第4話『橋を架ける者』
喬本直人が応接室へ戻ってきたのは、五分ほど経ってからだった。
「……すみません。お待たせしました」
そう言って頭を下げる喬本の顔は、部屋を出る前よりも青ざめていた。
月成千景は、その様子を見て少しだけ眉を寄せた。
「大丈夫ですか?」
「……ええ」
「何かあったなら、今日はここまででもいいですけど」
「いえ。大丈夫です」
喬本は椅子に座り直した。
だが、落ち着かない様子でスマートフォンを裏返し、テーブルの端へ置く。
竟宮律は、その動作を見てから口を開いた。
「喬本さん。最後に確認だけさせてください」
「……はい」
「昨夜、佐伯さんと九階の点検テラスへ行かれた。その後、佐伯さんとは別行動になり、喬本さんは一人で建物を出た。ここまでは間違いありませんか」
「……はい」
「その間に何があったのかについては、お話しいただけないということでしょうか」
喬本は目を伏せた。
「……すみません」
否定はしなかった。
千景は律を見た。
律は一度だけ頷く。
「分かりました。お時間をいただき、ありがとうございました」
「……もう、いいんですか」
喬本が顔を上げた。
「ええ。無理にお話しいただくことはできませんので」
「……そうですか」
喬本は、明らかに安堵したようだった。
だが、その表情はすぐに消えた。
千景は立ち上がりかけて、ふと尋ねた。
「喬本さんって、ずっと設備の仕事してるんですか?」
「……え?」
「いや、ちょっと気になって」
「今の会社には、もう十年以上います」
「へえ。ベテランなんですね」
「……そんな大したものじゃありません」
喬本は小さく首を振った。
「ただ、長くやっているだけです」
「でも、そういう人がいると現場は助かるんじゃないですか?」
「……どうでしょうね」
喬本は曖昧に笑った。
千景は、その笑顔を見つめた。
先ほどまでとは、少しだけ違う表情だった。
仕事の話をしている間だけ、喬本は普通の会社員に戻ったように見える。
「ありがとうございました」
千景は、それ以上尋ねなかった。
喬本はもう一度頭を下げ、応接室を後にした。
扉が閉まる。
「……ねえ、律」
「はい」
「あの人、嘘ついてると思う?」
「何かを隠しているのは確かでしょうね」
「やっぱり?」
「ただ、何を隠しているのかまでは分かりません」
律は資料をまとめながら続けた。
「こちらから質問を重ねても、同じ答えが返ってくるだけでしょう。今は別の方向から調べた方がよさそうです」
「過去の仕事?」
「ええ」
千景は、閉じた扉を見た。
喬本直人。
橋という字から木偏が欠けた名字。
もし彼に異能が発現しているのなら、その力が一度も使われていないとは考えにくい。
「……何か出てくるかな」
「出てこない可能性もあります」
「そういうの、いちいち言わなくてもよくない?」
「期待しすぎない方がいいかと思いまして」
「律ってさあ」
千景は大きく息を吐いた。
「ほんっと、夢がないよね」
「調査ですから」
「はいはい」
そう言いながらも、千景は少し笑っていた。
◇
その日の夕方。
千景は駅前のファミリーレストランで、目の前に広げたノートを睨んでいた。
「……分かんない」
シャープペンシルを置く。
数学の問題集だった。
月曜日に提出する宿題である。
結局、土曜日の午後はほとんど事件の調査に使ってしまった。
喬本と別れた後、いったん自宅に戻って問題集を取ってきたのだ。
律が調査の続きを進めている間に、少しでも片づけておこうと思ったのだが。
「千景さん」
「んー?」
「そこ、符号が逆です」
「……え?」
向かいに座った律が、問題集の一箇所を指さした。
「ここで移項していますから、符号が変わります」
「あ」
千景は数式を見直した。
「……ほんとだ」
「その後の計算は合っていますよ」
「そこまで見てたの?」
「目に入ったので」
「じゃあ、もっと早く言ってよ」
「ご自身で気づかれるかと思いまして」
「性格悪くない?」
律は微笑んだ。
「勉強ですから」
「……さっきからそればっかり」
千景はため息をついて、消しゴムを手に取った。
律の前にはノートパソコンが開かれている。
画面には、喬本の勤務先に関する資料が表示されていた。
「で、そっちは?」
「勤務先の概要は確認できました。過去の事故については、まだ問い合わせの返答待ちです」
「そっか」
千景は計算を書き直しながら尋ねた。
「そもそも、そんな昔のことまで調べさせてもらえるの?」
「何でも見られるわけではありませんよ」
律は画面を閉じた。
「A棟の管理会社から、喬本さんの勤務先に確認をお願いしています。今回の事故に関係するかもしれない過去の安全記録があれば、開示できる範囲で教えてほしいと」
「会社って、そういうの残してるんだ」
「業務中の事故や重大な危険があった場合は、記録を残していることが多いです。ただし、関係のない個人情報までは出してもらえません」
「ふうん」
「それに、こちらには強制的に調べる権限もありませんから」
「……律って、警察向いてそうだよね」
「そうでしょうか」
「なんか、ちゃんとしてるし」
「それだけで務まる仕事ではないと思いますよ」
「まあ、そりゃそうだけど」
千景は再び問題集に目を落とした。
少し考えてから、顔を上げる。
「律って、学校でもそんな感じなの?」
「そんな感じ、とは?」
「授業とかでもさ。先生が間違ったこと言ったら、すぐ指摘するタイプ?」
「間違っていると分かれば、確認することはありますね」
「うわあ」
「何ですか」
「いや、先生大変そうだなって」
「必要なら質問するのは普通では?」
「……そういうとこだよ」
千景は笑った。
律は少し不思議そうな顔をしていた。
事件の調査をしていると、つい忘れそうになる。
この男も、自分と同じ学生なのだ。
年上ではあるが、まだ高校三年生。
そして自分は高校二年生。
明後日には、何事もなかったように学校へ行かなければならない。
「……はあ」
千景は再び問題集を見た。
「殺人事件より、こっちの方が難しいかもしれない」
「それは困りますね」
「ほんとにね」
律は少し笑った。
◇
翌日の日曜日。
喬本の勤務先から、連絡があった。
二年ほど前、ある建物の改修現場で事故が発生していたという。
事故そのものは大きな人的被害を出さずに収束した。
ただ、その際の避難経路について、社内で確認が必要になったことがあるらしい。
千景と律は、A棟の管理担当者を通して説明を受けることになった。
場所は、喬本の勤務先が入る事務所の会議室。
応対したのは、安全管理を担当する四十代の男性だった。
「記録のすべてをお渡しすることはできませんが、当時の事故について、業務上の確認ができる範囲でしたら」
「ありがとうございます」
律が頭を下げた。
千景も続く。
「お休みの日なのに、すみません」
「いえ。うちの社員が死亡事故の直前まで一緒にいたと聞いていますから、こちらとしても気になっています」
男性は資料をテーブルに置いた。
「ただし、あくまで過去の事故記録です。今回の件と関係があるかは分かりませんよ」
「承知しています」
律は資料を受け取った。
千景も横から覗き込む。
書類には、建物の図面と事故の概要が記されていた。
「……倉庫?」
「物流施設です。二年前、設備の更新工事が行われていました」
男性は図面を指さした。
大きな建物の内部に、高い位置へ設けられた二つの作業床がある。
その間には、数メートルの空間があった。
「工事のため、もともとあった連絡通路を一時的に撤去していたんです」
「連絡通路?」
「作業員が行き来するための足場ですね。このときは工事中だったので、代わりに昇降設備を使う予定でした」
千景は図面を見た。
離れた二つの作業床。
間隔は、およそ五メートル。
高さは地上から六メートルほど。
片方の作業床には、設備の交換作業を行う区画があった。
「事故って、何が起きたんですか?」
「電気設備のトラブルです。配電盤で異常が発生し、一部の設備が停止しました。焦げた配線から煙も出ています」
「火事?」
「大きな火災にはなりませんでしたが、当時は延焼する可能性も考えられていました」
男性は次の資料を開いた。
「問題は、作業員がいた場所です」
事故発生時、作業床の一方に二人の作業員が取り残された。
設備が停止したため、使用する予定だった昇降リフトが動かなくなったのだ。
煙が広がる中、二人は元の場所へ戻ることができなくなった。
「……え、それ危なくない?」
千景が言った。
「危険な状況でした」
「どうやって助かったんですか?」
「そこが、少し説明しにくい部分でして」
男性は記録の一箇所を指さした。
避難方法。
仮設経路を利用。
そう記されている。
「仮設経路って?」
「工事用の足場や通路のことです」
「じゃあ、別の通路があったんだ?」
「記録上は、ないんです」
千景は顔を上げた。
「……ない?」
「ええ」
男性は図面を示した。
「連絡通路はすでに撤去されています。仮設の足場を設置したという記録もありません。昇降設備も停止していました」
律が尋ねる。
「では、取り残された作業員はどのように避難したのでしょうか」
「本人たちは、向こう側の作業床まで歩いて移動したと説明しています」
千景は図面を見た。
二つの作業床の間には、五メートルほどの空間がある。
人が歩いて渡れる距離ではない。
「……歩いた?」
「そう言っています」
「何もないところを?」
「もちろん、本人たちもそういう意味ではないと言っていました。足元に通路のようなものがあったと」
律は資料を確認した。
「その通路は、事故後に確認されていますか?」
「いえ。見つかっていません」
「撤去された可能性は?」
「調べましたが、そのような作業記録もありませんでした」
千景は、しばらく黙って図面を見つめていた。
喬本直人。
橋本。
そして、離れた二つの作業床。
「……そのとき、喬本さんは?」
千景が尋ねた。
男性は別の記録を取り出した。
「避難を誘導した社員の一人です。二人が取り残されていることに気づいて、反対側の作業床から声をかけていたそうです」
「二人は助かったんですよね?」
「ええ。全員、無事に避難しています」
「……そっか」
千景は小さく頷いた。
律は、資料の記述をもう一度確認した。
「当時の作業員の方に、お話を伺うことはできますか?」
「一人なら、連絡は取れると思います。ただ、今日お話しいただけるかどうかは、ご本人次第ですね」
「もちろんです」
男性は頷き、スマートフォンを取り出した。
◇
当時、現場に取り残されていた作業員の一人は、近くの別の現場で勤務していた。
管理担当者から事情を聞いた本人が、短時間なら話してもいいと応じてくれた。
千景と律が待ち合わせ場所の喫茶店を訪れると、作業着姿の男性が先に座っていた。
「……長瀬です」
四十歳前後。
少し日焼けした顔の男性だった。
「月成千景です。お時間ありがとうございます」
「竟宮律です」
二人が挨拶すると、長瀬は少し困ったように笑った。
「高校生が調べてるって聞いて、何かの間違いかと思いましたよ」
「ですよねえ」
千景は苦笑した。
「でも、今日は二年前の事故についてお聞きしたくて」
「ああ。あの件ね」
長瀬はコーヒーに口をつけた。
「正直、今でもよく分かってないんですよ」
「どんな事故だったんですか?」
千景が尋ねた。
「配電盤がやられて、煙が出たんです。俺ともう一人、上の作業床にいたんですけど、降りるためのリフトが動かなくなっちゃって」
「怖かったですか?」
「そりゃあ、ね」
長瀬は苦笑した。
「足元は六メートル下ですし、煙で周りは見えなくなるし。下には別の作業員もいたけど、すぐには助けに来られない」
「喬本さんがいたんですよね」
「ああ。あいつは反対側にいた」
長瀬は頷いた。
「真面目な奴ですよ。普段から人のことばっかり気にしててね。あの日も、俺たちが取り残されてるって分かったら、すぐに戻ってきたんです」
「戻ってきた?」
「向こう側の作業床までね。そこから声をかけてきたんですよ」
長瀬は少し考えた。
「確か、『こっちへ来い』って」
「でも、間には通路がなかったんですよね?」
律が尋ねる。
「そうなんです」
長瀬は頷いた。
「だから、最初は何言ってんだと思いましたよ。連絡通路は工事で撤去されてたし、飛び越えられる距離じゃない」
「それで?」
「そしたら喬本が、足元を見ろって」
千景は身を乗り出した。
「何かあったんですか?」
「……あったんですよ」
長瀬は、少し声を落とした。
「板みたいなものが」
「板?」
「いや、板っていうか……通路ですかね。向こうの作業床まで、まっすぐ続いてるように見えたんです」
千景は律を見た。
律は、ただ静かに話を聞いている。
「でも、煙が出てたんですよね」
「ええ。だから見間違いだと思ったんです。最初は」
「それでも渡ったんですか?」
「喬本が大丈夫だって言うんですよ。早く来いって。あいつ、普段はそんな大声を出すような奴じゃないのに」
長瀬は笑った。
「もう一人も怖がってたし、俺だって怖かった。でも、あそこに残ってても危ないし……」
「……それで?」
「足を出したんです」
長瀬は自分の足元を見た。
「そしたら、ちゃんと踏めた」
千景は息を止めた。
「床があった?」
「そうです。足元に、ちゃんと硬いものがあった」
「どんな感じでした?」
「普通の床ですよ。少し変な感じはしたけど、ちゃんと歩けた。手すりはなかったと思います」
長瀬は眉を寄せた。
「とにかく、二人でそこを渡ったんです。喬本が向こうで待っててくれました」
「二人とも無事だったんですね」
「ええ」
長瀬は頷いた。
「でも、おかしいんですよ」
「何がですか?」
「渡り終わって振り返ったら、何もなかったんです」
千景は黙っていた。
「煙で見えなくなっただけかもしれない。でも、あんな通路を誰かが用意していたって話も聞かないし、事故の後で確認しても何もない」
長瀬は首を振った。
「会社にも説明したんですけどね。混乱してたんだろうって言われて」
「喬本さんは、何て?」
千景が尋ねた。
「何がです?」
「その通路のこと」
「……ああ」
長瀬は少し考え込んだ。
「『助かってよかった』って、そればっかりでしたね」
「通路をどうやって用意したかは?」
「聞いたんですけど、はっきりしたことは言わなかったなあ」
長瀬は苦笑した。
「まあ、俺も無事だったし、それ以上しつこく聞かなかったんですけど」
千景は小さく頷いた。
「……そうですか」
律がメモを閉じた。
「当時、長瀬さんが渡ったものを、ほかの方が見ていた可能性はありますか?」
「どうでしょう。周りは煙だらけだったし、みんな避難するのに必死でしたから」
「なるほど」
「でも、俺ともう一人は、確かに歩いたんです」
長瀬は、少し強い口調で言った。
「何もないところを飛んだわけじゃない。ちゃんと、足で踏んで渡った。それだけは覚えてます」
千景は、その顔を見つめた。
長瀬は嘘をついているようには見えなかった。
もちろん、だからといって、話のすべてが事実だとは限らない。
煙の中での記憶。
事故の混乱。
二年前という時間。
間違って覚えていることもあるだろう。
それでも。
二つの作業床をつないでいたはずの、存在しない通路。
今の事件と、あまりにもよく似ていた。
◇
「……やっぱり、橋じゃん」
喫茶店を出た千景は、開口一番そう言った。
律は隣を歩きながら頷いた。
「橋のようなものが存在した可能性は、高くなりましたね」
「でしょ?」
「ただ、長瀬さんの証言だけでは、異能だと確定できません」
「分かってるって」
千景は少し笑った。
「でもさ、条件が揃いすぎじゃない?」
「ええ。それは僕も感じています」
律はスマートフォンのメモを開いた。
「二年前の事故では、離れた二つの作業床を移動した人がいる。しかし、そのための設備は確認されていない」
「うん」
「当時、喬本さんが現場にいて、渡るように指示している」
「うんうん」
「そして今回の事件では、二棟の建物の間で人が転落している。喬本さんは、その直前まで亡くなった佐伯さんと一緒にいた」
千景は大きく頷いた。
「ほら。絶対何かあるって」
「ただし、ここから先は分けて考える必要があります」
「何を?」
「喬本さんに橋を架ける異能があるかどうかと、佐伯さんの死にその異能が使われたかどうかです」
「……ああ」
千景は足を止めた。
「そうだね」
仮に、喬本が本当に橋を作れるとしても。
それは、佐伯を殺した証拠にはならない。
「それに、二年前の事故では、喬本さんは人を助けています」
律が言った。
「うん」
「同じ力が今回の事件に関係していたとしても、何のために使われたのかは別に確認する必要があります」
千景は、二棟の建物を思い浮かべた。
二年前。
煙の中で取り残された二人を渡らせた、存在しない通路。
そして、一昨日の夜。
九階の高さから転落した佐伯俊一。
「……本人に聞いてみようか」
千景が言った。
「もう一度ですか?」
「うん。今度は、二年前のことを知ってるから」
律は少し考えてから頷いた。
「確かに、確認する価値はありますね」
「じゃ、行こ」
「ただし、今日会っていただけるとは限りませんよ」
「……またそれ?」
千景は笑った。
「律、ほんと慎重だよね」
「必要なことですから」
「はいはい」
◇
喬本直人は、その日の夕方、短時間だけならと面会に応じた。
場所は勤務先近くの小さな喫茶店だった。
喬本が家族のいる自宅では話したくないと言ったため、千景と律がそこへ向かった。
「……昨日の今日で、何でしょうか」
席に着くなり、喬本が尋ねた。
その声には、疲労と警戒が混じっている。
「すみません。何度も」
律が頭を下げる。
「少し、確認したいことが増えまして」
「……確認?」
「二年前の物流施設での事故です」
喬本の表情が変わった。
ほんの一瞬。
だが、千景は見逃さなかった。
「……あの事故が、何か?」
「当時の記録と、作業員の方のお話を確認しました」
律は続けた。
「取り残された二人が、撤去済みの連絡通路があった場所を歩いて避難したそうですね」
喬本は黙った。
「そのとき、喬本さんが誘導されていたと伺いました」
「……そうです」
「どのように避難経路を確保されたのでしょうか」
沈黙。
喬本は、テーブルの上に置いた自分の手を見つめていた。
「……詳しくは、覚えていません」
「二人がどうやって渡ったのかも?」
「……混乱していましたから」
律は頷いた。
「分かりました」
千景は、喬本を見た。
この人は、やはり何かを隠している。
ただ、昨日とは少し違う。
質問の意味を理解しているように見えた。
「喬本さん」
千景が口を開いた。
「はい……」
「二年前、二人を助けたんですよね」
「……ええ」
「すごいことだと思います」
喬本が顔を上げた。
千景は続けた。
「自分だって危なかっただろうに、戻って助けたんでしょ?」
「……」
「長瀬さんも、すごく感謝してましたよ」
喬本は目を伏せた。
「……そうですか」
「うん」
千景は少しだけ身を乗り出した。
「だから、聞きたいんです」
喬本の指が、わずかに動いた。
「どうやって、助けたんですか?」
また、沈黙が落ちた。
喬本は何かを言いかけて、口を閉じる。
窓の外を車が通り過ぎた。
店内には、食器の触れ合う小さな音が響いている。
千景は急かさなかった。
しばらくして、喬本が口を開いた。
「……助けたかったんです」
低い声だった。
「二人とも、あのままじゃ危なかったから」
「……はい」
「何とかしなきゃと思って……それだけです」
千景は、静かに頷いた。
「そうだったんですね」
喬本は、それ以上話さなかった。
律が尋ねる。
「喬本さん。もう一つ、確認してもよろしいですか」
「……何でしょう」
「ご自身の名字について、何か特別な由来をご存じですか」
喬本は顔を上げた。
「……名字?」
「ええ。喬本という表記についてです」
「……いえ」
喬本は短く答えた。
「昔から、そういう名字です」
「そうですか」
律は頷いた。
千景は、喬本の顔を見つめていた。
何かを隠している。
それは間違いないと思う。
だが、名字の由来を知らないことと、異能の存在を知らないことは同じではない。
本人が何を理解しているのか、そこまではまだ分からなかった。
「……喬本さん」
千景は、ゆっくり口を開いた。
「変なこと聞いてもいいですか?」
「……はい」
「もし、何もない場所に橋を架けられる人がいたら、どう思います?」
喬本の表情が、固まった。
千景は続けた。
「例えば、二年前の事故みたいに、離れた二つの場所をつなぐ橋を作れる人がいたら」
「……」
「すごく便利だと思うんですよね」
千景は、少し笑った。
「困ってる人を助けられるし」
喬本は動かなかった。
「でも、それって、使い方によっては危ないこともできちゃうよね」
律が、千景へ視線を向けた。
千景は喬本から目を逸らさなかった。
「橋を架けることができるなら、なくすこともできるのかなって」
喬本の指先が、ぴくりと動いた。
「……何が、言いたいんですか」
声が少し震えていた。
千景は、穏やかに答えた。
「まだ、何も分かってないです」
「……」
「でも、喬本さんなら何か知ってるんじゃないかなって」
喬本は、千景を見つめた。
その目には、明らかな警戒があった。
恐怖もある。
そして、その奥には、別の何かが見えた気がした。
「……知りません」
喬本は、ようやく答えた。
「そんなもの、知りません」
千景は頷いた。
「……そっか」
「……すみません」
「謝らなくていいですよ」
千景は、それ以上追及しなかった。
ただ、喬本がその話を終わらせたいと思っていることだけは、はっきり分かった。
◇
喬本が店を出た後、千景はしばらく黙っていた。
律は、そんな彼女を見ていた。
「……千景さん」
「ん?」
「どう思いました?」
「何が?」
「喬本さんのことです」
千景は少し考えた。
「……橋、作れるんじゃないかな」
「そうですね」
「でも、言いたくないんだと思う」
「ええ」
律は頷いた。
「少なくとも、二年前の事故については何かを知っているようでした」
「うん」
千景は窓の外を見た。
喬本の後ろ姿は、もう見えない。
「……ねえ、律」
「はい」
「喬本さんさ、悪い人だと思う?」
律は少し考えた。
「今ある情報だけでは、判断できませんね」
「……だよね」
「二年前に人を助けたことと、今回の事件に関わっている可能性は、分けて考えるべきでしょう」
千景は律を見た。
「……うん」
「問題は、今回もし同じ力が使われていたなら、何のために使ったのかです」
千景は小さく息を吐いた。
「でもさ、何か嫌なんだよね」
「何がですか?」
「二年前の話をしてるとき、あの人、ちょっとだけ普通の顔になったじゃん」
「……そうでしたね」
「人を助けた話なのに、今はそれすら怖がってる」
千景は、テーブルの上のグラスを見つめた。
「何かあったんだと思う」
律は黙って聞いていた。
「佐伯さんと一緒にいたことを隠したいだけじゃなくてさ。もっと別の何か」
「……なるほど」
律は少し考えた。
「では、次は喬本さんと佐伯さんの関係を調べましょう」
「仕事の?」
「ええ。二人がどこで知り合い、何をしていたのか」
「そっか」
千景は顔を上げた。
「橋のことばっかり考えてたけど、佐伯さんが何をしに来たのか、まだ分かってないもんね」
「その通りです」
律は頷いた。
「仮に喬本さんが橋を架けられたとしても、なぜ佐伯さんがその橋を渡る必要があったのかは、別の問題です」
「……うん」
千景は腕を組んだ。
九階の点検テラス。
隣の集合住宅。
二棟の間に架けられたかもしれない、存在しない橋。
そこを渡ろうとしていた佐伯俊一。
もし、本当に橋があったのなら。
なぜ佐伯は、そんな場所を渡ろうとしたのか。
「……よし」
千景は立ち上がった。
「じゃあ、次は佐伯さんのこと調べよう」
「ええ」
律も資料をまとめ始めた。
千景は、ふと店の出口を見た。
喬本はもういない。
二年前、喬本は人を助けるために、存在しないはずの道を作ったのかもしれない。
もし今回も同じ力が使われていたのなら。
問題は、その力があったことではない。
何のために使われたのかだ。
「千景さん?」
律に呼ばれ、千景は顔を上げた。
「あ、ごめん。何?」
「そろそろ帰りませんか。明日は学校でしょう」
「……あ」
千景は時計を見た。
日曜日の夕方。
家に帰れば、まだ数学の宿題が残っている。
「……律」
「はい」
「宿題、手伝ってくれない?」
「昨日、途中まで終わらせていましたよね」
「終わってないところがあるの」
「ご自身で解いた方が、身につくと思いますが」
「答え写すとは言ってないじゃん!」
律は小さく笑った。
千景は不満そうに頬を膨らませたが、すぐに笑い返した。
明日になれば、また学校がある。
授業を受けて、友達と話して、宿題を提出する。
そんな当たり前の日常が待っている。
喬本にも、きっとあるのだろう。
仕事があって、家族がいて、帰る場所がある。
だからこそ。
あの男が何を恐れているのか、千景には少し気になった。
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