第3話『窓の外の足音』
人が歩く音なんて、普段なら気にも留めない。
まして集合住宅なら、廊下を誰かが通ることくらい珍しくもない。
だからこそ、千景には引っかかっていた。
「……ねえ、律」
「はい」
「足音が聞こえたってだけなら、わざわざ管理会社に連絡しないよね」
「必ずしもそうとは限りませんが、何か気になる点があったのでしょうね」
「だよねえ」
月成千景は、隣に立つ竟宮律を見た。
二人がいるのは、B棟の一階エントランスだった。
A棟の管理担当者を通じて連絡を取ったところ、B棟の管理会社が事情を確認し、足音について報告した住人への取次ぎを了承してくれたのだ。
もっとも、すぐに話を聞けるとは限らない。
相手が断れば、それまでである。
「こういうのって、警察の人なら簡単に聞けたりするのかな」
「警察でも、任意の聞き取りなら相手の協力が必要ですよ」
「あ、そっか」
「僕たちはなおさらです」
「ほんと、律はそういうところきっちりしてるよね」
「千景さんがあまり気にされないので」
「気にしてるってば」
千景が口を尖らせたところで、管理会社の担当者が戻ってきた。
「お待たせしました」
四十代ほどの女性だった。
「高梨様から、お話をしても構わないとお返事をいただきました。ただ、長時間は難しいそうです」
「ありがとうございます!」
千景が頭を下げる。
律も続いた。
「ご本人にも、お手数をおかけするとお伝えください」
「はい。九階のお部屋にいらっしゃいますので、ご案内します」
二人は女性の後について、エレベーターに乗った。
千景は階数表示を見上げる。
九階。
昨夜、佐伯俊一が死亡した高さと同じだった。
◇
高梨美咲は、二十代後半の女性だった。
肩にかかる程度の髪を後ろでまとめ、薄い色のカーディガンを羽織っている。
玄関先に現れた彼女は、千景たちを見て少し驚いたようだった。
「あの……お二人が?」
「あ、はい。月成千景です。こっちは竟宮律」
「竟宮です。お時間をいただき、ありがとうございます」
律が丁寧に頭を下げる。
美咲は少し困惑した様子で二人を見比べた。
「すみません。もっと年上の方が来るのかと思っていて」
「ですよねえ」
千景は苦笑した。
「でも、ちゃんと話は聞けるので。よかったら、少しだけお願いします」
「……はい」
美咲は二人を室内へ招き入れた。
管理会社の担当者は、必要があれば一階にいると告げて戻っていく。
案内されたのは、小さなリビングだった。
白い壁に、木目調の家具。
テーブルの上には読みかけの雑誌と、半分ほど中身の残ったマグカップが置かれている。
どこにでもある、一人暮らしの部屋だった。
美咲は二人に椅子を勧め、自分も向かいに腰を下ろした。
「それで……昨日の音のこと、ですよね」
「はい」
律が頷く。
「管理会社の方から、昨夜、普段とは違う足音を聞かれたと伺いました」
「ええ。そうなんです」
「よろしければ、覚えている範囲でお話しいただけますか」
美咲は少し考え込んだ。
「……変な話だと思われるかもしれないんですけど」
「大丈夫ですよ」
千景が答える。
「まだ何があったのか分かってないから、変かどうかも判断できないし」
美咲は、少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます」
それから、ゆっくりと話し始めた。
「昨日の夜、家で夕飯を食べて、その後はテレビを見ていたんです」
「何時くらいですか?」
「九時前だったと思います。八時五十分とか、そのくらいで……正確には覚えてないんですけど」
律は手元のメモに時刻を書き込んだ。
「続けてください」
「キッチンに行って、お茶を淹れようとしていたときです。窓の外から、足音みたいなものが聞こえて」
「足音?」
「はい。カツ、カツって。硬い靴で歩いているような音でした」
千景は室内を見回した。
「窓って、どれですか?」
「あちらです」
美咲が指さしたのは、キッチンの近くにある小窓だった。
曇りガラスになっていて、その向こうには外廊下がある。
「この窓、廊下に面してるんですね」
「はい。なので、普通に人が歩いていたら音は聞こえるんです」
「じゃあ、何が変だったんですか?」
美咲は少し困ったような顔をした。
「……そこなんです」
彼女は立ち上がり、窓の方へ歩いた。
千景と律も許可を得て近づく。
「最初は、誰かが廊下を歩いているんだと思いました。でも、何というか……」
美咲は言葉を探した。
「音がする方向が、いつもと違ったんです」
「方向?」
「廊下って、こっちからあっちへ続いてるじゃないですか」
美咲は窓の左右を指さした。
「普段の足音なら、廊下の端から近づいてきて、窓の前を通って、反対側へ行くんです」
「うん」
「でも、昨日のは……」
美咲は窓の向こうを見た。
「外から、こっちへ近づいてくるみたいな感じがして」
千景は眉を上げた。
「外?」
「ええ。廊下の向こう側っていうか……建物の外側から」
律が尋ねる。
「つまり、廊下に沿って移動する音ではなかったように感じた、ということでしょうか」
「はい。そんな感じです」
「ただ、実際にどこから聞こえたのかは分からない?」
「……そうですね」
美咲は頷いた。
「建物の間って、音が響くこともありますから。聞き間違いかもしれません」
千景は窓の外を眺めた。
小窓のすぐ向こうには外廊下。
その外側には手すりがあり、さらに向こうにA棟の壁が見える。
二棟の間隔は、およそ八メートル。
九階の高さである。
そこを人が歩いてくるなど、普通ならあり得ない。
「それで、どうしたんですか?」
千景が尋ねた。
「最初は気にしなかったんです。でも、何歩か聞こえた後で、急に音がしなくなって」
「急に?」
「はい」
美咲は小さく頷いた。
「足音が止まったと思ったら、すぐ後に人の声みたいなものが聞こえたんです」
「何て言ってたか分かります?」
「いえ。短い声で……叫び声だったのかもしれません」
千景の表情が少し変わった。
「それから?」
「大きな音がしました。何か重たいものが落ちたみたいな」
美咲は両手を膝の上で握った。
「びっくりして、玄関から廊下を覗いたんですけど、誰もいなくて」
「廊下には?」
「はい。見える範囲には誰もいませんでした」
「そのとき、窓の外も確認しました?」
「いいえ。暗かったですし、外は怖くて……」
美咲は少し俯いた。
「今思えば、下で何か起きていたのかもしれないんですよね」
千景はすぐに答えなかった。
佐伯俊一が死亡したのは、まさにその時間帯だった。
足音。
短い叫び声。
落下音。
順番だけなら、転落事故と符合する。
ただし、実際に佐伯のものだったかどうかは、まだ分からない。
「……怖かったですよね」
千景が言うと、美咲は小さく笑った。
「ええ。正直、ちょっと」
「無理に思い出さなくても大丈夫ですから」
「ありがとうございます」
千景は、もう一度窓の外を見た。
そこには、普段と変わらない外廊下がある。
人が歩くための床も、手すりもある。
ただ、その向こう側には何もない。
もし美咲の聞いた音が、本当に建物の外側から近づいてきたものだったなら。
そこには、人が歩ける何かが存在していたことになる。
◇
「高梨さん、あと一つだけいいですか」
律が尋ねた。
「はい」
「昨夜の出来事を、誰かにお話しされましたか?」
「今朝、管理会社に電話しました」
「昨夜の時点では?」
「誰にも。ニュースで近くの建物から人が落ちたと知って、それで気になって……」
「なるほど」
律はメモを確認した。
「足音を聞いた時刻について、もう少し絞り込めるものはありますか。例えば、その直前に誰かと電話をしていたとか」
「あ……」
美咲は何かを思い出したように顔を上げた。
「友達とメッセージをやり取りしていました」
「確認していただいても?」
「はい。少し待ってください」
美咲はスマートフォンを取り出した。
画面を数回操作し、時刻を確認する。
「八時四十七分に返事を送ってます。その後、お茶を淹れようとしたので……たぶん、それから数分以内だと思います」
「ありがとうございます」
律は時刻を書き加えた。
二十時四十七分以降。
佐伯が転落したと考えられる時間帯と重なる。
「もう十分です。ご協力ありがとうございました」
律が頭を下げる。
千景も続いた。
「ありがとうございました。すごく助かりました」
「いえ……でも、こんな話で何か分かるんでしょうか」
「まだ分かんないです」
千景は正直に答えた。
「でも、聞けてよかったと思ってます」
美咲は少し不思議そうな顔をした。
「そうですか」
「はい」
千景は笑った。
「ちゃんと調べてみます」
美咲は、安心したように小さく頷いた。
その顔を見て、千景は少しだけ胸が痛くなった。
自分たちは、単なる足音の話として聞いているわけではない。
昨夜、この近くで人が死んでいる。
それに異能が関係しているかもしれない。
けれど、美咲はそんなことを知らない。
知らないまま、いつもと同じ部屋で暮らしている。
千景は玄関へ向かいながら、もう一度だけ振り返った。
「高梨さん」
「はい?」
「もしまた変な音がしたり、何か気になることがあっても、自分で確かめに行かないでくださいね」
美咲は少し驚いたようだった。
「……何か、危ないことでもあるんですか?」
「まだ分かりません。でも、昨日は実際に人が亡くなってますから」
「……そうですね」
「気になることがあったら、一人で調べようとしないで、誰かに相談してください。管理会社の人でも、警察でもいいので」
美咲は小さく頷いた。
「はい。分かりました。ありがとうございます」
千景は頭を下げ、部屋を後にした。
◇
B棟の九階外廊下。
千景は、美咲の部屋の前で足を止めた。
「……律」
「はい」
「ちょっと、こっち来て」
千景は外廊下の手すりへ近づいた。
その向こうには、A棟の点検テラスが見える。
さっきまで自分たちが立っていた場所だった。
「ここから見ると、結構近いね」
「そうですね」
「八メートルだっけ」
「およそ、それくらいだそうです」
千景は二棟の間を眺めた。
九階の高さ。
空中には何もない。
「……もし橋があったらさ」
千景が呟く。
「向こうから、こっちまで歩いて来られるよね」
「橋の構造にもよりますが、可能でしょうね」
「で、その途中で橋がなくなったら?」
律は少し考えた。
「渡っていた人は落下するでしょう」
「だよね」
千景は頷いた。
それなら、佐伯が二棟の中間付近で発見されたことにも説明がつく。
ただし、まだ仮説にすぎない。
「喬本さんの名前が『橋本』になるから、そう考えたんですよね」
「まあ、それもあるけど」
千景は手すりに肘をついた。
「高梨さんの話もさ。外から足音が近づいてきたって言ってたじゃん」
「正確には、そう聞こえた、ですね」
「ああ、うん」
「実際の音源が建物の間だったとは、まだ確認できていません」
「分かってるって」
千景は少しだけ口を尖らせる。
「でも、本当に外から来てたなら、何か足場があったはずでしょ」
「そうですね」
「で、その足場が途中でなくなった」
「……なるほど」
律はA棟の点検テラスへ視線を移した。
「ただ、いくつか確認が必要ですね」
「例えば?」
「まず、高梨さんが聞いた音が、実際に建物の間から聞こえていたのかどうか」
「うん」
「それから、仮に橋のようなものが存在していたとして、どうやって両側の手すりを越えたのか」
千景はA棟とB棟の柵を見比べた。
「あー……確かに」
橋を架けるだけでは、簡単に行き来できるとは限らない。
どの高さにつながるのか。
どこを足場にするのか。
そうしたことも考えなければならない。
「それに、橋が消えたとしても、なぜ消えたのかは別の問題です」
律が続けた。
「事故で消えたのか、誰かが意図的に消したのか。それによって事件の意味が変わります」
「……うん」
千景は小さく頷いた。
そこが、一番重要だった。
喬本に橋を架ける能力があったとしても。
佐伯がそこから落ちたとしても。
それだけでは、殺人だったとは言えない。
「ま、まずは本人に聞かないとね」
「ええ」
律はスマートフォンを取り出した。
「A棟の管理担当の方に、喬本氏の勤務先へ面会の希望を伝えていただいています」
「お、仕事早い」
「昨夜の入館について、所有者側でも確認したいことがあるそうですから」
「会ってくれるかな」
「分かりません。あくまで任意ですので」
「そっか」
千景は手すりから離れた。
「じゃあ、会ってくれることを祈ろうか」
◇
喬本直人が面会に応じたのは、それから一時間ほど後のことだった。
場所は、A棟の一階にある小さな応接室。
建物の管理担当者が同席し、昨夜の入館について確認するという形で時間を取ってもらった。
喬本は、写真で見たときよりも疲れているように見えた。
三十九歳。
設備管理会社に勤める、ごく普通の会社員。
作業服ではなく、地味な色のシャツを着ていた。
少し痩せた顔。
目の下には、薄い隈がある。
「……喬本です」
低い声だった。
「月成千景です。お時間ありがとうございます」
「竟宮律です。よろしくお願いします」
喬本は二人を見て、わずかに眉を寄せた。
「……学生さん、ですか」
「はい」
千景は頷いた。
「変に思いますよね」
「いえ……」
喬本は管理担当者へ目を向けた。
「昨日の件について、建物の所有者側でも確認したいことがあると聞いたんですが」
「ええ。お二人には月成様の方から調査をお願いしているんです」
「……そうですか」
喬本は短く答えた。
納得したようには見えなかった。
それでも、席を立とうとはしない。
律は、手元の資料を開いた。
「昨夜、佐伯俊一さんと一緒にこの建物へ入られたことは、間違いありませんか」
「……はい」
「九階へ上がられたことも?」
「はい」
「設備の点検が目的だったのでしょうか」
喬本は少し黙った。
「……佐伯さんから、確認したい場所があると言われて」
「具体的には、何を?」
「それは……」
喬本は視線を落とした。
「詳しくは、聞いていませんでした」
千景は、その顔を見つめた。
答えるまでの間が、少し長い。
律はさらに尋ねる。
「管理会社の作業記録には、昨夜の点検予定がありませんでした」
「……急な話だったので」
「緊急の設備異常も報告されていません」
「佐伯さんが、見ておきたい場所があると……」
喬本は同じ説明を繰り返した。
千景は腕を組んだ。
「ねえ、喬本さん」
「……はい」
「佐伯さんって、どんな人だったんですか?」
喬本が顔を上げた。
「どんな……?」
「うん。仕事でよく一緒になってたんですよね」
「……そうですね」
「仲はよかった?」
「普通です」
「普通?」
「仕事の付き合いですから」
喬本は短く答えた。
千景は少し考えた。
「じゃあ、嫌いだった?」
喬本の表情が、わずかに強張った。
律が千景を見る。
「千景さん」
「いや、だって。仲がいいかどうかって、結構大事じゃない?」
「質問の意図は分かりますが、もう少し具体的に聞いた方がよいかと」
「あ、そっか」
千景は喬本へ向き直った。
「ごめんなさい。変な聞き方した」
「……いえ」
喬本は俯いたままだった。
千景は、少し声を落とした。
「佐伯さんが亡くなったこと、どう思ってます?」
喬本はすぐには答えなかった。
数秒。
沈黙が続く。
「……残念です」
ようやく、それだけを口にした。
千景は、その言葉を聞いていた。
残念。
確かに、そう答えるのが普通だろう。
ただ、喬本の声には、何か別のものが混じっているように思えた。
悲しみなのか。
恐怖なのか。
それとも。
千景には、まだ分からなかった。
◇
「昨夜のことで、もう少し確認させてください」
律が言った。
喬本は顔を上げた。
「佐伯さんが転落された瞬間を、ご覧になりましたか」
「……いいえ」
「では、最後に佐伯さんを見たのは?」
「九階です」
「点検テラスでしょうか」
「……はい」
「その後、佐伯さんがどうされたのかは?」
喬本は唇を結んだ。
「……分かりません」
律は一拍置いた。
「ですが、防犯映像では二十時五十八分に、喬本さんだけが建物を出ています」
「……はい」
「喬本さんが建物を出るまでに、佐伯さんとはどのように別れたのでしょうか」
喬本の視線が止まった。
さっきまでより、明らかに長い沈黙だった。
「……佐伯さんが、残ると言ったので」
「九階に?」
「はい」
「お一人で残ると?」
「……そうです」
「理由は聞かれましたか」
「聞いていません」
「佐伯さんを残して、喬本さんだけが一階へ戻った?」
「……はい」
律は喬本を見た。
「その時点で、佐伯さんに変わった様子はありませんでしたか」
「ありませんでした」
「何か持っていたものや、見ていた場所で気になったことは?」
「……覚えていません」
答えが短くなっていく。
千景は黙って、その様子を見ていた。
佐伯が一人で残ると言った。
なら、なぜ。
設備点検でもない九階のテラスへ、夜に残る必要があったのか。
問いは増えた。
だが、喬本はそれ以上を話す気がないように見える。
律もしばらく喬本を見つめていたが、それ以上は追及しなかった。
「分かりました。ありがとうございます」
資料を閉じる。
「お話しいただける範囲は、分かりました」
喬本は、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
そのとき、千景が口を開いた。
「あ、そうだ」
喬本が顔を向ける。
「喬本さんって、名字を間違えられること多くないですか?」
「……名字?」
「はい。橋本って書かれたりとか」
喬本は、少し驚いたようだった。
「……ありますね」
「やっぱり」
「初対面の人には、よく」
「ですよね。読みは同じですもんね」
千景は笑った。
「木偏があるかないかだけだし」
喬本は、千景の顔を見た。
その目が、わずかに細くなる。
「……それが、何か?」
「いえ。珍しい名字だなと思っただけです」
「……そうですか」
喬本はそれ以上、何も言わなかった。
千景も追及しない。
名字の漢字について尋ねただけで、相手を欠字の家系だと決めつけることはできない。
まして、異能の有無など分かるはずもなかった。
ただ。
喬本の反応を見て、千景は少しだけ気になった。
名字を間違えられることくらい、珍しくもない。
それなのに、なぜ今の質問で、あんな顔をしたのだろう。
そのときだった。
喬本のスマートフォンが震えた。
喬本は画面を見て、すぐに立ち上がった。
「……すみません」
「どうぞ」
律が答える。
「家族からなので、少し……」
喬本は断りを入れ、応接室の外へ出ていった。
扉が閉まる。
千景は、喬本の座っていた椅子を見つめた。
「……ねえ、律」
「はい」
「あの人、何か隠してるよね」
「そう見えますね」
「お。今回はあっさり認めるんだ」
「質問に対して、答えを避けている箇所がいくつかありましたから」
「だよね」
「ただ、隠していることがあるとしても、それが殺人に関係するとは限りません」
「分かってるって」
千景は小さく息を吐いた。
「でもさ」
「はい」
「あの人、ずっと怖がってるみたいだった」
律は千景を見た。
「怖がっている?」
「うん。何か聞かれるたびに、答えを間違えたら大変なことになる、みたいな」
千景は言葉を探した。
「怒られるのを怖がってる感じじゃないんだよね」
「……なるほど」
律は少し考えた。
「何を恐れているのかは、現時点では分かりませんね」
「そうだね」
千景は閉じた扉を見た。
何かを隠している。
けれど、何を隠しているのかまでは見えない。
能力のことなのか。
佐伯のことなのか。
それとも、まったく別のことなのか。
「……律」
「はい」
「喬本さんのこと、もう少し調べようか」
「そうですね」
律は頷いた。
「勤務先での経歴や、過去に関わった作業について、確認できる範囲で調べてみましょう」
「何か出てくるかな」
「分かりません。ただ、仮に異能が発現しているなら、過去に何らかの形で使われた可能性はあります」
「……なるほど」
千景は少し笑った。
「いいじゃん。それ」
律も小さく頷いた。
喬本の名字から推測できるのは、あくまで力の方向性だけ。
何ができるのかは、本人の生き方と結びついている。
ならば、その人物がこれまで何をしてきたのかを知ることには意味がある。
千景は椅子の背にもたれた。
「……橋を架ける人、か」
ぽつりと呟く。
その橋が、本当に存在するのかどうか。
まだ、分からない。
けれど、もし存在するのなら。
昨夜、佐伯俊一はその橋を渡ろうとしていたのかもしれない。
そして。
渡りきることが、できなかったのかもしれない。
お読みいただきありがとうございます。
本作を少しでも「面白いな」「続きが気になるな」と思ってくださった方は、ぜひ下にある【☆☆☆☆☆】の評価や、ブックマークで応援していただけると嬉しいです。




