった橋

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第4話『橋を架ける者』

 喬本直人が応接室へ戻ってきたのは、五分ほど経ってからだった。


「……すみません。お待たせしました」


 そう言って頭を下げる喬本の顔は、部屋を出る前よりも青ざめていた。


 月成千景は、その様子を見て少しだけ眉を寄せた。


「大丈夫ですか?」


「……ええ」


「何かあったなら、今日はここまででもいいですけど」


「いえ。大丈夫です」


 喬本は椅子に座り直した。


 だが、落ち着かない様子でスマートフォンを裏返し、テーブルの端へ置く。


 竟宮律は、その動作を見てから口を開いた。


「喬本さん。最後に確認だけさせてください」


「……はい」


「昨夜、佐伯さんと九階の点検テラスへ行かれた。その後、佐伯さんとは別行動になり、喬本さんは一人で建物を出た。ここまでは間違いありませんか」


「……はい」


「その間に何があったのかについては、お話しいただけないということでしょうか」


 喬本は目を伏せた。


「……すみません」


 否定はしなかった。


 千景は律を見た。


 律は一度だけ頷く。


「分かりました。お時間をいただき、ありがとうございました」


「……もう、いいんですか」


 喬本が顔を上げた。


「ええ。無理にお話しいただくことはできませんので」


「……そうですか」


 喬本は、明らかに安堵したようだった。


 だが、その表情はすぐに消えた。


 千景は立ち上がりかけて、ふと尋ねた。


「喬本さんって、ずっと設備の仕事してるんですか?」


「……え?」


「いや、ちょっと気になって」


「今の会社には、もう十年以上います」


「へえ。ベテランなんですね」


「……そんな大したものじゃありません」


 喬本は小さく首を振った。


「ただ、長くやっているだけです」


「でも、そういう人がいると現場は助かるんじゃないですか?」


「……どうでしょうね」


 喬本は曖昧に笑った。


 千景は、その笑顔を見つめた。


 先ほどまでとは、少しだけ違う表情だった。


 仕事の話をしている間だけ、喬本は普通の会社員に戻ったように見える。


「ありがとうございました」


 千景は、それ以上尋ねなかった。


 喬本はもう一度頭を下げ、応接室を後にした。


 扉が閉まる。


「……ねえ、律」


「はい」


「あの人、嘘ついてると思う?」


「何かを隠しているのは確かでしょうね」


「やっぱり?」


「ただ、何を隠しているのかまでは分かりません」


 律は資料をまとめながら続けた。


「こちらから質問を重ねても、同じ答えが返ってくるだけでしょう。今は別の方向から調べた方がよさそうです」


「過去の仕事?」


「ええ」


 千景は、閉じた扉を見た。


 喬本直人。


 橋という字から木偏が欠けた名字。


 もし彼に異能が発現しているのなら、その力が一度も使われていないとは考えにくい。


「……何か出てくるかな」


「出てこない可能性もあります」


「そういうの、いちいち言わなくてもよくない?」


「期待しすぎない方がいいかと思いまして」


「律ってさあ」


 千景は大きく息を吐いた。


「ほんっと、夢がないよね」


「調査ですから」


「はいはい」


 そう言いながらも、千景は少し笑っていた。


     ◇


 その日の夕方。


 千景は駅前のファミリーレストランで、目の前に広げたノートを睨んでいた。


「……分かんない」


 シャープペンシルを置く。


 数学の問題集だった。


 月曜日に提出する宿題である。


 結局、土曜日の午後はほとんど事件の調査に使ってしまった。


 喬本と別れた後、いったん自宅に戻って問題集を取ってきたのだ。


 律が調査の続きを進めている間に、少しでも片づけておこうと思ったのだが。


「千景さん」


「んー?」


「そこ、符号が逆です」


「……え?」


 向かいに座った律が、問題集の一箇所を指さした。


「ここで移項していますから、符号が変わります」


「あ」


 千景は数式を見直した。


「……ほんとだ」


「その後の計算は合っていますよ」


「そこまで見てたの?」


「目に入ったので」


「じゃあ、もっと早く言ってよ」


「ご自身で気づかれるかと思いまして」


「性格悪くない?」


 律は微笑んだ。


「勉強ですから」


「……さっきからそればっかり」


 千景はため息をついて、消しゴムを手に取った。


 律の前にはノートパソコンが開かれている。


 画面には、喬本の勤務先に関する資料が表示されていた。


「で、そっちは?」


「勤務先の概要は確認できました。過去の事故については、まだ問い合わせの返答待ちです」


「そっか」


 千景は計算を書き直しながら尋ねた。


「そもそも、そんな昔のことまで調べさせてもらえるの?」


「何でも見られるわけではありませんよ」


 律は画面を閉じた。


「A棟の管理会社から、喬本さんの勤務先に確認をお願いしています。今回の事故に関係するかもしれない過去の安全記録があれば、開示できる範囲で教えてほしいと」


「会社って、そういうの残してるんだ」


「業務中の事故や重大な危険があった場合は、記録を残していることが多いです。ただし、関係のない個人情報までは出してもらえません」


「ふうん」


「それに、こちらには強制的に調べる権限もありませんから」


「……律って、警察向いてそうだよね」


「そうでしょうか」


「なんか、ちゃんとしてるし」


「それだけで務まる仕事ではないと思いますよ」


「まあ、そりゃそうだけど」


 千景は再び問題集に目を落とした。


 少し考えてから、顔を上げる。


「律って、学校でもそんな感じなの?」


「そんな感じ、とは?」


「授業とかでもさ。先生が間違ったこと言ったら、すぐ指摘するタイプ?」


「間違っていると分かれば、確認することはありますね」


「うわあ」


「何ですか」


「いや、先生大変そうだなって」


「必要なら質問するのは普通では?」


「……そういうとこだよ」


 千景は笑った。


 律は少し不思議そうな顔をしていた。


 事件の調査をしていると、つい忘れそうになる。


 この男も、自分と同じ学生なのだ。


 年上ではあるが、まだ高校三年生。


 そして自分は高校二年生。


 明後日には、何事もなかったように学校へ行かなければならない。


「……はあ」


 千景は再び問題集を見た。


「殺人事件より、こっちの方が難しいかもしれない」


「それは困りますね」


「ほんとにね」


 律は少し笑った。


     ◇


 翌日の日曜日。


 喬本の勤務先から、連絡があった。


 二年ほど前、ある建物の改修現場で事故が発生していたという。


 事故そのものは大きな人的被害を出さずに収束した。


 ただ、その際の避難経路について、社内で確認が必要になったことがあるらしい。


 千景と律は、A棟の管理担当者を通して説明を受けることになった。


 場所は、喬本の勤務先が入る事務所の会議室。


 応対したのは、安全管理を担当する四十代の男性だった。


「記録のすべてをお渡しすることはできませんが、当時の事故について、業務上の確認ができる範囲でしたら」


「ありがとうございます」


 律が頭を下げた。


 千景も続く。


「お休みの日なのに、すみません」


「いえ。うちの社員が死亡事故の直前まで一緒にいたと聞いていますから、こちらとしても気になっています」


 男性は資料をテーブルに置いた。


「ただし、あくまで過去の事故記録です。今回の件と関係があるかは分かりませんよ」


「承知しています」


 律は資料を受け取った。


 千景も横から覗き込む。


 書類には、建物の図面と事故の概要が記されていた。


「……倉庫?」


「物流施設です。二年前、設備の更新工事が行われていました」


 男性は図面を指さした。


 大きな建物の内部に、高い位置へ設けられた二つの作業床がある。


 その間には、数メートルの空間があった。


「工事のため、もともとあった連絡通路を一時的に撤去していたんです」


「連絡通路?」


「作業員が行き来するための足場ですね。このときは工事中だったので、代わりに昇降設備を使う予定でした」


 千景は図面を見た。


 離れた二つの作業床。


 間隔は、およそ五メートル。


 高さは地上から六メートルほど。


 片方の作業床には、設備の交換作業を行う区画があった。


「事故って、何が起きたんですか?」


「電気設備のトラブルです。配電盤で異常が発生し、一部の設備が停止しました。焦げた配線から煙も出ています」


「火事?」


「大きな火災にはなりませんでしたが、当時は延焼する可能性も考えられていました」


 男性は次の資料を開いた。


「問題は、作業員がいた場所です」


 事故発生時、作業床の一方に二人の作業員が取り残された。


 設備が停止したため、使用する予定だった昇降リフトが動かなくなったのだ。


 煙が広がる中、二人は元の場所へ戻ることができなくなった。


「……え、それ危なくない?」


 千景が言った。


「危険な状況でした」


「どうやって助かったんですか?」


「そこが、少し説明しにくい部分でして」


 男性は記録の一箇所を指さした。


 避難方法。


 仮設経路を利用。


 そう記されている。


「仮設経路って?」


「工事用の足場や通路のことです」


「じゃあ、別の通路があったんだ?」


「記録上は、ないんです」


 千景は顔を上げた。


「……ない?」


「ええ」


 男性は図面を示した。


「連絡通路はすでに撤去されています。仮設の足場を設置したという記録もありません。昇降設備も停止していました」


 律が尋ねる。


「では、取り残された作業員はどのように避難したのでしょうか」


「本人たちは、向こう側の作業床まで歩いて移動したと説明しています」


 千景は図面を見た。


 二つの作業床の間には、五メートルほどの空間がある。


 人が歩いて渡れる距離ではない。


「……歩いた?」


「そう言っています」


「何もないところを?」


「もちろん、本人たちもそういう意味ではないと言っていました。足元に通路のようなものがあったと」


 律は資料を確認した。


「その通路は、事故後に確認されていますか?」


「いえ。見つかっていません」


「撤去された可能性は?」


「調べましたが、そのような作業記録もありませんでした」


 千景は、しばらく黙って図面を見つめていた。


 喬本直人。


 橋本。


 そして、離れた二つの作業床。


「……そのとき、喬本さんは?」


 千景が尋ねた。


 男性は別の記録を取り出した。


「避難を誘導した社員の一人です。二人が取り残されていることに気づいて、反対側の作業床から声をかけていたそうです」


「二人は助かったんですよね?」


「ええ。全員、無事に避難しています」


「……そっか」


 千景は小さく頷いた。


 律は、資料の記述をもう一度確認した。


「当時の作業員の方に、お話を伺うことはできますか?」


「一人なら、連絡は取れると思います。ただ、今日お話しいただけるかどうかは、ご本人次第ですね」


「もちろんです」


 男性は頷き、スマートフォンを取り出した。


     ◇


 当時、現場に取り残されていた作業員の一人は、近くの別の現場で勤務していた。


 管理担当者から事情を聞いた本人が、短時間なら話してもいいと応じてくれた。


 千景と律が待ち合わせ場所の喫茶店を訪れると、作業着姿の男性が先に座っていた。


「……長瀬です」


 四十歳前後。


 少し日焼けした顔の男性だった。


「月成千景です。お時間ありがとうございます」


「竟宮律です」


 二人が挨拶すると、長瀬は少し困ったように笑った。


「高校生が調べてるって聞いて、何かの間違いかと思いましたよ」


「ですよねえ」


 千景は苦笑した。


「でも、今日は二年前の事故についてお聞きしたくて」


「ああ。あの件ね」


 長瀬はコーヒーに口をつけた。


「正直、今でもよく分かってないんですよ」


「どんな事故だったんですか?」


 千景が尋ねた。


「配電盤がやられて、煙が出たんです。俺ともう一人、上の作業床にいたんですけど、降りるためのリフトが動かなくなっちゃって」


「怖かったですか?」


「そりゃあ、ね」


 長瀬は苦笑した。


「足元は六メートル下ですし、煙で周りは見えなくなるし。下には別の作業員もいたけど、すぐには助けに来られない」


「喬本さんがいたんですよね」


「ああ。あいつは反対側にいた」


 長瀬は頷いた。


「真面目な奴ですよ。普段から人のことばっかり気にしててね。あの日も、俺たちが取り残されてるって分かったら、すぐに戻ってきたんです」


「戻ってきた?」


「向こう側の作業床までね。そこから声をかけてきたんですよ」


 長瀬は少し考えた。


「確か、『こっちへ来い』って」


「でも、間には通路がなかったんですよね?」


 律が尋ねる。


「そうなんです」


 長瀬は頷いた。


「だから、最初は何言ってんだと思いましたよ。連絡通路は工事で撤去されてたし、飛び越えられる距離じゃない」


「それで?」


「そしたら喬本が、足元を見ろって」


 千景は身を乗り出した。


「何かあったんですか?」


「……あったんですよ」


 長瀬は、少し声を落とした。


「板みたいなものが」


「板?」


「いや、板っていうか……通路ですかね。向こうの作業床まで、まっすぐ続いてるように見えたんです」


 千景は律を見た。


 律は、ただ静かに話を聞いている。


「でも、煙が出てたんですよね」


「ええ。だから見間違いだと思ったんです。最初は」


「それでも渡ったんですか?」


「喬本が大丈夫だって言うんですよ。早く来いって。あいつ、普段はそんな大声を出すような奴じゃないのに」


 長瀬は笑った。


「もう一人も怖がってたし、俺だって怖かった。でも、あそこに残ってても危ないし……」


「……それで?」


「足を出したんです」


 長瀬は自分の足元を見た。


「そしたら、ちゃんと踏めた」


 千景は息を止めた。


「床があった?」


「そうです。足元に、ちゃんと硬いものがあった」


「どんな感じでした?」


「普通の床ですよ。少し変な感じはしたけど、ちゃんと歩けた。手すりはなかったと思います」


 長瀬は眉を寄せた。


「とにかく、二人でそこを渡ったんです。喬本が向こうで待っててくれました」


「二人とも無事だったんですね」


「ええ」


 長瀬は頷いた。


「でも、おかしいんですよ」


「何がですか?」


「渡り終わって振り返ったら、何もなかったんです」


 千景は黙っていた。


「煙で見えなくなっただけかもしれない。でも、あんな通路を誰かが用意していたって話も聞かないし、事故の後で確認しても何もない」


 長瀬は首を振った。


「会社にも説明したんですけどね。混乱してたんだろうって言われて」


「喬本さんは、何て?」


 千景が尋ねた。


「何がです?」


「その通路のこと」


「……ああ」


 長瀬は少し考え込んだ。


「『助かってよかった』って、そればっかりでしたね」


「通路をどうやって用意したかは?」


「聞いたんですけど、はっきりしたことは言わなかったなあ」


 長瀬は苦笑した。


「まあ、俺も無事だったし、それ以上しつこく聞かなかったんですけど」


 千景は小さく頷いた。


「……そうですか」


 律がメモを閉じた。


「当時、長瀬さんが渡ったものを、ほかの方が見ていた可能性はありますか?」


「どうでしょう。周りは煙だらけだったし、みんな避難するのに必死でしたから」


「なるほど」


「でも、俺ともう一人は、確かに歩いたんです」


 長瀬は、少し強い口調で言った。


「何もないところを飛んだわけじゃない。ちゃんと、足で踏んで渡った。それだけは覚えてます」


 千景は、その顔を見つめた。


 長瀬は嘘をついているようには見えなかった。


 もちろん、だからといって、話のすべてが事実だとは限らない。


 煙の中での記憶。


 事故の混乱。


 二年前という時間。


 間違って覚えていることもあるだろう。


 それでも。


 二つの作業床をつないでいたはずの、存在しない通路。


 今の事件と、あまりにもよく似ていた。


     ◇


「……やっぱり、橋じゃん」


 喫茶店を出た千景は、開口一番そう言った。


 律は隣を歩きながら頷いた。


「橋のようなものが存在した可能性は、高くなりましたね」


「でしょ?」


「ただ、長瀬さんの証言だけでは、異能だと確定できません」


「分かってるって」


 千景は少し笑った。


「でもさ、条件が揃いすぎじゃない?」


「ええ。それは僕も感じています」


 律はスマートフォンのメモを開いた。


「二年前の事故では、離れた二つの作業床を移動した人がいる。しかし、そのための設備は確認されていない」


「うん」


「当時、喬本さんが現場にいて、渡るように指示している」


「うんうん」


「そして今回の事件では、二棟の建物の間で人が転落している。喬本さんは、その直前まで亡くなった佐伯さんと一緒にいた」


 千景は大きく頷いた。


「ほら。絶対何かあるって」


「ただし、ここから先は分けて考える必要があります」


「何を?」


「喬本さんに橋を架ける異能があるかどうかと、佐伯さんの死にその異能が使われたかどうかです」


「……ああ」


 千景は足を止めた。


「そうだね」


 仮に、喬本が本当に橋を作れるとしても。


 それは、佐伯を殺した証拠にはならない。


「それに、二年前の事故では、喬本さんは人を助けています」


 律が言った。


「うん」


「同じ力が今回の事件に関係していたとしても、何のために使われたのかは別に確認する必要があります」


 千景は、二棟の建物を思い浮かべた。


 二年前。


 煙の中で取り残された二人を渡らせた、存在しない通路。


 そして、一昨日の夜。


 九階の高さから転落した佐伯俊一。


「……本人に聞いてみようか」


 千景が言った。


「もう一度ですか?」


「うん。今度は、二年前のことを知ってるから」


 律は少し考えてから頷いた。


「確かに、確認する価値はありますね」


「じゃ、行こ」


「ただし、今日会っていただけるとは限りませんよ」


「……またそれ?」


 千景は笑った。


「律、ほんと慎重だよね」


「必要なことですから」


「はいはい」


     ◇


 喬本直人は、その日の夕方、短時間だけならと面会に応じた。


 場所は勤務先近くの小さな喫茶店だった。


 喬本が家族のいる自宅では話したくないと言ったため、千景と律がそこへ向かった。


「……昨日の今日で、何でしょうか」


 席に着くなり、喬本が尋ねた。


 その声には、疲労と警戒が混じっている。


「すみません。何度も」


 律が頭を下げる。


「少し、確認したいことが増えまして」


「……確認?」


「二年前の物流施設での事故です」


 喬本の表情が変わった。


 ほんの一瞬。


 だが、千景は見逃さなかった。


「……あの事故が、何か?」


「当時の記録と、作業員の方のお話を確認しました」


 律は続けた。


「取り残された二人が、撤去済みの連絡通路があった場所を歩いて避難したそうですね」


 喬本は黙った。


「そのとき、喬本さんが誘導されていたと伺いました」


「……そうです」


「どのように避難経路を確保されたのでしょうか」


 沈黙。


 喬本は、テーブルの上に置いた自分の手を見つめていた。


「……詳しくは、覚えていません」


「二人がどうやって渡ったのかも?」


「……混乱していましたから」


 律は頷いた。


「分かりました」


 千景は、喬本を見た。


 この人は、やはり何かを隠している。


 ただ、昨日とは少し違う。


 質問の意味を理解しているように見えた。


「喬本さん」


 千景が口を開いた。


「はい……」


「二年前、二人を助けたんですよね」


「……ええ」


「すごいことだと思います」


 喬本が顔を上げた。


 千景は続けた。


「自分だって危なかっただろうに、戻って助けたんでしょ?」


「……」


「長瀬さんも、すごく感謝してましたよ」


 喬本は目を伏せた。


「……そうですか」


「うん」


 千景は少しだけ身を乗り出した。


「だから、聞きたいんです」


 喬本の指が、わずかに動いた。


「どうやって、助けたんですか?」


 また、沈黙が落ちた。


 喬本は何かを言いかけて、口を閉じる。


 窓の外を車が通り過ぎた。


 店内には、食器の触れ合う小さな音が響いている。


 千景は急かさなかった。


 しばらくして、喬本が口を開いた。


「……助けたかったんです」


 低い声だった。


「二人とも、あのままじゃ危なかったから」


「……はい」


「何とかしなきゃと思って……それだけです」


 千景は、静かに頷いた。


「そうだったんですね」


 喬本は、それ以上話さなかった。


 律が尋ねる。


「喬本さん。もう一つ、確認してもよろしいですか」


「……何でしょう」


「ご自身の名字について、何か特別な由来をご存じですか」


 喬本は顔を上げた。


「……名字?」


「ええ。喬本という表記についてです」


「……いえ」


 喬本は短く答えた。


「昔から、そういう名字です」


「そうですか」


 律は頷いた。


 千景は、喬本の顔を見つめていた。


 何かを隠している。


 それは間違いないと思う。


 だが、名字の由来を知らないことと、異能の存在を知らないことは同じではない。


 本人が何を理解しているのか、そこまではまだ分からなかった。


「……喬本さん」


 千景は、ゆっくり口を開いた。


「変なこと聞いてもいいですか?」


「……はい」


「もし、何もない場所に橋を架けられる人がいたら、どう思います?」


 喬本の表情が、固まった。


 千景は続けた。


「例えば、二年前の事故みたいに、離れた二つの場所をつなぐ橋を作れる人がいたら」


「……」


「すごく便利だと思うんですよね」


 千景は、少し笑った。


「困ってる人を助けられるし」


 喬本は動かなかった。


「でも、それって、使い方によっては危ないこともできちゃうよね」


 律が、千景へ視線を向けた。


 千景は喬本から目を逸らさなかった。


「橋を架けることができるなら、なくすこともできるのかなって」


 喬本の指先が、ぴくりと動いた。


「……何が、言いたいんですか」


 声が少し震えていた。


 千景は、穏やかに答えた。


「まだ、何も分かってないです」


「……」


「でも、喬本さんなら何か知ってるんじゃないかなって」


 喬本は、千景を見つめた。


 その目には、明らかな警戒があった。


 恐怖もある。


 そして、その奥には、別の何かが見えた気がした。


「……知りません」


 喬本は、ようやく答えた。


「そんなもの、知りません」


 千景は頷いた。


「……そっか」


「……すみません」


「謝らなくていいですよ」


 千景は、それ以上追及しなかった。


 ただ、喬本がその話を終わらせたいと思っていることだけは、はっきり分かった。


     ◇


 喬本が店を出た後、千景はしばらく黙っていた。


 律は、そんな彼女を見ていた。


「……千景さん」


「ん?」


「どう思いました?」


「何が?」


「喬本さんのことです」


 千景は少し考えた。


「……橋、作れるんじゃないかな」


「そうですね」


「でも、言いたくないんだと思う」


「ええ」


 律は頷いた。


「少なくとも、二年前の事故については何かを知っているようでした」


「うん」


 千景は窓の外を見た。


 喬本の後ろ姿は、もう見えない。


「……ねえ、律」


「はい」


「喬本さんさ、悪い人だと思う?」


 律は少し考えた。


「今ある情報だけでは、判断できませんね」


「……だよね」


「二年前に人を助けたことと、今回の事件に関わっている可能性は、分けて考えるべきでしょう」


 千景は律を見た。


「……うん」


「問題は、今回もし同じ力が使われていたなら、何のために使ったのかです」


 千景は小さく息を吐いた。


「でもさ、何か嫌なんだよね」


「何がですか?」


「二年前の話をしてるとき、あの人、ちょっとだけ普通の顔になったじゃん」


「……そうでしたね」


「人を助けた話なのに、今はそれすら怖がってる」


 千景は、テーブルの上のグラスを見つめた。


「何かあったんだと思う」


 律は黙って聞いていた。


「佐伯さんと一緒にいたことを隠したいだけじゃなくてさ。もっと別の何か」


「……なるほど」


 律は少し考えた。


「では、次は喬本さんと佐伯さんの関係を調べましょう」


「仕事の?」


「ええ。二人がどこで知り合い、何をしていたのか」


「そっか」


 千景は顔を上げた。


「橋のことばっかり考えてたけど、佐伯さんが何をしに来たのか、まだ分かってないもんね」


「その通りです」


 律は頷いた。


「仮に喬本さんが橋を架けられたとしても、なぜ佐伯さんがその橋を渡る必要があったのかは、別の問題です」


「……うん」


 千景は腕を組んだ。


 九階の点検テラス。


 隣の集合住宅。


 二棟の間に架けられたかもしれない、存在しない橋。


 そこを渡ろうとしていた佐伯俊一。


 もし、本当に橋があったのなら。


 なぜ佐伯は、そんな場所を渡ろうとしたのか。


「……よし」


 千景は立ち上がった。


「じゃあ、次は佐伯さんのこと調べよう」


「ええ」


 律も資料をまとめ始めた。


 千景は、ふと店の出口を見た。


 喬本はもういない。


 二年前、喬本は人を助けるために、存在しないはずの道を作ったのかもしれない。


 もし今回も同じ力が使われていたのなら。


 問題は、その力があったことではない。


 何のために使われたのかだ。


「千景さん?」


 律に呼ばれ、千景は顔を上げた。


「あ、ごめん。何?」


「そろそろ帰りませんか。明日は学校でしょう」


「……あ」


 千景は時計を見た。


 日曜日の夕方。


 家に帰れば、まだ数学の宿題が残っている。


「……律」


「はい」


「宿題、手伝ってくれない?」


「昨日、途中まで終わらせていましたよね」


「終わってないところがあるの」


「ご自身で解いた方が、身につくと思いますが」


「答え写すとは言ってないじゃん!」


 律は小さく笑った。


 千景は不満そうに頬を膨らませたが、すぐに笑い返した。


 明日になれば、また学校がある。


 授業を受けて、友達と話して、宿題を提出する。


 そんな当たり前の日常が待っている。


 喬本にも、きっとあるのだろう。


 仕事があって、家族がいて、帰る場所がある。


 だからこそ。


 あの男が何を恐れているのか、千景には少し気になった。

お読みいただきありがとうございます。


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