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欠字異聞  作者: わかめ
渡りきれなかった橋

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3/8

第3話『窓の外の足音』

 人が歩く音なんて、普段なら気にも留めない。


 まして集合住宅なら、廊下を誰かが通ることくらい珍しくもない。


 だからこそ、千景には引っかかっていた。


「……ねえ、律」


「はい」


「足音が聞こえたってだけなら、わざわざ管理会社に連絡しないよね」


「必ずしもそうとは限りませんが、何か気になる点があったのでしょうね」


「だよねえ」


 月成千景は、隣に立つ竟宮律を見た。


 二人がいるのは、B棟の一階エントランスだった。


 A棟の管理担当者を通じて連絡を取ったところ、B棟の管理会社が事情を確認し、足音について報告した住人への取次ぎを了承してくれたのだ。


 もっとも、すぐに話を聞けるとは限らない。


 相手が断れば、それまでである。


「こういうのって、警察の人なら簡単に聞けたりするのかな」


「警察でも、任意の聞き取りなら相手の協力が必要ですよ」


「あ、そっか」


「僕たちはなおさらです」


「ほんと、律はそういうところきっちりしてるよね」


「千景さんがあまり気にされないので」


「気にしてるってば」


 千景が口を尖らせたところで、管理会社の担当者が戻ってきた。


「お待たせしました」


 四十代ほどの女性だった。


「高梨様から、お話をしても構わないとお返事をいただきました。ただ、長時間は難しいそうです」


「ありがとうございます!」


 千景が頭を下げる。


 律も続いた。


「ご本人にも、お手数をおかけするとお伝えください」


「はい。九階のお部屋にいらっしゃいますので、ご案内します」


 二人は女性の後について、エレベーターに乗った。


 千景は階数表示を見上げる。


 九階。


 昨夜、佐伯俊一が死亡した高さと同じだった。


     ◇


 高梨美咲は、二十代後半の女性だった。


 肩にかかる程度の髪を後ろでまとめ、薄い色のカーディガンを羽織っている。


 玄関先に現れた彼女は、千景たちを見て少し驚いたようだった。


「あの……お二人が?」


「あ、はい。月成千景です。こっちは竟宮律」


「竟宮です。お時間をいただき、ありがとうございます」


 律が丁寧に頭を下げる。


 美咲は少し困惑した様子で二人を見比べた。


「すみません。もっと年上の方が来るのかと思っていて」


「ですよねえ」


 千景は苦笑した。


「でも、ちゃんと話は聞けるので。よかったら、少しだけお願いします」


「……はい」


 美咲は二人を室内へ招き入れた。


 管理会社の担当者は、必要があれば一階にいると告げて戻っていく。


 案内されたのは、小さなリビングだった。


 白い壁に、木目調の家具。


 テーブルの上には読みかけの雑誌と、半分ほど中身の残ったマグカップが置かれている。


 どこにでもある、一人暮らしの部屋だった。


 美咲は二人に椅子を勧め、自分も向かいに腰を下ろした。


「それで……昨日の音のこと、ですよね」


「はい」


 律が頷く。


「管理会社の方から、昨夜、普段とは違う足音を聞かれたと伺いました」


「ええ。そうなんです」


「よろしければ、覚えている範囲でお話しいただけますか」


 美咲は少し考え込んだ。


「……変な話だと思われるかもしれないんですけど」


「大丈夫ですよ」


 千景が答える。


「まだ何があったのか分かってないから、変かどうかも判断できないし」


 美咲は、少しだけ表情を緩めた。


「ありがとうございます」


 それから、ゆっくりと話し始めた。


「昨日の夜、家で夕飯を食べて、その後はテレビを見ていたんです」


「何時くらいですか?」


「九時前だったと思います。八時五十分とか、そのくらいで……正確には覚えてないんですけど」


 律は手元のメモに時刻を書き込んだ。


「続けてください」


「キッチンに行って、お茶を淹れようとしていたときです。窓の外から、足音みたいなものが聞こえて」


「足音?」


「はい。カツ、カツって。硬い靴で歩いているような音でした」


 千景は室内を見回した。


「窓って、どれですか?」


「あちらです」


 美咲が指さしたのは、キッチンの近くにある小窓だった。


 曇りガラスになっていて、その向こうには外廊下がある。


「この窓、廊下に面してるんですね」


「はい。なので、普通に人が歩いていたら音は聞こえるんです」


「じゃあ、何が変だったんですか?」


 美咲は少し困ったような顔をした。


「……そこなんです」


 彼女は立ち上がり、窓の方へ歩いた。


 千景と律も許可を得て近づく。


「最初は、誰かが廊下を歩いているんだと思いました。でも、何というか……」


 美咲は言葉を探した。


「音がする方向が、いつもと違ったんです」


「方向?」


「廊下って、こっちからあっちへ続いてるじゃないですか」


 美咲は窓の左右を指さした。


「普段の足音なら、廊下の端から近づいてきて、窓の前を通って、反対側へ行くんです」


「うん」


「でも、昨日のは……」


 美咲は窓の向こうを見た。


「外から、こっちへ近づいてくるみたいな感じがして」


 千景は眉を上げた。


「外?」


「ええ。廊下の向こう側っていうか……建物の外側から」


 律が尋ねる。


「つまり、廊下に沿って移動する音ではなかったように感じた、ということでしょうか」


「はい。そんな感じです」


「ただ、実際にどこから聞こえたのかは分からない?」


「……そうですね」


 美咲は頷いた。


「建物の間って、音が響くこともありますから。聞き間違いかもしれません」


 千景は窓の外を眺めた。


 小窓のすぐ向こうには外廊下。


 その外側には手すりがあり、さらに向こうにA棟の壁が見える。


 二棟の間隔は、およそ八メートル。


 九階の高さである。


 そこを人が歩いてくるなど、普通ならあり得ない。


「それで、どうしたんですか?」


 千景が尋ねた。


「最初は気にしなかったんです。でも、何歩か聞こえた後で、急に音がしなくなって」


「急に?」


「はい」


 美咲は小さく頷いた。


「足音が止まったと思ったら、すぐ後に人の声みたいなものが聞こえたんです」


「何て言ってたか分かります?」


「いえ。短い声で……叫び声だったのかもしれません」


 千景の表情が少し変わった。


「それから?」


「大きな音がしました。何か重たいものが落ちたみたいな」


 美咲は両手を膝の上で握った。


「びっくりして、玄関から廊下を覗いたんですけど、誰もいなくて」


「廊下には?」


「はい。見える範囲には誰もいませんでした」


「そのとき、窓の外も確認しました?」


「いいえ。暗かったですし、外は怖くて……」


 美咲は少し俯いた。


「今思えば、下で何か起きていたのかもしれないんですよね」


 千景はすぐに答えなかった。


 佐伯俊一が死亡したのは、まさにその時間帯だった。


 足音。


 短い叫び声。


 落下音。


 順番だけなら、転落事故と符合する。


 ただし、実際に佐伯のものだったかどうかは、まだ分からない。


「……怖かったですよね」


 千景が言うと、美咲は小さく笑った。


「ええ。正直、ちょっと」


「無理に思い出さなくても大丈夫ですから」


「ありがとうございます」


 千景は、もう一度窓の外を見た。


 そこには、普段と変わらない外廊下がある。


 人が歩くための床も、手すりもある。


 ただ、その向こう側には何もない。


 もし美咲の聞いた音が、本当に建物の外側から近づいてきたものだったなら。


 そこには、人が歩ける何かが存在していたことになる。


     ◇


「高梨さん、あと一つだけいいですか」


 律が尋ねた。


「はい」


「昨夜の出来事を、誰かにお話しされましたか?」


「今朝、管理会社に電話しました」


「昨夜の時点では?」


「誰にも。ニュースで近くの建物から人が落ちたと知って、それで気になって……」


「なるほど」


 律はメモを確認した。


「足音を聞いた時刻について、もう少し絞り込めるものはありますか。例えば、その直前に誰かと電話をしていたとか」


「あ……」


 美咲は何かを思い出したように顔を上げた。


「友達とメッセージをやり取りしていました」


「確認していただいても?」


「はい。少し待ってください」


 美咲はスマートフォンを取り出した。


 画面を数回操作し、時刻を確認する。


「八時四十七分に返事を送ってます。その後、お茶を淹れようとしたので……たぶん、それから数分以内だと思います」


「ありがとうございます」


 律は時刻を書き加えた。


 二十時四十七分以降。


 佐伯が転落したと考えられる時間帯と重なる。


「もう十分です。ご協力ありがとうございました」


 律が頭を下げる。


 千景も続いた。


「ありがとうございました。すごく助かりました」


「いえ……でも、こんな話で何か分かるんでしょうか」


「まだ分かんないです」


 千景は正直に答えた。


「でも、聞けてよかったと思ってます」


 美咲は少し不思議そうな顔をした。


「そうですか」


「はい」


 千景は笑った。


「ちゃんと調べてみます」


 美咲は、安心したように小さく頷いた。


 その顔を見て、千景は少しだけ胸が痛くなった。


 自分たちは、単なる足音の話として聞いているわけではない。


 昨夜、この近くで人が死んでいる。


 それに異能が関係しているかもしれない。


 けれど、美咲はそんなことを知らない。


 知らないまま、いつもと同じ部屋で暮らしている。


 千景は玄関へ向かいながら、もう一度だけ振り返った。


「高梨さん」


「はい?」


「もしまた変な音がしたり、何か気になることがあっても、自分で確かめに行かないでくださいね」


 美咲は少し驚いたようだった。


「……何か、危ないことでもあるんですか?」


「まだ分かりません。でも、昨日は実際に人が亡くなってますから」


「……そうですね」


「気になることがあったら、一人で調べようとしないで、誰かに相談してください。管理会社の人でも、警察でもいいので」


 美咲は小さく頷いた。


「はい。分かりました。ありがとうございます」


 千景は頭を下げ、部屋を後にした。


     ◇


 B棟の九階外廊下。


 千景は、美咲の部屋の前で足を止めた。


「……律」


「はい」


「ちょっと、こっち来て」


 千景は外廊下の手すりへ近づいた。


 その向こうには、A棟の点検テラスが見える。


 さっきまで自分たちが立っていた場所だった。


「ここから見ると、結構近いね」


「そうですね」


「八メートルだっけ」


「およそ、それくらいだそうです」


 千景は二棟の間を眺めた。


 九階の高さ。


 空中には何もない。


「……もし橋があったらさ」


 千景が呟く。


「向こうから、こっちまで歩いて来られるよね」


「橋の構造にもよりますが、可能でしょうね」


「で、その途中で橋がなくなったら?」


 律は少し考えた。


「渡っていた人は落下するでしょう」


「だよね」


 千景は頷いた。


 それなら、佐伯が二棟の中間付近で発見されたことにも説明がつく。


 ただし、まだ仮説にすぎない。


「喬本さんの名前が『橋本』になるから、そう考えたんですよね」


「まあ、それもあるけど」


 千景は手すりに肘をついた。


「高梨さんの話もさ。外から足音が近づいてきたって言ってたじゃん」


「正確には、そう聞こえた、ですね」


「ああ、うん」


「実際の音源が建物の間だったとは、まだ確認できていません」


「分かってるって」


 千景は少しだけ口を尖らせる。


「でも、本当に外から来てたなら、何か足場があったはずでしょ」


「そうですね」


「で、その足場が途中でなくなった」


「……なるほど」


 律はA棟の点検テラスへ視線を移した。


「ただ、いくつか確認が必要ですね」


「例えば?」


「まず、高梨さんが聞いた音が、実際に建物の間から聞こえていたのかどうか」


「うん」


「それから、仮に橋のようなものが存在していたとして、どうやって両側の手すりを越えたのか」


 千景はA棟とB棟の柵を見比べた。


「あー……確かに」


 橋を架けるだけでは、簡単に行き来できるとは限らない。


 どの高さにつながるのか。


 どこを足場にするのか。


 そうしたことも考えなければならない。


「それに、橋が消えたとしても、なぜ消えたのかは別の問題です」


 律が続けた。


「事故で消えたのか、誰かが意図的に消したのか。それによって事件の意味が変わります」


「……うん」


 千景は小さく頷いた。


 そこが、一番重要だった。


 喬本に橋を架ける能力があったとしても。


 佐伯がそこから落ちたとしても。


 それだけでは、殺人だったとは言えない。


「ま、まずは本人に聞かないとね」


「ええ」


 律はスマートフォンを取り出した。


「A棟の管理担当の方に、喬本氏の勤務先へ面会の希望を伝えていただいています」


「お、仕事早い」


「昨夜の入館について、所有者側でも確認したいことがあるそうですから」


「会ってくれるかな」


「分かりません。あくまで任意ですので」


「そっか」


 千景は手すりから離れた。


「じゃあ、会ってくれることを祈ろうか」


     ◇


 喬本直人が面会に応じたのは、それから一時間ほど後のことだった。


 場所は、A棟の一階にある小さな応接室。


 建物の管理担当者が同席し、昨夜の入館について確認するという形で時間を取ってもらった。


 喬本は、写真で見たときよりも疲れているように見えた。


 三十九歳。


 設備管理会社に勤める、ごく普通の会社員。


 作業服ではなく、地味な色のシャツを着ていた。


 少し痩せた顔。


 目の下には、薄い隈がある。


「……喬本です」


 低い声だった。


「月成千景です。お時間ありがとうございます」


「竟宮律です。よろしくお願いします」


 喬本は二人を見て、わずかに眉を寄せた。


「……学生さん、ですか」


「はい」


 千景は頷いた。


「変に思いますよね」


「いえ……」


 喬本は管理担当者へ目を向けた。


「昨日の件について、建物の所有者側でも確認したいことがあると聞いたんですが」


「ええ。お二人には月成様の方から調査をお願いしているんです」


「……そうですか」


 喬本は短く答えた。


 納得したようには見えなかった。


 それでも、席を立とうとはしない。


 律は、手元の資料を開いた。


「昨夜、佐伯俊一さんと一緒にこの建物へ入られたことは、間違いありませんか」


「……はい」


「九階へ上がられたことも?」


「はい」


「設備の点検が目的だったのでしょうか」


 喬本は少し黙った。


「……佐伯さんから、確認したい場所があると言われて」


「具体的には、何を?」


「それは……」


 喬本は視線を落とした。


「詳しくは、聞いていませんでした」


 千景は、その顔を見つめた。


 答えるまでの間が、少し長い。


 律はさらに尋ねる。


「管理会社の作業記録には、昨夜の点検予定がありませんでした」


「……急な話だったので」


「緊急の設備異常も報告されていません」


「佐伯さんが、見ておきたい場所があると……」


 喬本は同じ説明を繰り返した。


 千景は腕を組んだ。


「ねえ、喬本さん」


「……はい」


「佐伯さんって、どんな人だったんですか?」


 喬本が顔を上げた。


「どんな……?」


「うん。仕事でよく一緒になってたんですよね」


「……そうですね」


「仲はよかった?」


「普通です」


「普通?」


「仕事の付き合いですから」


 喬本は短く答えた。


 千景は少し考えた。


「じゃあ、嫌いだった?」


 喬本の表情が、わずかに強張った。


 律が千景を見る。


「千景さん」


「いや、だって。仲がいいかどうかって、結構大事じゃない?」


「質問の意図は分かりますが、もう少し具体的に聞いた方がよいかと」


「あ、そっか」


 千景は喬本へ向き直った。


「ごめんなさい。変な聞き方した」


「……いえ」


 喬本は俯いたままだった。


 千景は、少し声を落とした。


「佐伯さんが亡くなったこと、どう思ってます?」


 喬本はすぐには答えなかった。


 数秒。


 沈黙が続く。


「……残念です」


 ようやく、それだけを口にした。


 千景は、その言葉を聞いていた。


 残念。


 確かに、そう答えるのが普通だろう。


 ただ、喬本の声には、何か別のものが混じっているように思えた。


 悲しみなのか。


 恐怖なのか。


 それとも。


 千景には、まだ分からなかった。


     ◇


「昨夜のことで、もう少し確認させてください」


 律が言った。


 喬本は顔を上げた。


「佐伯さんが転落された瞬間を、ご覧になりましたか」


「……いいえ」


「では、最後に佐伯さんを見たのは?」


「九階です」


「点検テラスでしょうか」


「……はい」


「その後、佐伯さんがどうされたのかは?」


 喬本は唇を結んだ。


「……分かりません」


 律は一拍置いた。


「ですが、防犯映像では二十時五十八分に、喬本さんだけが建物を出ています」


「……はい」


「喬本さんが建物を出るまでに、佐伯さんとはどのように別れたのでしょうか」


 喬本の視線が止まった。


 さっきまでより、明らかに長い沈黙だった。


「……佐伯さんが、残ると言ったので」


「九階に?」


「はい」


「お一人で残ると?」


「……そうです」


「理由は聞かれましたか」


「聞いていません」


「佐伯さんを残して、喬本さんだけが一階へ戻った?」


「……はい」


 律は喬本を見た。


「その時点で、佐伯さんに変わった様子はありませんでしたか」


「ありませんでした」


「何か持っていたものや、見ていた場所で気になったことは?」


「……覚えていません」


 答えが短くなっていく。


 千景は黙って、その様子を見ていた。


 佐伯が一人で残ると言った。


 なら、なぜ。


 設備点検でもない九階のテラスへ、夜に残る必要があったのか。


 問いは増えた。


 だが、喬本はそれ以上を話す気がないように見える。


 律もしばらく喬本を見つめていたが、それ以上は追及しなかった。


「分かりました。ありがとうございます」


 資料を閉じる。


「お話しいただける範囲は、分かりました」


 喬本は、少しだけ肩の力を抜いたようだった。


 そのとき、千景が口を開いた。


「あ、そうだ」


 喬本が顔を向ける。


「喬本さんって、名字を間違えられること多くないですか?」


「……名字?」


「はい。橋本って書かれたりとか」


 喬本は、少し驚いたようだった。


「……ありますね」


「やっぱり」


「初対面の人には、よく」


「ですよね。読みは同じですもんね」


 千景は笑った。


「木偏があるかないかだけだし」


 喬本は、千景の顔を見た。


 その目が、わずかに細くなる。


「……それが、何か?」


「いえ。珍しい名字だなと思っただけです」


「……そうですか」


 喬本はそれ以上、何も言わなかった。


 千景も追及しない。


 名字の漢字について尋ねただけで、相手を欠字の家系だと決めつけることはできない。


 まして、異能の有無など分かるはずもなかった。


 ただ。


 喬本の反応を見て、千景は少しだけ気になった。


 名字を間違えられることくらい、珍しくもない。


 それなのに、なぜ今の質問で、あんな顔をしたのだろう。


 そのときだった。


 喬本のスマートフォンが震えた。


 喬本は画面を見て、すぐに立ち上がった。


「……すみません」


「どうぞ」


 律が答える。


「家族からなので、少し……」


 喬本は断りを入れ、応接室の外へ出ていった。


 扉が閉まる。


 千景は、喬本の座っていた椅子を見つめた。


「……ねえ、律」


「はい」


「あの人、何か隠してるよね」


「そう見えますね」


「お。今回はあっさり認めるんだ」


「質問に対して、答えを避けている箇所がいくつかありましたから」


「だよね」


「ただ、隠していることがあるとしても、それが殺人に関係するとは限りません」


「分かってるって」


 千景は小さく息を吐いた。


「でもさ」


「はい」


「あの人、ずっと怖がってるみたいだった」


 律は千景を見た。


「怖がっている?」


「うん。何か聞かれるたびに、答えを間違えたら大変なことになる、みたいな」


 千景は言葉を探した。


「怒られるのを怖がってる感じじゃないんだよね」


「……なるほど」


 律は少し考えた。


「何を恐れているのかは、現時点では分かりませんね」


「そうだね」


 千景は閉じた扉を見た。


 何かを隠している。


 けれど、何を隠しているのかまでは見えない。


 能力のことなのか。


 佐伯のことなのか。


 それとも、まったく別のことなのか。


「……律」


「はい」


「喬本さんのこと、もう少し調べようか」


「そうですね」


 律は頷いた。


「勤務先での経歴や、過去に関わった作業について、確認できる範囲で調べてみましょう」


「何か出てくるかな」


「分かりません。ただ、仮に異能が発現しているなら、過去に何らかの形で使われた可能性はあります」


「……なるほど」


 千景は少し笑った。


「いいじゃん。それ」


 律も小さく頷いた。


 喬本の名字から推測できるのは、あくまで力の方向性だけ。


 何ができるのかは、本人の生き方と結びついている。


 ならば、その人物がこれまで何をしてきたのかを知ることには意味がある。


 千景は椅子の背にもたれた。


「……橋を架ける人、か」


 ぽつりと呟く。


 その橋が、本当に存在するのかどうか。


 まだ、分からない。


 けれど、もし存在するのなら。


 昨夜、佐伯俊一はその橋を渡ろうとしていたのかもしれない。


 そして。


 渡りきることが、できなかったのかもしれない。

お読みいただきありがとうございます。


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